王の女・2
私が知っている歴史と、この世界の歴史は幾つかの違いが有る。
まず、壬申倭乱とよばれる秀吉の大規模な軍事行動が不発に終わっている。清正の虎退治も、この世界には存在しない。だが、陶磁器などの工房で働かされる職人達は、もっと規模の小さい散発的な略奪行為で、あるいは金銭を媒介した納得づくで日本列島に渡って行ったようだ。
現在の王の名前も家族構成も違うが……一番大きいのは清との戦に負けた後の状況かもしれない。
もと居た世界の歴史では「人質として三人の王子が三百人以上の従者や官僚を伴って満州の瀋陽へ赴いた」はずだが、その王子達が存在しない。この世界では清は人質は取らない代わりに、大幅な領土の割譲と高額の賠償金を要求した。何と、それまでこの国はかつての渤海や高句麗の版図まで、領土としていたらしい。先ごろの戦で清に負けたことで、この半島だけが残された領土となったようだ。
「この違いは……何を意味するのだろう?」
恐らく私の果たすべき役割とリンクした条件なのだろうが、まだ判らない。
今の所、男のなりで内侍府の保護下でどうにか無事にやっているわけだが、連日具体的にやっている事は、宮中の奥医師とも言うべき内侍府尚薬職の助手をしている。と言うのも、この尚薬職の地位に居る人は、この国一番の名医ではないかと言われる方だから、せっかくなら修行させていただこうと思ったのだ。と言うか、初めて内侍府の主要メンバーと顔合わせした時、一番信頼できそうな方だと思ったのだ。
確かその時は夏の庭の花の話をして、漢詩の話をして、お酒の話をした。
「あなた様は実に面白い、いや正直言って変な方だ。だが、面白い方だ」
そう仰って、高先生は尚薬職の書斎と言うか薬房に自由に出入りを認めてくださった。以来自分では勝手に弟子だと思っている。
「気難しい高尚薬の気持ちをたちまちに捉えるとは、どんな呪いをかけたのかと伺いたくなる」
判内侍府事は真顔で私にそう言った。
後から聞けば、勘が鋭く、人の好き嫌いがはっきりしている方だと言う。特に目先の利益で動く人間や、呼吸するように嘘をつく人間はすぐに見抜かれて、話そうとなさらないらしい。それは御自分より身分の有る方に対しても、変わらないそうだ。
長い間宮中に居て、色々な秘密を見聞きなさったせいか、口数少なく、ちょっと悲しそうな笑い方をなさる。髪は殆ど真っ白だが、目も耳も無論頭も衰えを見せず、お酒も強い。
私は朝から日の暮れるまで高先生と医学書を調べたり、薬草を採集したり干したり潰したり、煎じたりしている。純粋に針治療や薬の話をするのは、面白い。だが、権力争いに絡んだ毒殺や変死の取り調べや検死は、なんともやりきれない気分になる。それでも、おおむね尚薬職での毎日は、楽しかった。
「つい忘れてしまうが、スルギも承恩を賜る身ではないか。全くおくびにも出さず、熱心に務めてくれるから、そなたが本当は女人である事も時折忘れてしまう。で、どうなのだ? 月の物とか、脈に変化は無いか?」
「昨夜、王様に言われるまで忘れておりましたが、二度ばかり月の物が来ておりません」
「王様が仰るまで、忘れていたとな? これはまあ、なんとも不届きな話だな。どれ、脈を見せなさい。それとも糸脈にするかね?」
糸脈とは高貴な直接触れられ無い女人を診断する時の方法で、脈打つ場所に糸を結び、その振幅で脈動を見る方法だ。高先生は糸脈の名手と言われる。でも名手ではあっても無論、先生だって直接見るほうが診断が付けやすい。糸脈でも妊娠はすぐ分かるだろうが、合併症などは直接で無いと、判断しにくいのだ。
「持病は無いようだな。ふむ。実に良い状態だと思う。元気なお子が生まれる事を願ってますぞ」
「妊娠ですか」
「ああ。おめでとうございます」
ニコニコしてそうおっしゃったものの、急に考え込む表情になられた。
「……だが……そうなると最低でも従四品の内命婦……王子様ならそれ以上、そなたへの御寵愛を考えると一挙に従二品、いやあ従一品もあるのかも知れんなあ。助手は頼めないか。残念だ」
宮中の慣わしで、王の子を産んだ人はたとえ身分が官婢の場合でも従四品に任ぜられる。そうなると、こっそりここに通う事も難しくなる。
報告を受けた判内侍府事が、大急ぎでやって来たが、「助手を辞めるのはイヤです」「私も残念だ」と言う先生とのやり取りを聞いて、笑い出した。
「王家の一大事に、なんとものんきなお二人だ」
このまま出産の日まで、助手をやっていた方がやたらと目立つより安全ではなかろうか?
ふとそんな考えが浮かんだのだが、どうなのだろう?