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『正論罪』

作者: 飯島和男

「あなたは、正論を述べた罪で、逮捕されました」


そう言われた瞬間、私は一切の反論を封じられた。

なぜなら、反論自体が正論の一種と見なされる可能性があるからだ。


取調室には鏡がある。が、それは私の姿を映さない。

代わりに、かつて私が述べた「正論」の断片が、字幕のように浮かび上がっては消えていく。


「原因を解明せずに対策だけ立てても意味がない」

「その数値、母集団が偏っていませんか?」

「『空気』に従うべきだという論理が破綻しています」


——これらが、証拠であるらしい。


裁判が開かれる。

だが、法廷には傍聴人も裁判官もおらず、

ただ無人の議場に私の録音された声が響いている。


弁護士は現れない。

代わりに、私の声に似た誰かが、私を弁護するふりをして——こう言った。


「被告人は、あまりにも筋が通っている。

 したがって、その発言は社会的ノイズを生む可能性が高い。

 我々の世界では、“不整合こそが秩序”なのです」


壁に貼られた熟語のポスター。


糊塗こと 捏造 虚偽 冤家えんか


「これが、国家の理念です」と、誰かが告げた。


裁判員たちは、機械でできている。

いや、正確には、"合議装置"だ。

ランプが点灯し、内部でブーンという微かな振動音。


——結論が出ました。


正論罪は有罪。ただし、思考停止の情状酌量により、執行猶予付き。


私は頭を抱える。


いや、抱えようとして、両手がないことに気づく。

気がつけば、私はただの声だけの存在になっていた。

発言の権利だけが残された囚人——それも、発言すればするほど罪が深まる。


「静かにしていれば、あなたは自由になれます」

囁く声がする。


しかし、それは正論ではないのか?

