ハードな設定・2
ちょっとついていたと思ったら、これからいよいよ大変な事になるようです。
「都からお出でになった新任の県令様だ」
良くわからないが深々と礼をする。ドラマなんかで見た事が有る「クンジョル」と言う一番丁寧な礼だ。これがちゃんとできるか否かで、私の評価が違うんだろうからと思うと、真剣にやれた。県令様の官服が青色という事は、もとの世界の隣国の官位の設定と同じように考えて良いのかもしれない。県令は地方官で従五品程度だったか? 国王に直接面会が許されるのは官職にもよるけれど、正三品程度以上のはず。
「よしよし。礼儀正しい良い子だ」
私の「クンジョル」は様になっていたらしい。
それから文字の読み書きをさせられた。有名な杜甫・李白といったあたりの詩の暗唱も四つばかりさせられた。本来書道はからきし駄目だったはずだが、自分でもびっくりの見事な筆跡になっている。読む方は歴史オタクで大学は史学専攻で漢文は得意科目だったし、一応古文書読解のサークルなんかに所属もしていたので、『小学』ぐらい簡単に読める。ただ不思議なのはかつては隣国の言葉はまるで不案内だったはずなのに、自由に聞き取れるしハングルも読める。チートって程ではなくても、天使?らしき存在の取り計いのおかげだろう。
「年は八歳で有ったな」
「左様でございます」
「幼いのに見事な筆跡だ。他には何が出来るかな? 」
「自分でも、何が出来るのかよく覚えてはおりませんが……弓を射る事は出来ます」
学生時代は弓道部だったし、アーチェリーも齧ったし、OKだろう。
「ほう、そうか! では、ためしに的を射てみよ」
裏庭に建てられた幾つかの的の中心を射ぬいてみせると、昨日から世話になっている髭のおじさんやお兄さんまで、手をたたいて褒めてくれた。
それからどういう訳かお菓子を貰った。と言っても出来の悪い「おこし」みたいな炒った雑穀を蜂蜜で固めたらしいものだが、それでも貴重みたいだ。下品に見えない食べ方を考えつつ、有りがたく頂戴しながら一人で待っていた。その間に、大人たちの話は思いもかけない方向でまとまっていた。
「名は覚えていないそうだな」
「はい。両親の声や顔は思い出せますが、自分自身の名前も親の名前も全部思い出せないのです」
っていうか、最初からついてないんだが……ね? 違うか? 天使さん!
「ならば、英秀と名づけよう」
(英秀……ヨンス? 奴婢の名前じゃないなあ)
県令様は墨痕鮮やかに「英秀」と書いて示してくれた。
それから、今まで着ていた白い服から、色つきの絹物に着替えた。更に県令様の馬の前鞍に乗せられたので、驚いた。
「さあ、我が家に行くぞ。私の妻がお前を見たいと言うのでね」
県令夫人は、私をどうする気なんだろう? 文字の読み書きを見たから、小間使いか何かにでもする気だろうか? あるいは自分の子供の相手役とか?
着いた家は一応瓦葺きだが、さほど大きくは無い家だった。離島の所為か、見かける家はみな歪んだような萱だか藁だかの屋根ばかりだから、一番島では立派な家なのかもしれない。
「まあ、美しい子ですね」
実を言うと、一度も鏡を見ていないので今の自分がどんな具合の顔か知らないのだ。だが、県令夫人の「まあ」という声の調子からすると、悪くは無いのかもしれない。
「王様や王世子様のお傍に仕えても、おかしくないとわしは思った。そなたはどう思う? 」
「確かに旦那様の仰せのとおりです。我が家門のためにも役立つかもしれません」
県令夫人は……どこかヒキガエルを連想させるような顔立ちで、醜くはないが美人とは言い難い。
「私たちの娘分にしてあげましょう」
ありがたく思えよって雰囲気が露骨だが、確かに官奴婢に即登録されちゃうより、ラッキーだ。
「ありがとうございます。奥様」
またまた気合を入れて「クンジョル」だ。確かにこうしたチマチョゴリが綺麗に見える動作ではある。
乳幼児の死亡率が恐ろしく高い社会にありがちな話だが、県令夫妻は三度子供を失っているらしい。いずれも七歳に満たない年頃であったようだ。最初の娘が無事に育っていれば,八歳であったらしい。だから同じ年頃の娘を養ってみよう、そう言う事のようだ。
県令様は滅んだ昔の王朝の王族の子孫と言う事らしい。あの族譜と言うこの地域の貴族階級なら皆が気にする文書に名前がどうにか載る程度の地位で、これと言うほどの特筆すべき業績は無いらしい。偉大な御先祖のように自分の逸話も系図と共に載る様な人間になりたい、と言う気持ちは相当強いらしい。
だから、何かと言うと「家門の誉れ」と言う言葉が出てくる。
英秀と言う名前は、忌み名扱いのようだ。公の場で連呼する名前ではないようだ。まあ、近代的な社会でそれなりに教育を受けた記憶が有るし、色々チートっぽい設定のおかげで呼び名はいつの間にやら知恵を意味する「スルギ」になっていた。
県令だった金稔様と夫人の張貞順様は、一年後に私を連れて都に戻った。今度は都の勤務で正五品の職なのでちょっとばかり出世した。役職は五衛の司直だそうな。
一年の間に「娘分」から「娘」に扱いが変化した。それに従い私も夫妻の呼び方を「旦那様、奥様」から「父上、母上」に変えた。あの玉牌はしまいこんで人に見せないと言う条件で、手元に返してもらった。
「東宮様のために禁婚礼が数年の内に出されるだろう。そうしたらお前を我が家から出せば、きっと良い結果に繋がると思っているのだ」
やっぱりなあ。今の私はこう言ってはなんだが、相当な美少女だ。財力が乏しいので質素に暮らしているが、義理の両親はそれでも自分達に可能な限り、大事にしてくれている。まあ、出世のネタに使えそうだという魂胆が常に見え隠れするにせよ、この身分差別の凄まじい社会で、ともかくも安定した生活と有る程度の教育を受ける事が出来た。素直に感謝している。だが……
「そろそろ、官奴婢落ちですよ」
数年ぶりに天使らしき存在の夢を見たと思ったら、こんな物騒な事を言われてしまった。
科挙に受かりそうなぐらい書物は読んだし、料理やら裁縫やらも自発的に懸命に習った。武芸も頼み込んで、こっそりとやらせてもらった。気晴らしになるので楽器もと思ったが「とんでもない」と言われてしまった。「楽器の演奏など身分の卑しい者のする事」と言う認識らしい。楽器演奏が貴族階級の教養となっている地域は世界中、色々とあるのに、変わった感覚だと思うが、一旦諦めることにした。
私は弓矢・剣・馬術の鍛錬を重ねて、運命の時に備えた。
やがて、義父は北方で発生した国境紛争解決の為に急遽出兵を命じられた。そして予想通り……戦死したのだ。