「龍華 ― 静かなる見守り ―」
【第323話】「龍華 ― 静かなる見守り ―」
私は龍華。
かつて、友達と一緒にこの村を訪れ、そこで月詩という少女と出会った。十二歳の幼さながらも、瞳は凛と澄み、心には清らかな光が宿っていた。彼女の家に潜んでいた妖を斬った夜から、私はこの地に留まり、裏手の小さな神社を住処とした。
――弟子をとるとは、こういうことなのだろうか。
彼女と姉の桜羽には霊根があり、仙道を歩む器を持っていた。だが、とりわけ月詩は、修行に没頭する姿が際立っていた。厳しい呼吸法にも、骨を軋ませるような剣の型にも、決して弱音を吐かない。そのひたむきさは、私に若き日の自分を思い出させた。
修行の合間、彼女はよく山に入っていた。家から二十里先、滝のある静かな山中だ。仙道を志す者にとって、その距離は鍛錬に過ぎぬ。けれど、私は気づいていた。あの山は月詩にとって「修行の場」であると同時に、「心の拠り所」でもあることを。
そして――ある日、その山にひとりの少年が現れた。
薪を拾いに来たという凡俗の子。名も素性も問わぬまま、月詩と出会い、彼女に話しかけ、笑わせ、やがて心を寄せるようになった。私は遠くからその光景を眺めていた。少女が声を立てて笑う姿は珍しく、師である私にとっても新鮮で、嬉しくもあった。
だが同時に、胸の奥に微かな痛みが走った。
――仙と凡。交われば、必ず哀しみを生む。
月詩はやがて少年に仙術を教えようとした。けれど、霊根はなかった。ただの凡人。仙道に縁を持たぬ者だった。それを知った彼女の小さな肩が、ほんの一瞬だけ落ちたのを、私は見逃さなかった。
「霊根がなくてもいいさ。お前ができるなら、それで十分だろ?」
少年はそう笑った。
その言葉に月詩が涙を堪えるように笑みを返す姿を、私は黙って見守った。
年月が流れる。
少年は青年となり、やがて壮年となった。村の人々に慕われ、強く、逞しくなった。けれど、月詩は変わらない。少女のまま。仙を歩む者の宿命であり、凡俗とは異なる時の流れを生きる証。
私は気づいていた。
月詩はその違いを悟りながらも、彼を想い続けていることを。
ある夜、私は社の前で月詩を見た。
少女は術を結び、幻を生み出し、夜空に祈りを放っていた。
「どうか……来世で会えますように」
淡い光が花のように舞い上がり、空へと昇っていく。彼女の頬を伝う雫は、雨でも露でもない――切なすぎる、恋の涙だった。
私はその場に立ち尽くし、声をかけることができなかった。
師として、諭すべきなのだろうか。仙人は孤独を宿命とする。凡俗の情に囚われれば、道を踏み外す。だが、あの小さな背中を前にすると、私はただ黙して見守ることしかできなかった。
月詩は弟子であり、同時に一人の娘のような存在だ。
彼女の心を切り裂くような真実を突きつけることなど、私にはできなかった。
――来世。
その言葉は儚くもあり、また救いでもあった。凡俗と仙が共に歩めぬなら、せめて魂の巡り合わせに希望を託すしかないのだろう。
晴樹――そう名乗ったその少年が、やがて妻を娶ったと知った日。月詩は人知れず涙を流した。私は背を向け、彼女の嗚咽を聞かなかったふりをした。師とは、弟子の心を守る盾でなければならぬ。彼女が立ち直るための時間を与えることが、今の私にできる唯一の道だった。
……私は思う。
もし凡人として生きていたなら、月詩はきっと彼と共に村で笑い、子を育み、幸せに暮らしていただろう。だが、仙を歩む選択をした以上、その道は閉ざされた。
それでも、私は彼女を否定しない。
愛を知り、想いを抱き、それでも道を捨てなかった。月詩は修行をやめてはいない。涙の裏で、彼女はなお修仙者としての歩みを続けている。その強さを、私は誇りに思う。
今宵も、山の滝の音が響いている。
月詩はきっとそこで座しているだろう。心の奥に秘めた祈りを胸に、静かに仙道を歩む姿が目に浮かぶ。
私はただ見守る。
師として、母として、そしてひとりの仙として。
――来世で彼女が想い人と巡り逢うその時まで。
その祈りが天に届くことを信じながら。