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聖地メディティアは、四方を高い壁に囲まれており、夜になると人の気配が消える。
祈りも、足音も、昼の喧騒も――鐘の余韻だけを残して眠りにつく。
僅かな月明りを頼りに、小さな人影がひとつ、外壁に繋がる通路を走っていった。
迷いのない足取りだった。
見回りの騎士たちに見つからないルートを、彼女はこれまでの経験から熟知している。
人影は、難なく外壁まで辿り着き、内階段を駆け上がった。
蝶のように軽やかな動きだった。
はためく裾がまるで羽のようだ。
外套の下に正装である白い衣が覗く。登り切った先には小部屋があった。
以前は外壁を警護する騎士たちの仮眠室だった場所だ。今は物置に使われているため埃っぽく、誰も近寄りはしない。
彼女は躊躇いなく、物置のドアを開けた。
「遅い」
月明かりの下、外套に身を包んだ少年がひとり、壁にもたれていた。
「ごめんっ。いつもより見回りが多かったの」
ミヤが息を弾ませて笑うと、カイルは小さく舌打ちをした。
「だから言っただろ。無理するな」
「でも」
ミヤは一歩近づいて、声を落とした。
「今夜は、どうしても会いたかったの」
その言葉に、カイルの視線が揺れる。
彼は騎士見習いだった。
そして明日、その肩書きが変わる。
「良かったね、カイル」
「ああ。……やっとだ」
答えながら、彼は手近な木箱に腰かける。
腰に差した剣が鈍く当たる音がした。
正面に同じように腰を下ろし、彼女は満面の笑みを向ける。
「みんなすごいって言ってたよ。その歳で聖騎士に任命されるなんて。史上初だって」
「バルトが推薦してくれなかったら、こんなに上手くいかなかっただろうな。師匠には感謝してる」
「カイルが頑張ったからだよ。人一倍訓練してたの、私見てたもん」
キラキラとした視線を向けてくる彼女から、カイルは目を逸らした。
周囲から評価されているというのに彼にはあまり自信がないようだ。俯いたことを後悔と受け取って、ミヤは困ったように眉を下げた。
「嫌だった? カイルが聖騎士を目指したのは、私が我儘を言ったからだよね……。まだ任命前だから、今からでも聖堂の偉い人たちに掛け合えば取り消してもらえると思うよ」
聖堂の偉い人たちに話しかけるなんて不敬、ただの平民ならば許されないが、彼女にはその権限があることをカイルはよく知っていた。
目の前の少女の勘違いに彼は勢いよくかぶりを振る。
今更取り消されるなんて、とんでもない。やっとの思いで、ここまできたのだ。そのためならどんな辛いことがあっても乗り越えられた。全ては彼女の隣にいるためだけに、彼は血の滲むような努力を積み重ねてきた。
「俺が騎士に憧れるような男に見えるか?」
素直にお前の傍にいたいからだと言えるのなら苦労はしない。彼なりに精一杯の本音を口にすると、ミヤはどこかまだ不安を残したまま、再び笑みを浮かべた。
「村にいた頃は、村の子たちと喧嘩ばかりしてたよね。その頃からカイルは強かったけど、いつか大怪我をするんじゃないかって心配だったの」
「あんな弱い奴ら相手に怪我なんかするかよ」
「ふふ。そうだったね」
明らかに喧嘩でつくった痣や怪我を「転んだ」の一点張りで通していた姿を思い出す。
「今なら私が治してあげられるけど、あのときはこんな力もなかったから」
そう言いながら、彼の腕にできた擦り傷に手をかざした。傷は瞬く間に塞がっていく。これが彼女の力の一部だ。
聖女ミヤ。幼い頃に聖女として見出され、特別な訓練を積んできた彼女にとっては、これくらいの傷の手当は息をするより容易いことだった。
聖女たちには聖騎士が護衛として付くことになっている。
史上最年少でその大役を手にした彼とは幼馴染だった。
彼はその関係性を隠したがった。
ただでさえミヤは平民出身ということで色眼鏡で見られることが多かった。彼女の足を引っ張る存在になりたくないと彼が譲らなかったせいで、こうして夜毎に秘密裡に会っていた。
それも今夜で終わりだ。
明日からは聖女と、そのお付きの聖騎士として人目があるところでも話をすることができる。ミヤはそれが嬉しかった。
「明日からは俺は聖騎士だ」
「うん」
「他の聖騎士とは違う。俺は、お前しか守る気はない。何があっても、たとえお前が聖女じゃなくなっても」
「なにそれ。私が聖女じゃなくなることなんてあり得ないよ」
その言葉が、どれほど脆い根拠の上にあるのかを、そのときのミヤはまだ知らなかった。
「任務が完了しない限り、死ぬまで私たちはお役目を降りることは許されないんだよ?」
「完遂しないうちに聖女の席が空けば、またすぐに別の聖女が現れる。聖者たちが好きな『教え』ではそうなってるんだろ。他の聖女のことは知らんが、俺はミヤだけは死んでも守ると決めてる」
「もー。大袈裟だってば」
ミヤは笑ったが、カイルは真剣だった。
遠くで鐘が鳴る。
夜警の配置換えの時間だ。彼らが別れる際の合図だった。
「また明日ね」
「ああ」
ミヤは名残惜しくて何度も振り返った。
明日からはもっと近くにいることができる。
きっと大丈夫。
そう分かっているのに、ミヤは嫌な予感が拭えなかった。




