奪われ続けた姉ですが、婚約したら妹が炎に包まれて消えました
家のお姫様は、いつだって妹だった。
「クロエは本当に可愛いわ。いつか王妃様になれるわよ」
母は、私に見向きもしなかった。
「ごめんね、リラ。僕はクロエが好きなんだ」
婚約者は皆、そう言って去っていった。
「お姉様はずーっと1人ね。ここ以外、居場所なんてないでしょ?」
クロエはいつも、私を見下ろし笑っていた。
私の胸には、常にぽっかりと穴が開いている。きっと、今日もそれは変わらない。
目の前に座る表情のない男性。一言も交わさず、早五分。風の音だけが鼓膜を揺らす。
「あの……もしローラン様がお嫌でしたら、断ってくださって大丈夫です。慣れてますから」
18になっても婚約者がいない私。そんな行き遅れと好き好んで見合いを組む男なんていない。公爵令嬢の私と、侯爵家の三男坊である彼。
今後の生活のために渋々受け入れたんだろうな。
考えなくても誰でもわかる結論だ。
正面の彼は特に何を言うこともなく、じっとこちらを窺っている。
「婚約寸前まで話が進んだ男性は、皆スキャンダラスな噂話で消えていきました。貴方もきっと、それを恐れているのでしょう?」
挙げ句の果てについた渾名は『嫉妬の魔女・リラ』。
ただ振られ続けただけで魔女になれたら、今頃この世は未知の力で溢れているだろう。
「……別に気にしていない。噂は噂だ。それに、噂が立つような浮ついた生き方をしているやつが悪い」
男は喉仏の目立つ喉を震わせ、見た目に似合わぬ繊細な所作でティーカップを傾けた。
「俺は自分の目で見たものしか信じない。今の所、俺の目には貴女は誠実そうな女性に見える。……つまらぬ男と言われることも多いが、貴女が良ければこの話を進めたい」
いつも通り断って終わりにするはずだった。なのに二言三言交わしただけで、いつの間にかとんとん拍子に話が進んでいく。
静かなその強引に呆気に取られることしか出来ない私。でも何故かその無骨さが、今の私には心地よかった。
* *
「へぇ、お姉様また婚約の話を進めてるのね。これで何人目?」
くすくすと笑う鈴を転がすような声。質素な私の部屋に似合わぬ華美な洋装に、私はすっと目を細める。
「さあ……覚えてないわ」
「そうでしょうねぇ。お姉様、いっつも振られているものねぇ。ふふ、お姉様がお家から出られるのはいつになるのかしら。ねぇ、テディ」
クロエはお気に入りのクマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。子供の頃に奪われたそのぬいぐるみ。幼い時からクロエは私のものを奪うのが好きだった。
私が結婚できないのは、貴女が男を奪うからでしょう?
そんな言葉が喉まで迫り上がる。
でもそれを言ったところで、私の味方は誰もいない。ただ笑われて終わるだけ。
「ふふっ、お姉様の新しい婚約者、私がちゃあんと見定めてあげる。楽しみねぇ、お姉様」
この3つ下の憎たらしい妹は、今回も飽きずに略奪を続けるつもりらしい。トタトタとドス黒い本性に似合わぬ可愛らしい音を立てて、クロエは部屋から出ていった。
ローラン様は他の男性とは違うようだけど……クロエに迫られて、果たして何日持つだろう。
私と同じ金色の髪、青い瞳。それなのにその輝きはまるで違う。
『同じ宝石でも等級ってものがあるのよ。ねえ、お姉様』
耳にこびりついて離れないその言葉。呪いのような忌々しいそれは、いつも私を縛って離さない。
* *
それから1ヶ月。何故か、私はまたローラン様とお茶をしていた。こうやって庭園で会うのも、もう何回目だろうか。
「……先日、また貴女の妹君がきた」
「そう、ですか」
会うたびに交わされるこのやりとり。ローラン様曰く、『他の女性と会ったならば、意図しないものにせよ婚約者に報告するのが筋だろう』とのことだったが……正直、聞くたび気が滅入る。
「見目だけならリラ嬢とあまり変わらないが……そこまで似ているとは思えないな」
