女神ですよね、天上院さん!.5
私はその日の放課後が訪れるや否や、誰よりも先に教室を出た。
目指す先は図書室。部活にも所属していない私は、なんとなく文字の隙間に浸って青春時代を過ごすことを是としていたのだが、今回はそれが目的ではない。
図書室は、座席によって二年生の教室前廊下を奥まで見渡すことができる。
私は一番目立たず、でもしっかりと自分のクラスの出入り口が見える座席に陣取ると、本を読んでいるふりをしながら携帯を机の上に用意する。
クラスメイトが教室から出てくる度、ぽち、ぽち…と携帯のカウンターアプリの数字を増やす。
途中で天上院さんが出てくればやめるつもりだった。本来これは、天上院さんという地上に降臨した女神の冤罪を晴らすためにやっていることだったからだ。
冤罪をかけたのは他でもない。この私である。
私は直感的に、『私のシャツを盗んだのは天上院華である』という考えを抱いてしまっていた。
その思考は、どれだけ理性が否定し押し潰そうとしてもなかなか消えてはくれず、今日一日、ずっと私の胸のど真ん中を占領していた。
ありえるはずがない。あの天上院華が、私なんかに嫌がらせをする理由がない。そんな卑屈で惨めな真似をしなければならないほど、彼女は落ちぶれていない。
だから、それを証明するために…私はじっと教室の出入り口を睨みつけていた。
(これじゃ、この先ずっと落ち着かないから…)
もしも、天上院さんが本当にシャツを盗んだ犯人だとするならば、おそらくだが、みんなが帰った後にシャツを片づける可能性が高い。朝の時間は私と鉢合わせるかも、と思うだろう。
ぽち、ぽち、とカウンターを重ねる。その数がクラスメイトの総数に近づけば近づくほど、私の心臓は脈打ち、まさか、という考えが強まっていく。
早く、天上院さんが出て来ますように、と願い続けてはや三十分。とうとう、天上院さんは最後の一人になってしまった。
(……い、いや、違う。違うよ。きっと、今日は教室で本を読んでるんだ。そうに違いない…!)
自分で予測を立てたくせに、私は何も認められずにいた。だが、そんな私を弄ぶように、ちらり、と天上院さんが教室のドアから顔を覗かせた。
帰るのだろうか、と期待したのも束の間、彼女は“何か不都合なことを隠す”みたいに辺りを警戒すると扉を閉め、そのまま教室に引き返した。
(うぅ…!)
もはや、いても立ってもいられない。
私は鞄に本を投げ込むように片づけると走り出し、教室へと向かった。
(天上院さん…!)
廊下の窓から中を盗み見る。すると、自分のロッカーの前でじっと佇む天上院さんの姿があった。
私のロッカーの前に立っているわけではなかったから、ほっと安堵のため息を吐きかける。
(そうだよね、天上院さんが私なんかに嫌がらせするわけ…)
しかし、屈んだ体勢の天上院さんが自らのロッカーから取り出した物を見て、私の希望はぐらりと大風に吹かれて揺れた。
――白い、シャツ。
天上院さんが替えのシャツを持っているかもしれない、なんてことを考えることもできず、私は教室の中に飛び込んでいた。
扉が開け放たれた音に、天上院さんが肩を揺らしながらこちらを見つめる。
「小森、さん」
その目には、今朝と同じ威圧感があって、思わず息を飲んだ。しかしながら、彼女がすぐにシャツをロッカーへと戻したのを目の当たりにしたことで、止まった時が再び動き出す。
「て、天上院さん」
繰り返すが、私は天上院さんを罪人にしたいわけでも、私なんかの私物が盗まれることを(しかも、翌日には綺麗に返ってくるのに)表沙汰にしたいわけでもない。
ひとえに、天上院さんに抱いた疑念を晴らしたいがゆえ。
せっかく天上院さんと話すきっかけに恵まれ始めたのだ。その機会にケチをつけたくないに決まっていた。
そのために、臆病者の私は勇気を振り絞る。
「い、今、誰のシャツをロッカーに片づけたんですか」
緊張で声が裏返る。一方、天上院さんは相変らず完璧なアクセントと微笑みであった。
「おかしなことをお尋ねになられますね、小森さん。私のロッカーにしまうのですから、私の物に決まっていますでしょう?」
言っていることの筋は通っている。だが、どうにも私の直感が彼女を疑ってやまない。
ちらり、と私は天上院さんのロッカーを一瞥してから尋ねる。
「……替えのシャツなんてもの、いつも用意しているんですか」
「ええ。いつ汚れても構わないようにしています。これでも学園長の娘ですからね。周りの目が厳しくて…」
「それじゃあ、なんでこの間は『肌着の上にブレザーを着る』なんて言ったんですか?普通に『替えのシャツがある』と言えばいいですよね」
自分でも驚くほどに舌が回った。言葉そのものは、いつだって自分の中で飛び回っているから、存外、その気になれば言葉のアウトプットは苦手としないのかもしれない。
私の言葉を受けた天上院さんは、微笑んだままじっと私を見つめた。その瞳には、どこかこちらを覗き込むような色合いが含まれていて、鳥肌が立った。
「まさか私が、小森さんのシャツを盗んだ犯人なのではないのかと、そう疑っておいでですか?」
ストレートな質問に臆病の虫が鳴き出しそうだったが、私はぐっとこらえ、この胸の内側を説明しようと努める。
「天上院さん、その、私は、そんなことないって思っています!天上院さんは、ここ最近、ずっと私のために行動してくれましたから」
