新しい風・2
「大状元、新しい風が吹き始めましたな」
校書館の入り口で、いきなり朴時烈先生に呼び止められた。このたび一階級位を上げた朴昭儀は先生の娘だ。
「後宮の勢力図は多少変わりましたが、相変わらずこの国は貧乏で、多くの民は飢えています」
「ハハハ、いつもながら辛口ですな、大状元。だが、そうおっしゃるあなたも官位が内侍としては最高の従一位になられたではないですか?」
「はあ。今度公主となられる御二方も含め、御希望下さった姫君たちに学問をお教え致しますので、そのせいでしょう。まあ、土下座の回数が一層減るのは、時間の無駄が減って有りがたいですが」
「そうそう。それです。いかなる内容を姫君たちに御教授あそばしますか?」
「朱子学以外です。昨日はこの国の地図をお示しして、三国時代の歴史などについて、お話いたしました」
「ほほう、私はそのあたりは全くの不案内です。あなたがおっしゃる空理空論をこね回すような書物ばかり読みすぎましてな。三国のどういった事柄を?」
「偉大な女王と、外敵に立ち向かった勇猛なお妃ですね。命がけで祖国のために尽くされた方々です。女も志を持って偉大なる業績を上げる事も可能なのだと、言葉は悪いですが、多少たきつけたかもしれません」
「いやあ……女王ですか」
「はい。唐の時代の記録にも残っているはずの方です。まことに御存知ありませんでしたか?」
「はあ、恥ずかしながら」
私は幾つかの歴史書の名を上げた。女王の名を先生程の高名な学者でも全く認識していなかったので驚いた。
「中国の御仕着せの歴史観に振り回される事なく、自らの国にかつて生きていた優れた方たちの事績業績は、もっと認識されてしかるべきです。田畑の開墾は大切ですが、末代まで伝えるべき偉大な方々の旧跡を、知らず知らず破壊する事は珍しくありません。それもこれも、民が文字を知らず、学者が中国伝来の儒学一辺倒であったからでしょう」
ちょっと言い過ぎたかもしれない。だが先生はお怒りでは無いと思う。
「いやあ、今日は、幼い子供たちが学ぶための本を作る御計画について、伺うつもりでした」
力を貸してくださると有りがたいと話を振ると、「空理空論ばかり学んできたような爺ですが、お役に立てますかな?」と皮肉交じりに返された。が、めげずに、基本構想を説明すると、話に乗ってきた。
「ほうほう、女子のために風情ある書簡のやり取りの形で、季節のあいさつ、贈答や行事に関する常識、といったものを自然に身につけさせるのですか」
何のことはない。日本の寺子屋でメジャーだった「往来物」と言うジャンルのスタイルをパクった
「はい。家政に関して、食品・衣類・育児・医学といった事柄でわきまえておいた方が良い事を、解説するような書物も作りたいです」
商人には多彩な商品名・それらの産地・貨幣・取引のしきたりや決まり・生活の心得などについてまとめ、農民には農事歴を取り入れ主な農作業や作物に関する事柄・天候・害虫などの知識を教える、そういう実践的なテキスト類を作るつもりであると伝えると、興味を持ってくれた。
「百姓の仕事もあなたが常々おっしゃるように、時代の変化に連れ進歩すべきなのに、我が国は確かに何百年も前のままの状態かもしれませんな」
「ええ。水車一つ自力では作れませんから、灌漑も上手くいきません。水の問題が解決できませんと、作物のできる量は大きく増やせません。この国では職人の仕事を士大夫達が余りに低く見ていやしめるので、かつて存在していたはずの手仕事の技が幾つも途絶えています。水車を作るのに欠かせない木を曲げる技術も、この国には出来る職人がいません。皮肉な事に倭にはものづくりを大切にする気風があるので、もとは我が国から取り入れた技が、より高度になって根付いていたりするようです」
私の話を、一々頷いて聞いてくれたが、やがて、朴先生はクスッと笑いを漏らした。
「いやあ、あなたは徹底してますな。なるほど官位が多少上がるなど、大した事ではないのですな」
「私はおかしな奴らしいですから、さておきまして……後宮では、重要な意味合いが有るのではないでしょうか? 改めて、朴昭儀様の事、おめでとうございます。翁主様方にとりましても宜しゅう御座いましたね」
「おお、そうだ。お話が興味深くて忘れておりましたが、我が翁主様方も御学問所で学ばせて頂く事は出来ましょうか?」
「御本人が御希望でしたら、喜んでお引き受けいたします」
「おお、そうですか。それでは昭儀様と良くお話をして、改めて御挨拶に伺います」
「どうかお気遣い無く。ご本人方が興味がおありなら、私に畑でもどこででもお声をかけて下さい。順恵翁主様は、薬草畑を手伝って下さりながら、色々なお話をなさるのですから」
「まだお小さいのに、ご立派ですなあ」
「何はともあれ余り肩肘張らず、姉妹の皆様が仲良く楽しく学べると宜しいですね」
「なるほど、姉妹仲良くですか」
「ええ。皆様、王様の大切な姫君でいらっしゃいますから」
数日後、ささやかな学問所に、礼儀正しい可愛い生徒が二人増えたのだった。