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笛の音・3

「なあ、いっその事、捕盗庁で働くか? 」

「冗談じゃない。儲からないじゃない」

「まあ、なあ」


 ヤンホ兄さんの顔は、まんざら冗談でも無さそうだった。武術の心得が有る奴婢としては可能な選択肢だと言いたいのかもしれない。だが……身分的には官奴婢で、捜査活動の補助要員の女性の場合、給与なんて微々たるものだし、政治的な権力の絡む恐ろしい犯罪の秘密を知ったりしたら、逆に自分の身が危ないだろう。


 この国では、誰でも奴婢に落とされる危険と常に背中合わせだ。一度落とされたら、浮かび上がるのは大変だ。わずかな事で奴婢になるかも知れないという実感は、常に人々の上に有る。この国は密告を大いに奨励している。密告で功績を認められると、奴婢が良民に、側女の子が嫡出子扱いに、身分が上昇する。密告はするのが当たり前、足の引っ張り合いなんて日常茶飯事なのだ。

 常に近隣の誰かから密告されるかもしれない危険を意識しないといけない社会では、自分の街、自分の国なのに、自助努力で改善しようと言う機運も育ちにくい。小さな工夫の積み重ねも身分の賤しい者がしたことは、正しくても優れていても無視され踏みにじられがちだ。


 公道はただの通路という認識で、そこが汚れようが見苦しかろうが知った事ではない。日本なら家の前を掃き清め、ついでに家の近所の道路を少し掃き清め水を打つぐらい、普通だが、ここではおまるの中身をぶちまける事も珍しくないのだ。だから道路も常に臭い。


 更には清貧の思想というやつが、少数の例外を除くとあまり根付いていない。男女差別はひどいし、嫡出子以外は財産も相続できないし、色々差別も多い。正妻の子が馬鹿で側女の子が出来が良くても、ちゃんと科挙を受けさせてもらえるのは正妻の子だけ。正妻がよほど気に入ってくれて、自分の実子扱いにでもしてくれない限り、非嫡出子は何でも圧倒的に不利なのだ。


 宮中では年がら年中派閥争いを繰り返している。出身地と学閥でまずは所属グループが決まってしまう。有力な官吏を輩出した一族に生まれ合わせれば、たとえ分家でも大いに有利なのだ。

 王族や宮中の有力者が密貿易や不正な取引に携わっている事は珍しくないし、公金横領なんて当たり前だ。一族の一人が出世したら、その人間の伝手を頼って親類縁者が皆しがみつくのが当たり前の社会なのだから、こうした事は構造的な欠陥と言えるだろう。


「お偉い方の仰る事には、左様でございますって言うしかない」

「お偉い方に命令されたら、従わないとこっちの身が危ない」


 皆、卑屈になって生きている。イライラはもっと弱い者、家の中では女性に向けられるのだ。女性が優れた詩を読むと「婦徳に反する」などと言われて非難され、学問をしていると「小賢しい事を言う女は嫁に行けない」などと言う。


「女は三日殴らないと狐になる」

「他人の牛が逃げ回るのは見ものだ」

「溺れる犬は棒で叩け」


 こんな嫌なことわざを産む社会の中に投げ出して、私に一体何をしろと言うのか? ああ、いやだいやだ。

 それでもこの社会での恩人である母上が、晴れて都で暮らせるようにしてあげたい。

 そのためには商売に励まなくてはいけないのだ。貧しい家の娘達を針仕事をする工房に雇ったし、雇用主としての責任も有る。乗りかかった船だ。今更投げ出せない。


「いらっしゃいませ」


 店に出るときは庶民に許される範囲の麻や綿の素材で、清潔で少し気の利いた色遣いの服を着る。ベースは白い麻だが襟に少し刺繍を入れたりするのだ。


「その、風変りな模様の入った朽葉色の書類包みをくれ」


 おや、あの赤い官服を着ていた男性だ。今日は身分ある家の若様という感じの私服だ。整った容貌で姿勢が良い。宦官ではない証拠に、手入れの良い髭が生えている。日本にいた頃は男性の髭は苦手だったが、生やし方によっては悪くないと今は思う。ハワイアンキルトの手法を取り入れた大ぶりの一枚を買ってくれた。うちの商品の中では割合と高い方だ。


「ここはちゃんと一つ一つに値札がついている。分かりやすくて良いな。なるほど、付けは断っているのか」

「はい。以前、大変な目に会いましたので、こりまして」

「ふうむ。相手は士大夫か? 」

「はあ。まあ……御想像にお任せいたします」


 賤しい身分の女のくせに身分が高いものの事を悪しざまに言うと叱られて、鞭打ちを食らう事も有るのだ。つい先日も、この市場の露店の娘が五十叩きの刑になったばかりだ。うかつな事は言えない。


「ああ、いや、別に鞭打ちを食らわせるなどと考えていない。だからそう警戒しないでくれ」

「恐れ入ります」

 頭は下げておく方が無難だ。それも深めに。どうも卑屈な考えだが、それが現実的なのだ。

「この値札は、そなたが書いたものか」

「はい」

「ふうむ。置いてある品物も美しいが、筆跡も美しい。その金包み用の物をまとめて五枚くれ」

 お釣りを差し出すと「取っておけ」と言われる。そうした場合は値段相応のおまけをつけて、丁寧に紙に包む。

「計算も早いし、良い店だな。また来る」


 それ以来、身分の高そうなお客が連日やって来るようになった。素直に喜んでも大丈夫なのだろうか?

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