「…ですけれど、小森さんのそれは疑いの目なのでは?」
「は、い。正直、そうです。疑ってます。――だからこそ、私、嫌なんです!天上院さんが清廉な人だって信じ切れない自分が。お願いです、天上院さん。ロッカーに片づけたシャツを私に見せて下さい。そうして頂けたら、元通りに信じられます。きちんと、謝罪もしますから…!」
そうして私が一気に吐き出すと、天上院さんは少し目を見開いて驚いた顔をしてみせた。そのうち、ふっと優しく穏やかな微笑を浮かべた彼女は深く頷いた。
「そうでしたか…。すみません、小森さん。その、変に疑われているような気がして、私も躍起になってしまいました。ふふっ、狭量でしたね。まだまだ未熟です」
「天上院さん…」
天上院さんはカチャ、と自分のロッカーを開くと、片手を差し出して私にシャツを確かめるよう促した。
「どうぞ、きちんと確認されて下さい。もちろん、別に謝る必要はありませんからね?」
シャツには生徒の名前が刺繍されているから、一見して誰の物か分かる。つまり、天上院さんにやましいところはないのだろう。
「…ご、ごめんなさい、天上院さんを疑うなんて、私…」
「ですから、謝る必要はありません。盗難の被害に遭っている小森さんの前で不審な真似をしたのも事実ですもの。…あぁ、でも、きちんと確認はしておいて下さい。その目で見ておかないと、疑いというのは再燃するものですから」
私の言い分を理解してくれたからだろうか、天上院さんはすっかり元の調子に戻って私を呼び寄せると、シャツを確認させた。
真っ白い、純白のシャツ。それこそ、天上院さんの精神性を象ったようだ。
「で、では、念のため…」
私は自分の胸が加速度的に高鳴っていくのを感じた。天上院さんへの疑いからではない。彼女の甘い香りがロッカーの中から漂ってきていたからだ。
それにより、私は罪深いことをしているような気持ちになっていた。私なんかが侵入してはいけない聖域に踏み入っていると考えたのである。
(で、でも、ごめんなさい…少しだけ役得だとか思ったりして…!)
そのせいだろう。
私は、震える指先が掴むシャツの胸元に施された刺繍の文字に気がつくのに、数秒ほどの時間を要してしまった。
――小森 澄香。
生まれて初めてだったかもしれない。
自分の名前を目にして、頭が真っ白になったのは。
「こ、こもり…?」
どういうことだろう?
これは、私の名前だ。
「言ったでしょう、謝る必要はありませんと」
そのとき、深い影が私を覆うように落ちた。
ゆっくりと上を見上げれば、女神すらも裸足で逃げ出す微笑みを携えた天上院華が、ロッカーに両手を突き、私の逃げ道を塞ぎながら覗き込んでいた。
「だって、小森さんのおっしゃるとおりなのですものね…ふふふ…」
「ぇ…」
かすれた声で驚きを表せば、天上院さんはどこか満足げに目を細めた。
こんな至近距離で天上院さんの微笑みを拝めているというのに、私の心はその幸運を噛みしめることもなく、ただ目の前の、ある種の狂気を感じさせる微笑に縮み上がってしまっていた。
「まあ、可愛いお顔…ふふ、私はただシャツをお借りしていただけですから、そんなに怯えずとも大丈夫ですよ」
ただ、シャツを借りていた?
だから、怯えなくていい?
(そ、そうはなりませんけど!?天上院さん!)
私は、天上院さんに私物を盗まれていた。
ようやく事態を飲み込んだ頭は、落ち着きを取り戻すより先に彼女へとその真意を問い質すことを選んだ。
「な、な、なんで、私のシャツを…!?」
震える声で尋ねるも、天上院さんは小首を傾げるだけ。
可愛い仕草。だけど、何の説明にもなっていない!
私はいても立ってもいられなくなり、そのまま矢継ぎ早に言葉を紡いだ。
「なんで?なんで、私のシャツを?私のシャツなんて盗んで、一体、何のために…」
「何のため?」
こてん、と反対側に首を傾げる天上院さん。
「知りたいですか?本当に?」
福音の様に響く天上院さんの清らかな声も、今はどうしても不気味にしか聞こえず、私の心臓は大きく跳ねる。
教室の窓から差し込む陽の光で逆光になっているため、天上院さんの顔に陰が落ちていたのだが、それでも、彼女が口元を歪めたことだけはハッキリと理解できた。
天上院さんは私の返事も待たず、淀みない動作で私の手からシャツを取り上げた。
「あ…」
「私が小森さんのシャツをお借りしたのは――」
私はそれから数秒間、目の前で何が起きているのか理解できなかった。
私が密かに、この世に降臨した女神なのではと考えていた天上院さんは、両手でシャツをかき抱くと、そのまま何の前触れもなく顔に当てて大きく息を吸い込んでいた。
すぅー、と鼻から肺に空気が流れ込んでいることが容易に伝わってくる、呼吸音。
「はぁ…」
シャツから顔を離した天上院さんの顔は、とろんと上気し、火照っていた。
そこにはあの、清廉で可憐で、穢れなき女神、天上院華の姿はまるでない。淫魔というほうがよほどしっくりくる姿だった。
「小森さんの、柑橘系を彷彿とさせるくせに、酷く甘い香りを…胸いっぱいに吸い込むためですよ。リボンタイなんかよりも匂いがはっきり付いていることに、気がついてしまったんです」
ぺろり、と天上院さんの赤い舌が唇を舐める。
驚天動地。天上院華は――変態だったのだ。
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