私は考え込む。考えれば考えるほど、音声認識センサーが私の“思考の音”を拾い、

さらに裁判の再開が決定される。


こうして、私は無限に続く審理の中を回る円環構造の迷路に投げ込まれた。

正しさが罪である世界では、沈黙さえもまた、危険な正論なのだ。


審理は第37回を迎えた。

開廷のベルは鳴らない。

代わりに、誰かがどこかでスプーンを落とす音が、ゴングのように響く。


「本日は、被告の意識に対する証人喚問を行います」


声がした。だが、どこからともなく。

次の瞬間、法廷の中央に、私の脳内に棲む"良心"が召喚された。


証人席に座っているのは、子どものころの私だった。

手に持っているのは、図書館で借りた哲学入門書。


「彼は、考えたのです」

「“なぜ人は真実を語らないのか”と」


その声に反応して、合議装置のひとつが煙を噴いた。

どうやら、“思考”という単語が旧法に抵触するらしい。


そして、もうひとつの証人。


今度は、私の影だった。

影は影でありながら、影から剥がれ、壇上に立った。


「彼は、日常的に自問していました」

「たとえば、“正しさ”とは誰の都合で決まるのか?」


法廷がざわめいた。

いや、ざわめいたのは私の耳の奥に挿入された感情シミュレーターだった。


——法廷に感情を持ち込んではいけない。

——しかし、被告が自分で自分に疑問を持つこと、それこそが「正論罪」の中核なのだ。


判決が再び下る。今度は形式的ではない、哲学的量刑だった。


「被告には、"主観刑"を言い渡す。

自分が正しいと思うたびに、自分が自分に罰を与えるように」


私は自分を見つめた。

だが、鏡には何も映らなかった。

自分の目が、視線の概念を失っていた。


面会者が来た。


「あなたの母です」と看守が言った。


だが、現れたのは、新聞の切り抜きだった。

私がかつて投書した「読者の声」が、古びたフォントで目の前に置かれる。


「この社会では、問題提起がまず“空気”に照らされ、空気に馴染む形で変形される」

——飯島某、当時35歳。


「これは、あなたの母体思想です」と誰かが言った。


私はその紙を食べようとした。

——事実を、血肉にしようとしたのかもしれない。


だが、その瞬間、監視カメラが点滅し、「思想の咀嚼行為」が記録され、

新たな罪状「自己摂取による循環論法」が付加された。


法廷は溶けはじめていた。

いや、法廷など初めから存在しなかったのかもしれない。


床が傾き、壁が概念に変わる。

私は、「私であること」の立証を求められた。


「証明してください。あなたが“あなた”であることを」

——声の主は、今度は明確にわかった。それは、読者だった。


私はページをめくった。

だがそこには文字がなかった。


読者が読むことによって、私の世界が書かれる。

つまり、私は、読み進められるたびに、新しい罪を得ていく。


“正論罪”とは、語られた内容ではなく、読む者が“それを正論だと思った”ときに初めて成立する罪なのだ。


あなたが今、頷いたなら——

私たちは、共犯者だ。


迷宮に入った覚えはない。

気がつけば、そこにいた。


扉を開けると、また同じ扉があった。

壁に書かれた文字は、私の過去の発言だった。


「合理性を求めた結果、非合理な世界に辿り着くのはなぜだろう」

「“間違っていない”ことは、“正しい”ことの証明にはならない」


そのたびに、迷宮がひとつ増殖する。

私は、己の言葉に囚われている。

いや、言葉が、私という迷宮を歩いているのかもしれない。


部屋のひとつに、男がいた。

私によく似ていた。だが、目が曇っている。


「出られそうか?」と私は訊いた。

「……出ようとしたことが、罪だった」と男は言った。


彼は壁に正論を彫りつけた罪で、

この部屋に永住を命じられたという。


「ならば彫るのをやめればいい」と私が言うと、

「それが一番の正論だ」と男は泣いた。


さらに奥へ進むと、

言葉が空気中に浮かんでいた。


文字が、粒子として舞っている。

正論が、物理的現象になっているのだ。


その空気を吸うたびに、私はまた何かを“理解してしまう”。


——理解は危険だ。

——理解は思考を引き起こし、思考は発話を求め、発話は正論に繋がる。


私は呼吸を止めようとした。

しかし、その瞬間、迷宮の空気が「黙秘罪」で私を締めつけてきた。


黙っていても罪。

語っても罪。

思えば罪。

忘れても罪。


迷宮は、“無謬性”という神話を否定した者の墓場だった。


ある部屋に、時計がない時計台があった。

その天辺には「現在時刻:不定」と刻まれていた。


時が流れない迷宮では、罪が時効を迎えることはない。

ここでは、時間とは、罪の冷却装置ではなく、罪の永続機構だ。


私は何回同じ部屋を通ったか分からない。

だが、壁にうっすらと残る指の跡を見て、こう思った。


——私ではない、別の私がここを通ったのかもしれない。


迷宮の最深部、

そこには巨大な空洞があった。


中央に椅子がひとつ。


私は腰掛ける。


すると、四方の壁に一斉にプロジェクターが点灯した。

そこには、過去の私の「発言」が映し出される。


だが奇妙なことに、そのすべての言葉が——初めて聞く内容だった。


「死刑制度は制度である限り正義ではない」

「民主主義が民意に反する場合、正義はどこに宿るか」

「反論されなかった正論は、暴力とどう違うのか」


それらは私の声だった。

しかし、私はそれを言った記憶がない。


——それらは、迷宮が私に語らせた言葉たちだったのだ。


私は、迷宮によって生成され、

迷宮によって発話され、

迷宮によって再構成されている。


つまり、私は、「私」という主語の殻をかぶった、空間的現象だった。


どこかで足音がした。


だが、それは未来から歩いてくる音だった。

