二つの顔・2
「スルギや、今日の薬草の集まり加減はどうなのかな?」
「悪くないですよ。後は、邸の庭に植えておいた物を三種類ばかり取ってきて干せば、内医院と尚薬職で使う分を多少は補えそうです」
「なあ……その」
「あ、はいはい。でも、雨の降らないうちに取りませんと……」
「人払いも十分したのだから、なあ……そっけない態度は止しておくれ」
「いえ、とんでもございません。私にだって気持ちは十分御座います……でも……」
「スルギや、頼むから」
正邦様は、昼間も時折、激しい孤独感と不安に苛まれる事が有るのだと言う。そんな時、私を抱きしめて口づけすると立ち直れるのだそうで、今もそう言う催促なのだろう。私の個人的な感情は、それを素直に受け入れて差し上げたいが、宮中は思わぬ所に人目が有る。
こっちは内侍府に客分扱いとは言え所属している宦官と言う事になっている微妙な身分だ。ただでさえ科挙に通り立ての若造が、あっという間に官職無しとは言え、官位だけ見ればこの国の官僚システムの重要ポストである六曹の長官である判書と並ぶ正二品になってしまった。地方官は一番上でも従二品どまりなのだから、馬鹿馬鹿しく位だけは高く、目立つので、下手すると人の憎しみを買う。普通は状元だって初年度はせいぜい正六品かそこらの役職どまりなのだ。
正二品でもこれまでと大差無い事をやっているだけだが、私のやりたいことを管轄する部署に相性の悪い人がいるとどうにもやりにくい。たとえば財政担当の戸曹判書は貨幣、人口調査、租税や貢納の割り当て、出納の監督、帳簿の点検、不当徴税の禁止、凶作時対策といったあたりの業務を取り仕切るトップなので、私を感情的に嫌わない人を配置してほしいとお願いしておいたら、そのようにして下さった。
王との個人的な関係をひけらかすのは、厳に慎みたいところだが……こうして御本人がおいでになるものを、冷たくは出来ない。
「スルギや」
別にこんなに甘ったるい声で呼ばれなくても、ちゃんと答えて差し上げたい気持は有る。でも、昼日中にキスねえ。正直言って人目が怖い。身近に人が潜んでいるような気がするのだが、気のせいだろうか?
「こうすれば、だれにも見えない筈だ。違うか?」
「あ、あの、まだ」
「ええい、だめだ」
手であごを持ち上げられる。もう、すっかりラブモード突入だ。え?
私は気配を感じた辺りに、腰に下げていたつぶてを投げ上げた。
ドスン
見覚えのある青年が呻いていた。
「韓探花!」
「韓都事!」
「この方、只今はどちらの都事ですか?」
なぜか官服を着ていないのだ。どこの役所か知らないが、都事と言えば長官職でも一番下っ端でもない。
「義禁府だ。なぜ、そちがここに居る、余は謀反の恐れがある危険人物を秘密裏に見張れと申しつけたのだぞ。スルギを監視するなど、見当違いも甚だしい」
韓都事は受け身を取れずに目の前の松の大木の高い大枝からまともに落ちたらしく、脚を抑えて呻いている。いつも私に影の様に張り付いていてくれる茂生さんは、刀の柄に手をかけている。正邦様はお怒りで韓都事の襟を掴んで詰問した。
「お前は王命より、爺どもの命令に従うのか?」
「上官から何か言い含められたのではないですか?」
判義禁府事は……大抵他の官職と兼任なのだが現在は礼曹判書が兼任している。ええ……右議政の長男だ。つまり中宮の兄上。いつの時期かの状元で物静かな人だったけれど……
「沈知宣が何を言いおった? 何を命じたのだ?」
「大状元殿は一体何を王様に申しあげているのか、心配だと。御政道の乱れを呼ばないかと……」
「ふん、沈一族の方がよほどこの国を食い物にしておるわ。お前は王の密命について沈一族の者に話してしまったのか?」
「いえ、そのような事はございません。私とて右議政の後ろ暗い噂を知らない訳では御座いません。本当でございます」
「ならばなぜ大状元を見張っている?」
切れ切れに韓明文……という名前だったらしい……が語ったところによると、右議政は色々後ろ暗い所のある胡散臭い人物だが、長男はまともな上司だと思っていた。科挙受かり立ての人間がその年のうちに正二品にまで取り立てられた理由が自分も知りたかった。大状元の所には自分などが予想もつかないほど多種多様な人間が訪ねてくるので、その周りを見張っていれば色々情報も集まると思った。秘密に王から命じられた、先の王子の毒殺犯人も姿を見せるかもしれないと思っていたが……
「よもや王様がこのように……」
そういったきり、韓明文クンは沈黙してしまった。まずい事を言ってしまった、そう思ったのだろう。確かにキス寸前だったもんなあ。事情を知らなければ、びっくりもするか。
「なぜ彼に秘密の捜査をお命じになったのです?」
何でもこの人、三年前の前回の武科殿試で最年少ながら、剣も弓も素晴らしい腕前を披露したのだそうな。筆記試験もなかなかの出来だったのでその時、正邦様が「次回の文科殿試を受けよ」とお命じになったらしい。それで頑張って今回は席次第三位の探花なのだから、なかなかの優れものだ。しかもこの人、忍びの特技が有るのだそうな。確かに気配が分かりにくかった。少なくともこれまではまるで気が付かなかったのだ。
「王様がお出でになって、驚きまして……気が乱れてしまいました」と言う訳らしい。
「なあ、スルギや、いっその事此奴も仲間に引きずり込むか?」
「この人、口は堅いですか?」
「韓都事、お前、王の秘密を墓場まで背負って行く覚悟は有るか? お前が口を滑らせれば、この国が一大事に陥りかねんのだがな」
韓明文クンは、米つきバッタの様に平伏して幾度も礼をしながら、絶対口外しないと誓いを立てた。
「すぐそこですし、私の邸へいらっしゃい。足の手当をしましょう」
いったい何が起こるのやらとビクビクしている彼の様子を見ると、ちょっと可笑しい。