再び老いた宦官の呟き・1
久しぶりに申貴人様がお戻りになった。
朝一番に王様に御報告に伺う。「あの方」と夜を過ごされて、常御所には早朝にお戻りになり、朝食を召し上がっている。御体調はすこぶる良いようにお見受けした。
亡くなられた先の中宮様を除けば、申貴人様の入宮が一番お早い。大宰相と大学者の血を受け継いだ方である事から、王様が東宮であられた時に先王様の強い御希望で側室になられた。
温順な御気性で、亡くなられた先の中宮様とは姉妹のように睦まじくされておられたが、残念な事に御健康を害された。医師の薦めもあり、気候が穏やかな田舎に御邸を賜り、この数年はそちらで養生なさる事が多い。それでもいつも後宮においでの他の御側室と同じく、お二人の翁主様をお生みになっているのだから、或る意味御寵愛が一番深い方と言っても良いのではないか、と私は見ていた。
もっとも、今の王様は、王子の母となられた方以外は目に入らない御様子だが。
「申貴人様が、昨日、お戻りになられました」
「そうか。あれに診せようかと思うが、判内侍府事はどう思う?」
「これまでの主治医であった高尚薬にお任せになった方が、よろしいのでは?」
私は申貴人様が目敏い方であるのが気がかりだった。もっとも、見て見ぬふり、と言うのも十分お出来になる方ではあるのだが。申貴人様についている尚宮以下、下仕えにいたるまで、皆忠義者ぞろいと言うのが、案外今のあの方には厄介かもしれないと感じたのだ。
「その方が、良いかな」
「あそこの者達は、皆注意深い者たちばかりで、申貴人様一筋でしっかりまとまっております。何にせよ、波風はお立てにならず、また、療養先にお戻りになるまで、そっとされておくに限るかと存じますが」
「ふうむ。勘が鋭い女子なら、あれが真はどういう者か、察してしまうかも知れんな」
そう、いくら男装が板についておられても、何かの拍子にやはり女子だと見破られてしまう可能性は高い。一応あの方にもお知らせをしておこうとお邸に伺うと、妹があらましの事は既に御報告していたので、私からは今朝の王様とのお話についてお知らせするに止めた。
「今、乳が出る状態だから、まずいなあ。嗅覚の鋭い人ならバレると思う。薬房に居れば薬草の匂いで紛れるとは思うけどね。わかった。申貴人がおいでの間は、内医院か邸になるべく居る事にしよう。ああ、酒造り関連の用事を先に片付けても良いかな」
大状元様がおっしゃるには、勘の鋭い人と言うのは得てして匂いにも敏感なものらしい。それにしてもあっさり「乳が出る」などと私にもおっしゃってしまって、私の方が何やら照れる。医師でもあり、有る意味私などより雄々しい所も有る御気性のようだから、あっけらかんとしておいでなのかもしれない。そこがまた、あれこれお考えになると鬱々となさりがちな王様には、魅力的にお感じになるのであろうか。
ともかくも申貴人にはお子がおいでなのだから、乳の匂いにも目敏くお気づきになるだろう。そうお考えになったようだ。他の後宮の方々とも今は接触を避けておられるのは、同様な事情だろうか?
「それにしても、酷な事をおっしゃる。ここ数年は判らないけれど、成明が立って歩いて言葉を話すようになれば、どうしたって隠し切れないだろうに、その時私が何食わぬ顔をして診察してたなんて事だと……」
王様の批判は控えた方が良いと思われたのか、そこで口を閉じられた。後で真相をお悟りになるであろう貴人様の御気持ちを慮っての事のようだ。
「王様は、あなた様を深く信頼なさっているのでしょう。病のお見立てだけでなく、お人柄も。後宮のことですから、これからどうなさるべきか御自分の目でお確かめになった方が良いとお考えになったのかと思います。それに、既に他のご側室を診ておいでですし」
「わざわざ御希望を頂いた時しか、伺わないよ。特に今は避けている。女の直感は怖いからねえ。どんな事で私が子を産んだとわかってしまうかもしれない。中宮とはかなり前に二三度お話したきりだし。金昌嬪とも朴淑儀とも張昭容とも、それぞれほんの数回だよ。毎日伺う大王大妃様や大妃様の所とは、訳が違う」
申貴人様には甘藷の菓子をご披露なさり、留守役の女官らにも面倒をかけているお詫び方々お礼をおっしゃった事が有るだけ、だそうな。大状元御自身の御言葉では「少し離れた場所で、本当にご挨拶をしたきり」だとか。
「貴人様のお住まいの女官で、あなた様の患者はおりませんか?」
「本人は元気だけど、親が病気の女官見習いがいるよ。本人は貴人様にいつもついてるんだけどね。親の方は約束して、十日に一度程度、薬を持って往診している」
その見習いはウルトンと言う名前らしい。今や王子様の母君であるこの方にも貴人様にも、具合の良い後宮であるためには、少しばかり細工も必要だと思うが、ウルトンは使えるだろうか?
「判内侍府事、柳乙東を困らせないでね。成明を守るために、誰かを不幸にするのは反対だよ」
「いえ、けっしてそのような事は致しません」
「昔大妃様にしたような事は、もうやっちゃ駄目だよ。あ、これは私の勝手な独り言だから」
それから、女の方としてはやけに爽やかな「ハハッ」と言う声を上げて、お笑いになった。
私の脇の下から、冷や汗が流れた。