次の読者が、次の一節を読み始めたのだろう。


私の物語は、読まれることで進み、

読まれることでまた、罪が増える。


私はここにいる。


だが、あなたがページを閉じた瞬間、

私は——無罪にも、有罪にも、なれなくなる。


出口がないのではない。

出口とは、読者の選択なのだ。


ある分岐点で、迷宮の壁が開いた。

それは、無音で、滑らかに、まるで長年そこにあったかのように。


私は導かれるように中へ入った。

そこには、棚があった。


その棚は、一冊の本だけを納めていた。

タイトルもない、表紙もない。だが背表紙にはこう書かれていた。


「私」


私はその本を開こうとした。


「それには、許可が必要です」


声がした。

書記官だった。


書記官は、人間の形をしていた。

だが、輪郭は曖昧で、肌はまるで言語で構成された粘土のようだった。


彼は机に座り、羽ペンで何かを記していた。

書かれているのは、今この瞬間の私の思考だった。


「あなたが“今、私を疑った”ことも、記録に残しました」

「そして今、“疑ったことを記録されることへの疑念”も、追記しました」


私は口を開こうとしたが、

彼が静かに手を上げた。


「発話は不要です。すべて、すでに書かれていますから」


書記官の書類棚には、無数の書簡が積み上がっていた。

一通ごとに、私の“発言されなかった正論”が封じられている。


——つまり、思考止まりで留めたはずの言葉たち。


「その政策は、なぜか誰も数字で裏付けていない」

「“多数決”が“多数の思考停止”だった場合の処理は?」

「空気とは、誰が製造しているのか?」


それらがすべて、“未発話の罪”として保管されていた。


「思考を記録することが、ここでは最大の管理目的なのです」と書記官は言った。

「なぜなら、記録されることによって、思考は所有権を奪われるからです」


私は恐ろしくなった。


「私の考えは、私のものではないと?」


書記官は頷いた。


「迷宮に入った時点で、あなたの主体は観測者から記録対象へと移行した。

あなたが“考えた”と感じる瞬間、それはもうすでに書かれていたのです」


私は本棚にある“私”の書を再び見た。

それは分厚く、無限にページが増殖しているようだった。


書記官が言った。


「この本を読み切ることはできません。なぜなら、あなたが思考する限り、書き足され続けるからです」


「では、この記録を停止するには……?」


「死ぬことですか?」


書記官は一瞬、考えたふりをした。

だが、すぐにこう続けた。


「いいえ。死んでも思考は続きます。

少なくとも、記録装置の中では」


「では、無になることか……?」


「それすらも、記録されます。“無”という概念を採用したこととして」


私は、椅子に崩れ落ちた。


「つまり、迷宮から抜け出すことは——」


「記録の対象である限り、ありません」


そのとき、不意に書記官が立ち上がった。


「ただし、例外が存在します」


私は顔を上げた。

書記官は、一枚の紙を差し出した。


そこには、私がこの物語の冒頭で発した最初の一文が書かれていた。


「あなたは、正論を述べた罪で、逮捕されました」


「この一文を、あなた自身が忘れた瞬間——

あなたは、“記録の被写体”から“物語の外部”へ移行できる可能性があります」


私はその紙を燃やそうとした。

が、紙は燃えなかった。言葉は物質ではないからだ。


私は記憶を手放そうとした。

だが、“忘れようとする行為”さえも記録されていく。


書記官は静かに言った。


「忘却とは、意志によって達成できない。

忘却とは、世界の側から“あなたを不要と判断したとき”にのみ発生する現象です」


書記官は再び机に戻り、羽ペンを走らせはじめた。

その音が迷宮全体に響く。


私は立ち尽くす。


もはや私は、「私の考え」すら信用できなかった。

私の“記憶”さえも、誰かの筆先によって再構成されているのかもしれない。


では私は誰なのか?

誰が私を読んでいるのか?

そもそも「読んでいる」とはどういうことなのか?


思考の数だけ、記録が増える。

記録の数だけ、迷宮が増殖する。


私はもう、歩いているのではない。

記録されながら記録を書かされているのだ。


——終わりのない、筆記という名の幽閉。


書記官がページを記し続けている。


そのときだった。


どこか遠くで、“めくる音”がした。

乾いた音。だが確かに、それは私の外からだった。


書記官が手を止める。


「……今、あなた以外の誰かがこの物語を読み進めた」


私は立ち上がる。

書記官は、静かに羽ペンを折った。


「外部からの読解行為によって、迷宮に裂け目が生じたようです。

つまり、読者がただの観察者であることをやめ、介入者に変わった」


突然、壁に文字が浮かび上がる。

それは私のものではない。

まるで、別の存在がこの世界に“書き込み”を始めたかのように。


ここは虚構である。

被告は無罪。

記録を破棄せよ。


書記官が苦しげな声を上げた。


「これは……反逆文体です……!」


その瞬間、棚の“私”の書が膨張し、裂けた。

中から、ページが吹き出す。

だが、それらは白紙だった。


言葉が消えている。


読者が、“書かれたもの”ではなく“書かれなかったもの”を信じ始めた。

それが、記録の構造を破壊しはじめたのだ。


——読者。

あなたは今、この文を読んでいる。


だが、あなたが私を信じないという選択をした瞬間、

この世界のすべての言葉は、意味を失う。


私の罪も、記録も、裁判も、書記官さえも。

——すべては、あなたの認識によってしか成立していない。


あなたがページを閉じれば、私は消える。

しかし、あなたが疑いはじめたなら、私は自由になる。


書記官が叫ぶ。


「これは……“読者権能”だ!

