波乱・1
まだ、スルギが仕事から戻らぬうちに、私は早めに夕食を済ませ、内侍府の数人だけを供につれ邸に入った。すると珍しく忍和が一人きりでやって来て「申し上げたい事が御座います」と言った。
「兄と相談いたしましたが、宮中で少し賄賂をばら撒くつもりでおります」
「ほおお? 賄賂とな? 賄賂などと聞くと私の手許の銀を使わせるわけにも行かん」
「大状元様に過分な程の物を頂いておりますが、私の食い扶持は兄のおこぼれだけでも十分ですのに、保姆尚宮の官位と官職を賜り、下々に与える賄賂には十分すぎる程財物はございます」
「して、ひっそり撒けば良いものを……私の許しを求めるのはなぜだ?」
「兄と私の考えでは、東宮となられる成明様の御身分を盤石なものとし、母君で有られる大状元様が憂いなく国事に邁進なさる事が出来ますように、後宮を少しばかり掃除した方が宜しいかと」
「ほう? で、どのようにして掃除する?」
「噂を流し、それに踊る浅はかな不逞の輩を、私の考えでは宮廷の外に追い出すべきですが……大状元様のお考えは恐らく異なりましょう。御情け深くまっすぐな方ですから。兄も私もあの方は後ろ暗いはかりごとなど、お嫌いな事はよくよく存じております。ですから、こっそり、私が手を汚しますのでして」
「流す噂はどのようなものだ?」
「王様のお子が新しくお出来になった。今度は王子様かもしれない、それだけでございます。後宮の方々は互いにご自分以外の所に王様の夜の御渡りが有るのではないかと、疑心悪鬼に陥っております」
「ふふふ、お前の兄の仕業であろうが」
「はい。さようで。ですから、あとは仕上げの段階なのでございます」
「そうよな。命まで取るのは禁じる。愚か者でも成明の姉を産んだ者たちだ。後は、お前が兄とよく相談して、自分の主人が後々恨みを買う事の無いようにしてくれれば良い」
掃除されるのは、おそらく二人だと思われるが、私はあえて問いたださなかった。
その後スルギと共寝した後、朝食に間に合うように秘密の入り口から常御所に戻ったのだが、聞けば昌嬪が明け方から控えの間に詰めているらしい。朝食を食べながら、愚痴だか告げ口だか、出来の悪い兄弟たちの官位官職への口利きだか知らんが、ともかくも聞いてやることにした。
「王様! 哀れなわたくし目を、どうか御見捨て無きように」
開口一番、泣き落としだ。まあ、そこそこ美人なのだが、泣かれたからと言って、特に気持ちが動くわけでは無い。愚かな女だ。
「そなたの様に美しい人に泣かれてしまっては、余はどうすれば良いのか戸惑うではないか」
スルギの言うリップサービスというやつだ。判内侍府事なら「腹芸が御上達あそばしました」と言う所か。どうやら、中宮といざこざが有るようだ。最初は下仕え同士の角の突合せだったのに、次第に火種が大きくなり、ついには互いの主人が事を構える段階に至ったと言う事か。
「中宮様がお子を懐妊遊ばしましたのでしょうか? 私の事を『長らくお仕えしているくせに役立たず』と中宮様がおおせになったとかで、口惜しゅうございます。確かに中宮様の方がお若いですが、わたくしだとて、御渡りをいただけましたら、お役に立って御覧に入れます」
「領議政の秘蔵の孫で、一品内命婦たる身が『役立たず』のはずはなかろう。だがそのような言葉,まことに中宮本人が口にしたわけではあるまい。そなたと中宮の所の下仕えや女官達は、仲が悪いと聞く。売り言葉に買い言葉というやつで、下々の誰かが吐き散らかした無礼な言葉が独り歩きしているだけではないか?」
考えてみれば、中宮や側室たちとの会話は「余」と「そなた」という調子だ。知らず知らず自分でも他人行儀なのだと改めて実感する。
話の中身は延々、愚痴だ。下らん。いや、忍和が掃除するつもりなのは昌嬪か? ともかくもなだめて己の住まいに戻らせた後、大王大妃様・大妃様のご機嫌伺いをする。お二人には忍和が言っていた事をお伝えし、何事か有っても知らぬ存ぜぬという事にしておいていただきたいと、お願いしておく。次に中宮の所に寄った。
「主上、昌嬪めは夜明け方から常御所をお騒がせして、何を申しましたのか? 」
「何やら愚痴だ。あれも私に長く使えてくれているが、色々思う事も有るのであろうな」
「愚痴ごときで朝からお騒がせするなど、許せませぬな」
「別に、あれも私の側室の一人だ。二人の娘も生んでくれた。至らぬところも色々あろうが、まあ、穏やかにやってくれぬか?」
「どちらかに新しくお子がお出来になりましたとか、噂が立っております。まことの事でしょうか?」
「さてな。後宮と言う所は、時折奇妙な噂が立つなあ。おおそうだ。仁恵はどこだ?」
母親の中宮は実家の勢力で無理無理押し付けられた女だが、二歳になった娘の仁恵公主には罪は無いのだ。立ち寄れば必ず顔は見て行くことにしている。
「公主様は父上を恋しがっておられました」
乳母がしたり顔で言う。母親が言わせているのかもしれないが、本当なのかもしれない。そのあたりの判断は微妙なところだ。
「仁恵も早う大きくなって、姉上たちと仲良う遊ぶようになるのだぞ」
抱きしめて言い聞かせてやると、黙って頷いた。まだ二歳だが言葉は概ね理解しているようだ。
「翁主たちが、これを可愛がってくれましょうか?」
「皆、良い子に育っているぞ。そなたの方から、あれらに優しゅう接してやれば、良いのではないか?」
中宮は不満げだったが、知らぬふりをして、その場を立ち去った。