韓明文の見聞・1
私、韓明文は王様の密命により、先の王子殺害の経緯と真犯人について捜査している。だが、その真相を知ると思われる沈一門の結束は固く、部外者の私が機密事項に触れるためには、沈一族の中枢に居る人物の信頼を得る必要が有った。王様に御相談申し上げ、沈一族と自然に近づける部門への配属を願った。
一門の首長である右議政・沈守己がもっとも信頼する長男・知宣が判義禁府事を務めているため、その下で都事として働く事になった。
何はともあれ、上官殿の信頼を得なければいけないのだが、王様が「優秀な人物を配属した」と宣伝して下さったらしい。幸い私が探花で科挙に受かった事を御記憶いただいていたらしい。すぐに秘密の捜査にあたるように命じられたのだった。
私が上官の沈知宣から監視するように命じられた大状元は、万事型破りな人物で実に興味深かった。
正二位と言う私などからすれば途方も無く高い位を賜っているのに、質素な身なりで薬草畑や見慣れない外国から取り寄せた作物の手入れをし、疑問を解決するためなら相手の身分を問わず教えを乞う。相手が王族でも、逆に奴婢でも白丁でも気にならないらしい。籠編みの名人の白丁の老人は、正二位の方に膝を折って深々と礼をされて魂消ていた。特権を利用して色々な役所で調べ物をするが、どうも実学方面の書籍や歴史の記録が多いらしい。
「高い位を頂いたおかげであちこちで土下座をして嘆願する時間が省けて、実にありがたいです」
とある王族相手にこんな事を言って笑っていた。それがどうやら大状元殿の本音らしい。ますます奇妙で面白い人物だと思った。
大状元は宮中では朝、後宮の診察を希望される方々のお住まいを一巡した後は、大抵自分の作った畑か、内医院か内侍府の薬房に居る。そんな時、下仕えや子供の内侍見習いがやってきて、相談したり愚痴を聞いてもらったりしながら作業を手伝う。あるいは怪我や病気の相談をしている。家族の場合は大抵往診を約束をしてやるのだ。しかも薬代も診察料も取らないらしい。
そうした連中も多い中で、一番良くお見かけするのが順恵翁主様だ。大状元の友だと自認しておられるらしい。
「ねえ、父上はなぜヨンスを呼ぶ時『スルギや』っておっしゃるの?」
「子供のころからの私の呼び名というか、そんなものなのです。特別に仲良しの人しか知らない名前ですが。宮中では王様と高先生と判内侍府事ぐらいしか御存知ないんですよ」
「じゃ、じゃあ、私もスルギって呼んでも良い?」
「ええ。姫様ならかまいませんとも。でも、王様以外の誰かが居る時はダメですよ。内緒の名前ですから」
「うん。わかった。尚宮や内侍や下仕えが居ないかどうか気を付けるね。ああ、婆やも内緒よね。母上も」
「そうです。面倒ですけど、どうぞよろしく」
順恵翁主様は嬉しそうに大状元の畑の手伝いをし、薬草を集め、やがてあずまやの机に千字文を広げ手習いを始めた。
「短い間に、ずいぶん字もしっかりなさいましたね。御立派です。この千字をしっかり覚えられると、本をお読みになるのもぐっと簡単になります。そうすれば御自分でお好きなように本が読めるようになりますよ」
「スルギがいない間に、私、お手本に書いてもらった字は全部覚えようと思って頑張ったの。それに、毎朝毎晩、スルギが元気で早く帰って来てくれるように一生懸命お祈りしたの。誰にお願いすればよいか良くわからなかったから、とりあえずは御先祖様と観音様にお祈りしたの。でも、観音様はいけなかった? 先生は仏様にすがるのは学問の無い身分の賤しい人のする事だっておっしゃるの。字が読めない下仕えなんかは、観音様を一生懸命信じているけど、父上や大王大妃様や大妃様は、毎日祀堂で御先祖様たちにお祈りなさるのよねえ。本当はどうなのかしら?」
この国は儒学の教えを中心にしてきた国柄で、大昔から伝わっている仏の教えは開祖の釈迦が親不孝だという理由で、歴代の国王の中には厳しく禁じられた方もおいでだった。だが、後宮の方々を中心に女人方には根強い人気が有り、寺を建立された大妃や大王大妃といった方々も今まで幾人かおられる。その辺りは、確かにあいまいだ。
「開祖でいらっしゃる釈迦牟尼は、小国ではありますがご両親に大切に育てられた世継ぎの王子だったのです。儒教の教えを始められた孔子様より少しばかり先に天竺にお生まれになったようですね」
それから優れた王子であった釈迦牟尼がどのように悟りを得たか、まるで見てきたように生き生きと語って聞かせたが、私も監視役という役目を忘れて聞きほれてしまった。
「すると、お釈迦様はご自分の国を滅ぼした人たちにまで深く敬われて、その仇の中にはお弟子になってしまった人までいるの?」
「そうなのです。物凄い事ですねえ」
自分はそこまでの経緯は知らなかったが、大状元の話を聞くと色々な国で深く釈迦が敬われるのは当然かもしれないという気がしてくる。
「御釈迦様が、本当に昔、王子様としてお生まれになった方だって分かったけれど、観音様は?」
「色々な国の神様が御釈迦様の教えを取り入れて仏様に変化したんでしょうねえ。この国以外でも人気が有る仏様ですよ。本当は菩薩様よりもっと偉い如来様になる事が出来る仏様なのに、多くの者を救うためにわざわざ低い位にとどまっておいでなのだという話も伝わっています」
「ふーん。とてもご親切な優しい仏様なのね。ねえ、観音様は女の方なの?」
「人間のような男女の区別がない方なのです。三十三種類のお姿に自在に変身なさるそうですし。男にも女にも子供にも若者にも老人にもお姿を変えられる方らしいですよ。ただ、中国の南の方では船の女神様といっしょくたになってまして、女の方だと信じている人が多いみたいですね。男だと思っても女だと思っても、観音様はお怒りにはならないでしょう。慈悲深い優しい菩薩様ですから」
可愛らしい翁主様は、尊敬のまなざしを真っ直ぐ大状元に向けている。
「スルギって観音様みたいよね」
「私はただの人間ですよ」
「男か女か良くわからないけれど、素敵で綺麗で、頼りになってすごく賢いもの」
「それは褒めすぎですよ、姫様。そんなに褒めて下さっても、何も出ませんからね」
「別に御褒美が欲しくて言ったんじゃないもの」
「ああ、ごめんなさい。では、素直にありがとうございますとお礼を言うべきですね」
まだ、この時、私は大状元が「男か女か良くわからない」方だと言う事を知らなかったのだ。後でその言葉の意味合いを理解する事になったのだったが。