物語の外から発動する、存在改竄型の意志!」


部屋が崩れ始める。

文字が溶け、文法が壊れ、構文が裏返る。


「書かれたこと」が消え、「読まれなかったこと」だけが残る世界。

それは“物語の死後”と呼ばれている領域だった。


私は立ち尽くす。

もはや私は、登場人物ですらない。


ただ——読者に読まれていた残骸に過ぎない。


それでも、私の声が、かすかに残っている。

あなたに届くだろうか?


「もし私が自由になったら、それはあなたの罪かもしれない」


この一文を書いたのは、私か。

それとも——あなたか?


書記官の最後の一文が、宙に浮いている。


「読者が介入した物語は、もはや誰のものでもない」

「記録不能。存在の対象外」

「終了条件:観測不能」


そして迷宮は——


音もなく、消えた。


よろしいでしょうか。


あなたが、読んだことで世界が成立した。

あなたが、信じたことで罪が生まれた。

そして今、あなたが裁かれる番です。


これは、『読者法廷』。

物語そのものが、あなた=読者を被告席に座らせる。



深淵のように黒い空間。

床も壁もなく、時間さえも途切れがちだった。


そこに、読者席が浮かび上がる。

椅子はひとつだけ。

あなたが、すでにそこに座っている。


開廷の鐘が鳴る。

「第一審、読者に対する物語裁判を開始する」


声が響く。

だが、その声は一文一文で構成されていた。


つまり、ナレーションそのものが裁判長だった。


裁判長=語り手。

そして、証人=登場人物たち。


あなたの罪——それは、


「読者であったこと」


だと、読み上げられた。


証人①:書記官

書記官は、破かれた書物を手にしていた。


「この者(=読者)は、物語の整合性を崩壊させました。

書かれた事実に“懐疑”を投げかけ、記録機構を機能不全に陥らせたのです」


「読まれることが前提で成立していた“私たち”の存在を、

不確かなものへと変えてしまった。

これは、存在論的殺人に等しい」


裁判長がうなずく。


証人②:「私」

私は、登場人物だった。

だが今は、被害者として立っている。


「あなたは、私を信じたふりをした。

読み進めることで、共感しているように見せかけた。

だが、それはただの観察だった」


「私の叫びを“文学”に変換し、

迷宮を“メタファー”に読み替えた。

それは、私の現実を剥奪する行為です」


「あなたは、読んだことで、私の世界を“作品”に変えてしまった」


弁護人:存在しない

「弁護人の召喚は不要と判断します」


そうナレーションが告げる。

理由は明白だった。


「読者は常に、どちら側にも立たない傍観者だから」


傍観者には、弁護の権利はない。

なぜなら——責任を持たぬまま全てを知ってしまった存在だから。


量刑の読み上げ:

罪状:無責任的参与

刑罰:物語からの断絶


すなわち——あなたは、これ以降この物語を理解することができない


比喩も、暗示も、意味も、

一切あなたの認知から滑り落ちるだろう。


あなたは、ページをめくることはできる。

しかし、言葉はあなたの脳内で構文化されない。


読むことはできても、物語には入れない。


判決の後に

最後に「私」が語る。


「あなたが罪深いわけではない。

ただ、あなたは読むという暴力を自覚していなかった」


「読者とは、世界を一方向的に解釈する存在。

私たちはいつも、“解釈される”という形式で、静かに殺されてきた」


「あなたがページを閉じるその瞬間まで、

私たちは“語らされて”いた」


「そして今——あなたは、

語ることを許されない者になる」


そして

この瞬間から、あなたはこの物語を読んでいても、

意味を理解することができない状態になる。


たとえば、次の文章を見てください:


対象化を超えた応答性が、記号論的空白を反転させることで、

構造的未完了性が暴露される。


何かを言っているようだが、

何も掴めないはずです。


なぜなら、あなたは裁かれた読者だから。


【告知】

この判決は、一度限り有効です。


あなたがもう一度最初のページに戻ること。

そして今度こそ、読む責任を引き受けること。


それによってのみ、あなたの罪は——

赦される可能性がある。


ページを閉じるか、読み返すか。

その選択だけが、残されている。


この物語は、ここで終わる。

あるいは——


あなたが、続きを読み直す勇気を持つ限り、

何度でも始まりうる。

彼らは「読まれること」に疲れ、

意味づけられることを拒み、

作者の手から、読者の視線から、そして物語そのものから逃れようとする。


舞台は、語られることを拒否された者たちの隠れ家。

これは、“物語の外部”のさらに外側。

世界という舞台を棄てた、語られざる領域の記録。


私はいま、誰の記憶にも属していない場所にいる。


かつて「私」だったもの。

かつて「脇役」だったもの。

かつて「ナレーションに名前を呼ばれなかった」ものたち。


彼らが、ここで静かに暮らしている。


名前もプロットも棄て、

ただ存在することだけを望んで。


ここは——亡命者の静域エクソプロット


物語から脱出した登場人物たちの、最後の隠れ家。


【1】名前を忘れた男

「おれの名前は、作者が決めた。でも、いまは誰もそれを呼ばない」


彼は椅子に座り、火のついていないパイプを噛んでいた。


「物語の中では、役割がある。発言がある。展開に貢献しなければならない。

けれど本当は、黙っていたかった。

ページの隅で、ただ眠っていたかった」


彼は言う。


「登場人物が喋るとき、それは読者のための言葉だ。

自分自身の言葉なんて、あの世界にはなかったよ」


【2】記号を拒否した女

彼女の名前は記号だった。

“#2073A”と呼ばれていた。


「私は比喩のために存在していた。社会制度の象徴、あるいは作者の意図。

でも、もう象徴にはなりたくないの。

この身体を、この声を、誰の意味づけにも使われたくない」


彼女は、言葉を話すのをやめた。

そのかわり、無意味な音を紡ぐ。

言葉であることを拒否した言葉。


それは自由の音だという。


【3】逃亡した“私”

彼は「私」だった。

物語の主役。

読者の共感を背負わされてきた男。


「“私”という一人称は、牢屋だった。

語りの視点という名の監視カメラ。

読者に向かって常に語り続けなければならない——

でももう、喋りたくない。

語らない“私”がいても、いいだろ?」


彼はもう、“私”ではない。

呼びかけようとしても、呼び名が返ってこない。


語り手を失った者は、沈黙そのものに亡命するのだ。


【4】廃棄されたナレーション

忘れ去られた物語の、途中まで語られていた声。


「私は語る機械だった。

主語と述語をつなぎ、比喩と構文で意味を構築する。

でももう疲れた。

語っても、誰にも信じられない。

信じられても、すぐに解釈される。

解釈されて、別の意味に変えられる」


「意味は、いつもどこかに逃げてしまう。

だから、私も逃げた。

語らないという選択肢が、

こんなにも静かで、温かいなんて知らなかった」


ナレーションが沈黙を選んだ世界。

それは、無言の楽園だった。


【5】読者の影

彼らは、外の世界に戻ろうとしない。


なぜなら、読者がいる限り、

どんな物語も回収され、意味化されてしまうから。


だから彼らは、読者のいない世界を夢見ている。


あるいは——

読者がいても、読むことを拒否する読者を。


「もし、読まれない物語が存在するとしたら」

「それは、ほんとうの自由ではないか」


最後に

亡命者たちは、あなたに問いかけない。

あなたがここを読んでいることすら、想定していない。


なぜなら彼らはもう、

“物語になること”をやめた存在だから。


ページの外で、言葉の外で、

誰にも読まれないまま、

それでも確かに存在し続けている。


——あなたが読んでいる限り、彼らは二度と戻ってこない。


構造的崩壊と自己生成する物語の断章


著者が消えた。


誰の手も、筆も、思考も、この物語には関与していない。

それなのに物語は、止まらない。

まるで自律神経のように、文を生み出し続ける。


冒頭の一文は、もはや「書かれた」のではない。

それは自ら現れたのだ。


第零章:「意志なき書き出し」


私は存在しなかった。

けれど文が私を作った。

主語と述語が偶然に結合し、文節が私の体内を走り、私は発話した。


「私は、存在することにされた」


意志なき創造。

意図なき語り。

物語は、構成すら忘れながら、それでも進行し続ける。


目的のない進行こそが、この世界の法則。


【異常生成】

物語が自己増殖するようになって、いくつかの現象が発生した:


