秘密の多い女・3
私は作品を「無名子」の筆名で色々と書いたが、世間の噂では男だとか、幾人かの作者の合同の筆名だとか言われていた。男が良く使う書体で、男の作者を思わせる様な少し硬い感じの文章が多かったから、そう思われるのも不思議はなかったというか、わざわざそうなるようにうわさを広めた。
だから、最初から出版を手助けしてくれているヤンホ兄さんと、この頃は作品の校正をしてくれるようになった梅里様以外は、筆者が女とは知らない筈なのだ。
儒学者崩れか、官吏登用への道をふさがれている権門の庶子ではないかと言う説が、そのうち一般に広く信じられるようになった。
「名を隠し、我らをこのような姑息な手段で攻撃するとはけしからん。草の根掻き分けてもそいつの首をはね、さらしてやらねば気が済まん」
そんな風に言ったと伝えられる高官は、幼い王子様の不審な死の真相を知る、いやそれどころか王子様に毒を盛らせたとも一部には見られている当の本人だ。現在の中宮様の父君だ。
まずい事に、印刷用の紙や版木の入手経路をあれこれつつかれて、この市場の中に該当者が居る可能性が有る、そう捕盗庁の連中は見当をつけたらしく、夏になってから市場一帯の取り締まりが厳しくなった。一方で無銭飲食やスリも減ったので、困る事ばかりでも無かったが。
「そなたがしばらく、本を出さずにいてくれたら、半年もすれば連中も別の事に気を取られて忘れるだろう。私も新作を読みたいのは山々だが、我慢する。つまらぬ事で命を落としては大変だ。どうかくれぐれも用心してくれ」
そう言う梅里様の言葉に嘘は無いと思っている。だが……幾度も文のやり取りをして、知人だという人の屋敷で度々会って一緒に食事をしたりしたが、いまだに本当の姓名を知らされていない。色々な話はするが、お互いの身の上に関しては話をしない。あちら様は御行儀が良いし、私は幾ら飲んでも平気な性質だし、酒が入っても別に席が乱れる事も無く、男女を超えた良い友人と言う感じであった。
「あの邸は内侍府の大物の別宅らしい」と情報通のヤンホ兄さんが聞き込んでは来たが、それを正面から信じたくは無かった。内侍府と言えば、宦官、それも王宮の宦官だ。
だが、それを知ってから、以前からの疑いは私の中で確信へと変化した。だから余計に、あの方の個人的な事情には踏み込まないように用心するようになった。
「なあ、梅里様って本当の御身分は……」
ヤンホ兄さんが私に尋ねた時、私はこう言って口止めした。
「お互い知らない方が良い事、知らないふりをしていた方が良い事って有るのよ、きっと」
「なら、そういう事にしておくさ。だが、信じて良いのだろうか? 売られていつの間にやらさらし首の刑、なんていうのは御免こうむるぜ」
「そう思うなら、私とは縁を切って。きっと、その方が安全よ」
「冗談じゃねえよ!」
そう言って、ヤンホ兄さんは珍しく怒鳴り、私の前から足早に立ち去った。
それからさらに一月あまりが過ぎた。その間、ヤンホ兄さんは一度も私に会いに来なかった。私も迷惑を恐れて、会いに行かなかった。
梅里様からは雨の振る寂しい夕方に「お返事は無用です」と言われて「何か当に 更に西窓の燭を剪り 却つて話らん 巴山 夜雨の時なるべし」と言う漢詩の後半部分と、士大夫風の男性の後姿を描いた手紙を貰った。晩唐の詩人・李商隠が作った自宅で帰りを待つ妻に語りかけるような内容の詩だ。
そこで私は小さな梅の花のパッチワークが沢山組み合わさったデザインの書類包みを渡した。
「私が自分で心を込めて縫ったと、梅里様にお伝えください」
そう言うと、いつも使いでやって来るヒゲの無い大柄な男性は、無言で深く頭を下げて、去っていった。
誰か、はっきりしないが……梅里様のした事ではないかと私は思うが、ともかく誰かが、「無名子」の小説の中の、特に毒殺事件の話を国中に広めている。このアニメをパクッたシリーズは士大夫の坊ちゃん「高南君」が謎解きをするのだが、モデルが有るのではないかと、これまたあらぬ噂になっている。だが一番皆が気にしているのは、幼い王子を殺害した手口が小説と同じなのではないかと言う事と、殺害命令を下した人物についてだ。
「文中で高南君が指摘したような点をつめて行くと、あの幼かった王子様は毒を盛られたと思うしか無くなってくる。この文を書いた人物は宮中の事情に詳しいのだろう」
こんな噂が国中に広がり、犯人ではと噂されている中宮様の一族は大いにあせっているようだ。そんな噂が聞こえる中、作者を絶対に捕まえて、さらし首にしろと言う要求を掲げて、朝廷を仕切っている老臣たちが王宮内の正殿前で座り込みを始めたと言う噂が、都中に広がった。