その台詞に意図せずぴくりと肩が跳ねる。手を持ったティーカップが、カチャリとかすかな音を立てた。
『クロエの方が、可愛らしいよね』
『似てるはずなのに、なんでこんなに違うんだろう』
昔の記憶がよぎるたび、ぎゅっと胸が締め付けられる。
「俺には、貴女の方が透き通ってみえる。悪意のない、安心感のある静かな美しさだ。クロエ嬢は……俺には、眩し過ぎて落ち着かない」
「そんなこと……はじめて、言われました」
予想外の言葉に、私は勢いよく顔を上げる。
初めてひたと見据えたローラン様の目。わずかに細められたその黒い瞳には、驚いた表情の私の姿が映っていて。
「人によって価値観は様々だからな。だが……俺は、リラ嬢と居られるこの時間を気に入っている。ただ、それだけだ」
何処までも平坦なその声音。熱を感じさせないそれが、私の胸に溜まった淀みをじんわりと溶かしていく。
「私も……この時間が、好きです」
ぼそりと呟いた言声は冷たい空気に溶けて消える。決して交わした言葉は多くない。それでも少しずつ、しかし確実に、私たちの距離は縮まっていった。
* *
「お姉様……結婚、するの?」
呆然としたクロエの顔。見たことのないその表情も、今はもはやどうでも良かった。
「ええ。正式にローラン様からお話があって」
視線を素早く手元に戻し、いそいそと荷物をまとめる。元々持ち物が少ないからきっと準備はすぐ終わる。強いていうなら祖母からもらったブローチだけが、数少ない貴重品といえよう。
私を可愛がってくれた唯一の人。その人に結婚の報告ができることが、私は何より嬉しかった。
「……っなによ! それ!!」
空気を切り裂くような絶叫に私は思わず手を止める。
くるりと回した視線の先。見えたのは、可愛らしさとはかけ離れた般若のような形相だった。
「お姉様が、結婚? 私を差し置いて? 絶対、許さない」
「クロエ……?」
呆気に取られた私の手元。そこにあったはずの祖母の形見を、クロエはむんずと奪い取る。
「いやっ……やめてっ……!」
咄嗟に伸ばした手は空を切る。その先で口の端を吊り上げた、醜悪なクロエの顔がチラついた。
「返して欲しかったら、婚約者を連れて屋敷の離れに来ることね。もちろん、今日中よ。じゃないと……」
クロエの腕が、強くブローチを握りしめる。みしりと、金属がひしゃげるような音がして。
「やっ……やめて……わかった、わかったから……」
「ふふ、わかればいいの。……お姉様は、ずっと私に逆らえない。今までも、これからも。そうでしょ?」
クロエはくすくすと笑いながら、カツカツと音を立てて部屋を後にする。
私はこんな風になっても、彼女に抗うことができなかった。ローラン様を巻き込みたくはない。でも、それでも……。
今回ばかりは、私は、奪われるわけにはいかないんだ。
* *
今はもう使われていない離れ。昔祖母が隠居していたこぢんまりとしたその姿。懐かしいそれが、今だけは幽霊屋敷よりも恐ろしいもののように感じられた。
きぃ、と軋んだ音を立てて開く扉。埃とは違う鼻をつく臭気。すぐに見える広間、その正面にある階段の上。そこに佇む――美しい、金髪の若い女。
クロエはキッと、私の隣に立つローラン様を睨みつけた。
「……お前がもっと早くお姉様から離れていれば、こんなことをせず済んだのに」
地を這うような恐ろしい声が、視線が、まっすぐこちらへ突き刺さる。
「どういう……こと……? クロエの狙いは、私からローラン様を奪うことでしょ?」
クロエははっと鼻で笑うと、一歩、また一歩と階段をゆっくり降りてくる。
「そんな男、どうでもいい。お姉様に関わりさえしなければ、微塵も興味なんてありやしない」
何処までも冷たい声に、足がすくむ。背筋が、凍る。
「お姉様は、ずっと、ずっと私のものだった。お姉様も、お姉様の所有物も。全部、全部全部私のものなの!」
魂すら震わすような絶叫。鼓膜を揺らす悪辣な言葉に、私は眉をひそめる。
「……それは貴方の勝手な思い込みだろう。人の全てを奪う権利など、誰にも存在しないのだから」
