出来る事から始めよう・1
どうやら本来この国の歴史で起るはずの動きを、百五十年前後は早める必要が有りそうだ。恐らくアジア全体の、ひょっとしたら世界全体のためにも大切なんじゃないだろうかと思う。
こちらに私が転生したのは、あちらの世界の歪みをこちらを修正して緩和させるのが目的なのだろうから。いや、それは部分的な理解なのかもしれない。あの天使らしき者の真の狙いは、もっとスケールが大きいのかもしれない。
ともかく、私はこの国のひどい状況を改めるのに役立ちそうなことは全部、やってみようと思う。まずは今の時点であちらの歴史と食い違ってる主な点をまとめてみると、こんな感じかな?
・いわゆる二度の倭乱が起らずに済んだ事。
・『天工開物』などの実学系の書籍のブームをうんと早めに演出できそうな事。
・王立図書館とも言うべき設備があちらの世界より相当早く出来そうな事。
・こちらの世界では向こうの世界ほど技術系の官僚が差別されていない事。
全部、偶然じゃ無いだろう。これから押し寄せるであろう西洋諸国の植民地化の嵐、日本との不幸な関係、それらを賢く上手く乗り切るためにはこの国における実学と産業の連携を早く深めるべきじゃないか?
その一方で十九世紀末にイザベラ・バードって人が指摘した幾つかの点は、そのままだ。
・腐りきった支配者層の民衆に対する非道な搾取と暴虐
・向上心や生きる希望を失った農民
・凄まじい男女差別と階級差別
・流通システムと貨幣経済の崩壊
このあたりはこっちも大差無い。後は「善良だが無能な王」と「宮廷闘争に明け暮れる王妃」と「派閥抗争に明け暮れる群臣」が三点セットで出揃うと、この国もあちら同様悲惨な結末に追い込まれて行くだろう。
王が無能で王妃がおかしいと「真摯ではあるが拙速」な日本の干渉も招く事になるし、植民地政策と表裏一体化したキリスト教の布教が盛んになるわけだ。
ここは一発、バルトロメ・デ・ラス・カサスで行こう。こっちでも、もう死んでいるはずだと目星をつけて、ヤンホ兄さんが強化した貿易ルートで、英語版の『インディアスの破壊に関する簡潔な報告』を手に入れた。
「目玉の飛び出るような高値だったぜ。俺には何にもわかんないが、何が書いてあるんだい?」
「天主教の坊主が書いた、自分たちの信徒のしでかした凄まじい悪事の告発と反省を纏めた本だよ。天主教は西洋の本国から、布教先を領土にする時の道具に使われる事が多いんだ。聖人の教えを補完するすぐれた教えっていう明の学者先生たちの見方は、甘いって事」
「凄まじい悪事って、どう凄まじいんだ?」
「この国よりうんと大きくて豊かだった国を踏みにじって、王族は皆殺しにして財宝を奪い、民を使役して残酷に扱った。何とわずかの内にその国全体の人間が十分の一に減ってしまったんだよ。十分の一。この国も相当変だけど、そこまで凄くないよね」
「よっぽどひどい事をしたんだな。何をどうしたらそうなっちまうのか、分からんが」
「その、えげつなくて残酷な西洋人のやり方を、西洋人の坊主があんまりじゃないかと反省して書いたのが、この本だよ」
「ふーん、じゃあ、その坊主、国じゃあ裏切り者扱いか?」
「うん。もう死んでるけどね。国許の西班牙じゃあ、反逆者だの何だのボロクソだよ」
「お前、良く知ってたな、そんな本を」
「うん。たまたまね」
後はものすごーくざっくばらんで、ぱっぱらな西洋世界の通史を書き始めた。なにしろ『小中華』を自認する国柄だから、中国との歴史を対比に置いた。
春秋の時代とギリシャ七賢人、特にソロンの改革とか、アレキサンダーにハンニバルを戦国時代の人物や始皇帝と対比したり、前漢の歴史とティベリウス・グラックス・カエサルあたりにローマ帝政の開始とキリスト教の誕生を噛み合わせて見る。
さらに、三国志とローマ帝国の全盛期の話に、隋・唐とイスラム世界と西ローマ帝国滅亡後の西洋の国家、元の成立過程と十字軍やイギリス議会政治の成立、ハンザ同盟・ルネサンス・ペスト大流行・喜望峰発見・コロンブス・インド航路・マキャべリの『君主論』・インカ滅亡・東インド会社・清成立……これでお手上げだ。
自分としては議会政治とハンザ同盟と東インド会社には、かなり力を入れた。資料なんて、無いので、寝て前の世界の記憶と、ネット上の知識を引き出して書いた。畑の手入れは他の人間に任せて、後宮巡回もその間はパス。高先生に泣き付いてお願いしておいた。それでも、結構つかれた。
できた本のタイトルはズバリ『西洋通史』。
さっそく、正邦様にお見せしたら、印刷の許可が下りた。
「これにかかりきりだったから、近頃、私にもそっけなかったのだな」なんて言われちゃったが。
「そ、そんなにそっけなかったでしょうか?」
「うん。抱きしめてやっても『ああ、違う違う。やり直さないと』などと言うのだぞ。寝言でも少し傷ついたな」
「すみません」
「いや、良いのだ。少しばかり寂しかったと言うだけの事だ」
この本がベストセラーになってくれたら、ラス・カサスの論文にアステカ・インカの簡単な通史をくっつけて簡約したものを出そうと思っている。
執筆中、顔を合わせた人間に漏れなく宣伝はしたのだが……上手く売れてくれるだろうか?