江戸の落ちこぼれ侍
銀河丸は跳んだ。
赤い大地を蹴った瞬間、体が思いのほか高く浮いた。
橙色の空が近くなる。風が耳の脇を割って通り過ぎる。
眼下に奇妙な形をした的——三つの丸い輪を捉えた。
一つ目。体を捻る。通り抜けた。
二つ目。腰を落として角度を変える。通り抜けた。
三つ目。最後の一つだけは高い。でも問題はない。
着地と同時に膝を沈め、地面の反力を殺さずそのまま次の跳躍に変えた。
ふわり、と体が浮く。
軽い。江戸の土の上とはまるで違う。まるで水の中で跳んでいるような、妙な軽さだった。
三つ目の輪を通り抜けた時、周囲から声が上がった。銀河丸が知らない言葉だったが、熱狂しているのだけは分かった。大きな耳を持つ青い顔たちが、口々に何かを叫んでいる。
銀河丸はその輪の外に着地して、立ったままひとつ息をついた。
空を見上げた。橙色の向こうに、月が三つ見える。大きさがバラバラで、どれが本物かわからない。江戸の夜空にある月とは、ぜんぜん違う。
「……早く帰りてえ」
誰にでもなく、そう言った。
「おにぎり食いてえ」
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三ヶ月前、銀河丸は江戸にいた。
長屋の二畳一間。畳はすり切れて、柱は傾いでいる。大家の婆さんから「今月もですか」という声が板戸越しに聞こえてきたのは、朝の日が差し込み始めた頃だった。
「すみません。来月は必ず」
「来月、来月って、もう三月ですよ」
「……分かってます」
板戸が閉まる音がした。銀河丸は低い天井を見上げて、ため息をひとつついた。
道場に向かうのはもっと憂鬱だった。木刀を握って稽古場に立つたびに、誰かが何かを言う。
「ちびの銀、また来たか」
「背が小さいのに剣術やるとは、笑えるぜ」
組み手に入ると、もっとひどかった。体格で劣る銀河丸は、力任せに押し込まれると踏ん張りが利かない。相手の動きを読んで、速く動いて、間を詰める——そういう戦い方をしても、道場の師範には評価されなかった。
「銀河丸。剣術は力だ。いくら小賢しく動いても、力がなければ意味はない」
稽古が終わると、銀河丸は黙って道場を出た。
帰り道、屋台で米を一握り分けてもらった。懐にある銭を全部使っても、一握りだけだ。長屋に戻って、自分で握った。形は不格好だが、塩を少し振って、薄く味噌を塗った。
かじった瞬間、顔がほぐれた。
そういうものだった。おにぎりを食べている間だけは、何もかもがどうでもよくなった。腹が膨れる。それだけで十分だ。
夕暮れの中、銀河丸はひとり路地に座って食べた。
俺は弱い、と思う。剣術が下手で、体が小さくて、俸禄も少ない。道場では馬鹿にされ、長屋では家賃を滞納している。どこをとっても「使えない」と言われる側の人間だ。
それでも。
人の役に立ちたいという気持ちだけは、誰にも負けない。
そう思っていた。思い続けていた。その気持ちだけが、明日の朝また道場に向かわせてくれた。
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出陣の命令が来たのは、その翌月のことだった。
上役の侍が言った。「銀河丸、お前にも出てもらう」
屈強な浪人集団が村の道を塞ぎ、通行料を要求しているという。五人組の精鋭が出動するが、数が足りない。だから銀河丸にも声がかかった。それだけのことだった。
戦いは、あっという間だった。
あっという間に銀河丸は吹き飛ばされた。
相手は大きかった。力が違いすぎた。速さで勝負しようとしたが、相手は慣れていた。銀河丸の動きを読んで、逆に先回りして待っていた。気がつけば地面に叩きつけられていた。
立ち上がろうとした。
また吹き飛ばされた。
地面が痛かった。体中が悲鳴を上げていた。
死ぬ、と思った。
その瞬間、目の端に何かが映った。
草むらの中に、何かが落ちていた。金属製の、椀のような形をした——帽子、のような何か。銀河丸が今まで見たことのないものだった。内側に何か刻まれているのが見えたが、読む暇はなかった。
咄嗟に、かぶった。
キンッ。
鈴のような音が頭の中に響いた。
世界が歪んだ。
光が溢れた。重力が消えた。耳の奥で轟音が鳴り続けた。そして——
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気がついたら、赤茶色の荒野にうつ伏せに倒れていた。
起き上がった。
地面が赤い。草のようなものが生えているが、色が紫だ。空は橙色で、雲ひとつない。太陽のようなものが二つある。
「……どこだ」
銀河丸は立ち上がりながら、声に出した。
遠くに何かが見える。建物のような形。人の気配。
そして——
風に乗って、声が届いた。言葉は分からない。でも、助けを呼んでいるのだということだけは、はっきりと分かった。
銀河丸は空を見上げた。
三つの月が、橙色の空に白く浮かんでいた。
「……ここは、どこだ」
声の方に、足が向いた。
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