韓明文の見聞・2
大状元の身の回りには、驚くような事ばかり起こっているが、その日は朝から魂消てばかりだった。
いつもの後宮の方々の回診が済んだ後、大状元はかねてから約束が有ったようで、歴史に詳しい事で名高い王族の邸に向かわれた。どう言った理由か知らないが、輿は使わない。
普通高位の人は輿に乗るものだが、いつも騎馬か徒歩だ。
王族の邸は王宮からすぐの場合が多い。
馬も面倒と思われたのだろうか? いつもの供を三名連れて、狭い石畳の静かな道を目的地に向けて歩いていた。私は道に沿った建物の屋根伝いに、様子を見ながら少し距離を取って追跡して行く。供は三名ともかつて内侍府に居た手だれだ。特に一番背の高い奴が気配に敏感で、こちらとしても細心の注意を払っている。
仮にも官吏の身が、まるで盗人のような格好だが、実際この術を私に仕込んだ爺やは、元は大泥棒だったらしい。七歳かそこらの時分に、爺やの異様な身の軽さに気がついてから十日ががりで説き伏せ、悪事には決して用いないという誓いを立てて、盗人の秘術を受け継いだ。
一度、親父を落としいれ、母を側女にしようとした都から赴任したての牧使殿のはかりごとを、爺やと二人で打ち砕いてやった事がある。親父を誣告するために書かれた文を盗んで焼いただけでは気がすまなかった。そいつは他にも色々不正を行っていたのだ。
故郷の人々のためにもなると信じて、その牧使の不正を暴いた密告状を十枚書き、宮中のあちこちに無記名の矢文の形で打ち込んだ。爺やと二人、決死の覚悟で行った事だったが、反応は早かった。
特命の監察官である暗行御使が遣わされ、事実を確認するとその牧使は都に連行され、死罪となった。
次に赴任した牧使は、特に立派な方を王様自らが選ばれたようだ。おかげで村の皆も平穏に暮らしている。
「それもこれも、坊ちゃまの御筆跡と文章がまだお小さいのにご立派だからです。きっと学識ある大人が世を憂いてした正義の行いだと、宮中の偉い方々がお感じになったからでございましょう」
爺やは、そう言って私を褒めてくれた。以降、盗人の秘術にも学問にもますます気を入れて精進した。そして無事に探花で及第を果たしてすぐ後に、爺やは長年の持病が元で無くなった。
「探花で合格なさった。ご立派です。きっと世のため人のためになる立派なお役人になって下さい」
そうだ。その爺やとの約束が、今の私の行動指針だと言って良い。身分差別の激しいこの国で、そうした事はうかつには口に出来ないが。
そう言うおかしな人間は自分ぐらいのものだろうと、或る意味自負していたのだが……この大状元殿は桁違いにおかしいかもしれない……と、追跡して三日目ぐらいから思い始めた。
おや? 向こうから見覚えの有る人影が……ああ、上官殿のすぐ下の弟だ。右議政の次男・沈徳宣だ。文科殿試の成績は上位十位以内だったくせに、官職にも就かずふらふら遊び歩いている。一度史官か何かになったが、サボりすぎで首になったはずだ。ああ、妹の中宮様の所に出入りする資格は有るが、そんな物は科挙には関係無い。
風流貴公子を気取って、あちこちの女を引っ掛けているらしい。確かに美形だが、いけ好かない男だ。
おや? 大状元が怒鳴っている。珍しい。初めて聞いた。無礼者と言っている。初耳だ。白丁にも礼をなさる方が、一体全体どうしたと言うのだ? いつも猫なで声の風流貴公子が、珍しく怒号を発した? ええ? 喧嘩か?
「覚えたか、沈徳宣。これはお前の子を身篭ったまま井戸に身を投げた下仕えの分だ。母と子二人分だぞ」
バキッ、とかドカッとか鈍い打撃音がした。
「そしてこれがお前に身を汚されたせいで、自害なさる羽目に陥った姫君の分だ」
ドガッ
「さらにこれが、お前のせいで相愛の男との縁が断ち切れてしまった商人の娘の分だ。ふん。名を上げずとも、全て身に覚えがあろう」
ドカッ
おお、足で踏みつけた男の体を蹴っているのだ。どうやら最初に蹴りを入れて転倒させ、腕を捻りあげたらしい。小柄なのになかなかのものだ。更に驚いた事に、傲岸不遜で、人を人とも思わない事で有名な貴公子殿が号泣している。そして、地面で身を縮めて、呻きながら「許してくれ、悪かった」と哀願している。
大状元殿は貴公子殿から離れると、去り際にこう言い放った。
「誠に反省したのなら、これから一年様子を見ていてやろう。身分高き家に才能を持って生まれたものにふさわしい、責任の果たし方と言うものがあるはずだからな。世のため人のために身を粉にして働いても、お前は償いきれないほどの罪を犯したのだぞ」
な、なんか格好良いじゃないか。胸がすっとした。