私を庇うように前に出る頼もしいその背中に、強張った喉が僅かに緩んだ。
「クロエ……私はもう、貴女の言いなりにはならない。私は貴女の玩具じゃない。ブローチを、返して」
初めて口にする、明確な反抗の意思。その声にクロエは、大きく宝石のような目を見開いた。
「なんで……なんでお姉様が私を拒絶するの……? 私は……お姉様のために、すぐ揺らぐような安い男を退けて、お姉様が何処にも行けないように、いらないものを全部取り上げて。そこまでしてもまだ……お姉様は、私のものになってくれないの?」
「何を……言ってるの……?」
「私が欲しいのは、ずっとお姉様だけだったのに。お姉様さえ居てくれれば、私はそれで良かったのに」
世界を呪うような声。意味のわからない呪詛のようなそれが、クロエの口から垂れ流される。
「私が女だから? 妹だから? だから、お姉様は振り向いてくれないの?」
クロエは両手で何かを擦る。
ふわりと、そこに炎が灯った。
「それならこんな世界――燃やし尽くしてやり直しましょう?」
ポトリと落ちるマッチの束。ぼわりと光りだす、鼻をついた臭気の正体。
「ふふ……ねえ、テディ。お姉様も貴女も、ずぅっと私のものだもんね」
クロエはいつも通りぎゅっとぬいぐるみを抱き寄せる。その顔は仲が良かった幼い頃の、あの泣き虫なクロエそのもので。
ふわりとクロエの頭上に持ち上げられる細い腕。その手の中でキラキラ光る、お祖母様の緑のブローチ。
「ほら、ブローチはここよ。早く来て、お姉様。ここへ、私の元へ」
その笑い声は普段の忍び笑いとは違う。狂ったような高笑いが、耳の奥をつんざいた。
「さあ! さあお姉様! はやく、こっちへ来てちょうだい! じゃないとぉ……燃えちゃうわよ?」
「っ……!」
ブローチと、燃え上がる炎。その二つを交互に見つめる。危険なことはわかっている。火は、凄まじい速度で広がっていく。それでも私は、決めきれなくて。
「……すまない、リラ。ブローチが大切なものであることはわかっている。だが……それでも俺は、リラの命を優先したい」
力強い腕にガシリと肩を掴まれた。ふわりと体が浮いてそのまま炎が遠ざかる。
でも何故か……自分で思っていたよりも、私はすんなりその事実を理解できて。
「……構いません。貴方が、必要としてくれるなら。今はその方が大切ですから。……巻き込んで、ごめんなさい」
狂ったように私を呼ぶクロエの声が響く中、ローラン様はそれをかき消すように私の耳元で囁いた。
「謝らないでくれ。リラが望むことが、俺の望みなのだから」
何処までも優しい腕の温もりと、熱くてたまらない炎の気配。朦朧とする世界に……私は、そのまま意識を委ねてしまった。
* *
「ぅっ……!」
私はがばりと飛び起きる。炎の熱さも、狂ったような笑い声も聞こえない。ここは家の寝室。温かなシーツと、穏やかな静寂に包まれた、ただの、日常だった。
肩で息をして、少しずつ、鼓動を落ち着かせる。
「ん……また、眠れないのか……?」
何処か寝ぼけた優しい低音。その主人は私にそっと腕を伸ばし、震える体を包み込む。
「すみません……私……」
「大丈夫、ここは安全だ。あいつは、あの空間は……もう、何処にもないのだから」
そう……クロエは、もういない。中から出てきたのは黒焦げになった何かと、それに包まれた金属の破片。ただ、それだけ。
その事実が、鳩尾の奥をぎゅっと締め付けた。込み上げてくる酸味をごくりと飲み下す。この一連の流れも、もうすっかり慣れてしまった。
「少しずつ、息を、吸って、吐いて。大丈夫、俺は……ずっと、ここにいるから」
少しずつ、しかし確実に、体を震わす異常が引いていく。これに悩まされるのも、もう、何度目だろう。
クロエは――もう、この世にいない。
しかし彼女はいつまでも、私の心に住み着いて離れない。
『お姉様は、私のものよ』
その声だけが幸せなはずのこの暮らしに、今日もぽっかりと穴を開け続けるのだ。