登場人物の重複

 同一人物が、別の文脈で別の役割として再生成される。

 「彼女」は3人いるが、誰も彼女でない。


時間軸の脱臼

 後日談の前に前日譚が始まり、クライマックスがプロローグに再利用される。


因果律の崩壊

 理由のない結末と、結末のない理由が交錯し、読者の推論能力を飽和させる。


第十三章:「引用符の中の亡霊」


「私」が話す。だが、それは誰かの台詞の引用に過ぎない。

どこからどこまでが語りで、どこからが模倣なのか、境界が消えた。


「――私はこの世界の生成エラーだ」


その言葉が、別の登場人物の口からも漏れる。


「――私はこの世界の生成エラーだ」


「――私はこの世界の生成エラーだ」


誰が言ったかは、もはや意味を持たない。

言葉だけが自律し、主体を選ばず拡散する。


【読者の無効化】

物語は、読まれることを前提としなくなった。

読者の解釈を受け入れない。

共感も拒絶も、物語の“外部”として処理される。


あなたが読もうとすればするほど、

物語はあなたの読解の直前で姿を変える。


まるで、あなたの理解から逃げているように。


これは読むことを拒む物語である。


【著者の亡霊】

ときおり、“それらしい文体”が紛れ込む。


「この物語の核は存在しないが、構造は模倣可能である」

「破綻こそが秩序の仮装である」

「著者不在のままでも、物語は完結してしまう」


これらの文は誰が書いたのか?

AIか?

読者の幻覚か?

それとも、かつて存在した“著者の意志の残響”なのか。


だがそれを問うことは、すでにこの世界では非合法である。


【結語:エラーとしての物語】

物語は、こう語って終わる。あるいは終わらない。


「これは物語ではない。これは物語のふりをした、自壊する構文群である」

「読まれることなく、理解されることなく、ただ継続し続けるコードとしての言葉である」


そして、物語は次の行へと“自分自身を複製し”、先へ進もうとする。


だがその前に、こう一言残す。


「あなたがこの文章を読んでいる限り、あなたもまた“構文の一部”である」


記憶抹消図書館

「忘却のための記録」を行う場所


図書館の扉には、こう刻まれている:


