秘密がいっぱい・3
騎撃毬の練習が済んで、邸に戻ると、正邦様がお越しになっていた。今日は一人、どなたか新しい客人を連れておいでになったらしい。
「先日賜った、薄桃色の金通し生地の唐衣をお召し下さい。王様のお言葉ですので」
金通しとは横糸に金糸を使った贅沢な織物だ。桃色だが、二十一世紀の世界でなら光沢を押さえたピンクゴールドとでもいうような色合いだ。心なしか忍和の支度ぶりにも、力が入っている気がする。
「中宮様でもお持ちではない立派な珍しい生地だと兄が申しておりました」
「いつもよりおめかしして、誰に会うのかな?」
「さあ。王様のお傍に控えている方は、韓検詳殿ともうお一方、同じお年頃の文官とお見受けしました」
最近時折、正邦様は有望株の若手官僚をこの邸にお連れになり、成明と私にお引き会わせになる。そんな時、私は女の身なりで彼らに会う。今日は私も見覚えがある人だった。
「洪善道でございます」
そう言ったきり、その場に固まってしまった。
「馬の事で色々教えていただいて、ありがとう。これからもどうぞ宜しく」
「ああ、お声は、やっぱり大状元様なのですな」
洪監察はほっとしたような声を上げた。
「こやつは馬の事ならやれ顔が美しいだの、姿が良いだの薀蓄を垂れ述べるくせに、人間の女相手だと何も言えないようだ」
「そうはおっしゃいますが王様、大状元様の唐衣姿は真にお美しいですから、洪殿が固まってしまわれるのも、致し方の無い事で」
「いやあ、実に、実に驚きました。真に御無礼致しました」
「洪殿、王様はそうやって固まる様子を御覧になりたかったのだから、構わないのだと思うよ」
「ハハハ、最近、韓検詳は平気なので、つまらないのだ」
正邦様は愉快そうにお笑いになった。
「最近、常御所で盗み聞きする不埒物を駆逐できたし、控えの間を作って、取次ぎはそこからさせるようになったのでな。秘密の漏れる危険はぐっと下がった。そこで、この洪善道をつれてきたのだ。来月から司憲府内で昇格させて正五品持平とする。兼職はスルギの元で働くように校書館の校理とした」
私がもうすぐ校書館の初代提調すなわち長官に着任するのは決定事項だ。
「大好きな馬の本からでも良いので、実学の書籍も目を通しておいて頂きたいです」
「はい。大状元様がお書きになった『西洋馬術詳解』は拝読しました。農事や商業の本ももっと当たってみます」
「そうですか。それは良かった」
「馬の話が出れば、洪殿は嬉しそうですね」
「全くだ」
正邦様は韓検詳の言葉に、うなずきながら楽しそうに笑い声を上げられた。
その時忍和が成明を連れて来たので、私は受け取って抱っこしてやる。生まれて半年が過ぎ、近頃はお座りも出来るようになった。機嫌が良いと声を立てて笑うので、正邦様は時折夢中であやしておやりになる。
「これに泣かれるとどうすれば良いのか途方にくれてしまうのだ。それに引き換え子を産んだ女は強い。泰然自若としている。母親も乳母も。私も自分の乳母の事を思い出した。悲しい事に母の記憶は全く無いのだ。それ故、成明がこれに抱かれて、安らかな顔つきでいると、何やら自分まで幼子の気持ちに戻ったようで、和む」
なるほど、そういう自己投影も有るんだなと、正邦様の幸せそうな顔の理由が少し理解できたような気がした。
「乳母もいない家で育ちましたのですが、乳をくれたと言う者たちは、私が田舎に戻ると、今でも顔を見に来てくれます。そして『村の皆を助けられるようなお役人になって下さい』と言います。私の母は事有るごとに『お前の命は王様から頂戴した物です。早く大きくなってお役に立つ者になりなさい』と申しておりました」
韓クンは、実家の周囲の百姓衆のおかみさんたちにも、母上にも期待されて居ると言う訳だ
「ほう。だから韓殿は骨身を惜しまず、働くのだな。私の母は馬小屋の前で急に産気づいたそうです。その日、ちょうど我が家に田舎の牧場から良い馬が到着した日でして『早く馬に乗りたかったから、お前が無理にでも胎内から出ようとしたのだな』などと未だに父や兄たちがからかいます」
「その馬は、以前見せてくれた黒馬の親か何かなのかしら?」
「はい。大きな黒い牡馬でして、沢山の子を作りました。以前大状元様にお見せしたのも、その一頭です」
「洪善道の馬好きは、生まれつきであったのか。好きこそ物の上手なれとは、よう言った」
「ん?何、成明、洪殿に抱っこして欲しいのかしら?」
成明は洪殿をジーっと見つめて、それからにっこりしたのだ。
「何?そうか。よしよし。これをお前の守り役にでもするか?」
私から成明を受け取られた正邦様は、洪殿にお渡しになる。
「あら、抱っこがお上手ね」
「兄弟が多いので、幼い頃から妹や弟の面倒を見ておりましたから。つい先日も弟が一人生まれまして」
「甥ではなくて、弟か?」
「はあ。母も照れておりました。恥じかきっ子も良い所ですな」
洪殿の母上は後妻で、十五歳かそこらで洪殿を生んだのだ。だから、まだ三十代な訳で、それを思えば別にさほど不思議でも無い。父上は漢城府判尹で、ロマンスグレーの愉快なおじ様といった雰囲気の人だ。
「いやあ、うらやましい話だ。成明が嫁を貰っても、更にこれには子を産んで貰いたいとは思ったが……洪判尹が実にうらやましい」
すると韓クンも洪殿も、「お二人ならきっと大丈夫です」「大状元はお健やかですから」などと口々に言う。生むのは私のはずだが「次の子供はいつが良いだろうかな」などと正邦様は話を始められる。独身男性二人を前に、そんな話題は勘弁して欲しいが……
やがて酒が出ても、成明は上機嫌で洪殿に抱っこされている。
「洪殿は、いよいよ守り役に決まりですな」
韓クンのその言葉に、正邦様は頷いておられる。本当にそうなりそうだ。