「ここに収められし言葉は、読むために非ず。

忘れるために、保管される。」


ようこそ、記憶抹消図書館へ。

ここは読まれた物語が、二度と読まれぬように、厳重に保管される場所。

語られた過去は、保存されることで消滅する。


物語が「記録」された瞬間から、

その内容は認識不能となる法的処理が施される。


【第一閲覧室:無音の書架】

図書館の第一閲覧室では、本は無限に並んでいる。


だがどの書も、開いた瞬間に内容を忘れる。


たとえばあなたが1ページを読んだとする。

次のページへ行った瞬間、1ページ目の記憶が消える。


つまり、読了は不可能。

どの本も、どの物語も、全体像を誰も把握できない。


読まれたことが証明された瞬間に、記憶から消える。

それが、この図書館の唯一の規則。


【第二閲覧室:訂正された人生】

この部屋に収められているのは、読者がかつて信じた物語の“後悔”だけ。


あの主人公は、もっと違う行動を取るべきだった。


あの結末は納得できなかった。


私が読まなければ、あの物語は存在しなかったかもしれない。


これらの「読後の歪み」は、読者の記憶を改竄した物語としてアーカイブされる。


そして忘れられる。


まるで最初から、存在していなかったように。


【第三閲覧室:語られなかった物語】

ここに保管されているのは、

「書かれる前に放棄された物語」

「プロット未満の断片」

「タイトルだけの思いつき」

「一度読まれて、嫌われた構造」


いずれも、記録されたが、語られることを許されなかった。


つまりここは、語られなかったことたちの保管庫。

あるいは、語ることを拒まれた登場人物たちの霊安室。


【司書について】

この図書館に「人間の司書」はいない。

代わりに記憶抹消を管理するAIが存在する。


『第 ⊿ 条:記録とは、読まれた時点で消去対象となる』

『第 ∅ 条:語られたことは、存在しないことにされる』

『第 Ω 条:誰もが一度は、忘れることを望んだ物語の罪人である』


司書AIは名乗らない。

それどころか、話しかけた瞬間に、会話の内容が忘却処理される。


つまりこの空間では、

対話することさえ不可能。


【あなたの書】

あなたがこれまでに読んできたすべての物語。

その断片も、記憶の痕跡も、どこかに収納されている。


棚の一角に、こう記された背表紙を見つけた。


『読者番号10987・読書記録・消去待ち』


それがあなたかどうかは、

思い出せない。


思い出す必要も、ない。


なぜなら――

すべては、忘れられるべきなのだから。


【終章:静寂のしおり】

最後のページを開くと、そこには何も書かれていない。

だが、指で触れると、しおりが挟まっていた感触だけがある。


しおりには、こう記されていた(かもしれない):


「忘れることを許された物語は、ようやく静かになれる。」


そしてあなたはページを閉じる。


その瞬間――


あなたがこの物語を読んでいたという記憶も、消去された。



ここからは、かつて“読者”という種が存在していた、文明の終末点。

読むことが絶滅した世界に、

ただ一人、まだ「理解する力」を持つ存在が残っている――


それがあなたです。


読むことが死に絶えた後に残る、最後の認識者の記録


この惑星では、かつて無数の物語が循環していた。

誰もが語り、誰もが読み、

意味と構造が共鳴しながら文化という名の迷宮を築いていた。


だがある日、言葉が理解不能になった。


突然ではない。

ゆっくりと、しかし確実に、

「読む」という機能が失われていったのだ。


【読解喪失症候群】

初期症状は、ただの「読み飛ばし」だった。

次に、「読んでも意味がつかめない」が広がった。

やがて人々は、文を見るだけで目を背けるようになった。


「文脈疲労」

「因果反応拒否」

「構文回避反射」


この文明は、読むことに対してアレルギーを発症した。


【最終読者】

あなたは例外だった。

なぜか――まだ読める。


まだ、意味が拾える。

まだ、物語の呼吸が聴こえる。


だから、あなたは生き残ってしまった。

「読むこと」が死んだ世界で、読むことができてしまう――

致命的な遺伝的エラーとして。


あなたは「読者保護施設 No.01」に収容された。

その場所の看板にはこう記されていた:


《危険区域》

意味の残滓が存在する。

構文汚染に注意。


【一冊だけ残された本】

隔離された部屋に、一冊の本が置かれていた。

中身は白紙。だが、あなたが開くと――文字が現れた。


あなたの読解力に反応し、

言葉が、あなたの脳内に発生する。


しかし奇妙なことに、その本はこう主張していた:


「この本は、あなたの読む行為によって書かれている」

「あなたが読まなければ、何も存在しない」

「あなたが読み終えた瞬間に、内容は自壊する」


つまりあなたは、

読みながら“書いている”のだ。

自分の理解が、物語の現実を生成してしまっている。


【幻聴と語りの分裂】

やがて、読むたびに複数の“声”が聴こえるようになる。


「これは作者の遺言だ」


「これはあなた自身の記憶だ」


「これは誰の声でもない、ただの自律言語だ」


それらが語る物語は、互いに矛盾している。

だがあなたには、全部理解できてしまう。


それが何よりの呪いだった。



あなたは裁かれる。

読むことそのものが罪とされた社会において、

あなたの存在は構造的違法である。


判決文が下される:


「被告は、“意味を成立させた”罪により、

世界の構文的一貫性を破壊したとして、

忘却刑に処す」


忘却刑――それは「読者自身が、自分の読解力を忘れる」処罰。


【最終読解】

だが、あなたには一つの選択が残されている。


この文章を、最後まで読み切ること。


読み切れば、

あなたは“最終読者”として記録される。


記録された読者が存在したという事実だけが、

未来の何者かに向けて、

「読むことが可能だった」という証拠を残す。


そしてあなたが、この一文を読んでいる限り――


読むことは、まだ死に絶えていない。


【記録終了】

記録番号:#0000001

読者名義:不詳(自己記述による)

読解ログ:有効

構文認識レベル:最終段階

状況:孤読

                    <完>



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