女神ですよね、天上院さん!.2
リボンタイは私が予想したとおり、次の日の朝には教室の引き出しの中に入っていた。しかも、丁寧に折り畳まれていたから、なんとまぁ几帳面な人が意地悪したものだと私は微笑ましくすら思った。
それからまた平凡な一週間が終わって、明くる週、私が誰にも迷惑をかけないようにと気合いを入れてバレーの授業に取り組んだ後のことだ。
「え…あれ?あれぇ?」
思わず、大きな独り言が漏れる。そうすればクラスの気の強い女子が、「小森、独り言でかいよ」と快活に笑う。つられてみんなも笑っていたが、私は愛想笑いもできなかった。
その子は少し訝しがった様子で私を見ていたが、すぐに興味を失ったのか、ぷいっと顔を逸らした。自己主張が強いから苦手だが、彼女は私の名前を的確に覚えている人間の一人だったので、嫌いではなかった。
だから、無視したかったわけではないのだ。
ただ、脳内キャパシティをそちらに割く余裕のない状況に陥っていたのである。
(…ない)
蓋も何もない更衣室のロッカー。ぽかんと空いた、小さな怪物の口の中みたいな薄闇には、つい一時間ほど前に自分が脱いだ衣類が入っている…はずなのだが…。
(ない!)
リボンタイ、スカート、ブレザーはある!だけど!
(しゃ、シャツがない…!?)
ブレザーの下に着用する長袖のシャツが、ロッカーの中から消えていたのだ。
あるべきはずの場所にあるべきものがない。その困惑は誰でも経験があるだろう。でも、自分が脱いだはずのものがない、そんな経験はなかなか体験できるものじゃない。
脳が一生懸命に現実を処理する。リボンタイのときと同じように誰かの悪戯説が真っ先に浮上するが、これほど悪質な悪戯は初めてだったため、落ち着くまでに時間がかかった。
(…どうしよう…)
これでは、残りの授業を体操着で過ごすことになってしまう。ブレザーの下に体操服、という奇妙な出で立ちか、全身体操服か、という二択がよぎる。
そんな困惑の中、福音の如き響きで私を現実に引き戻したのは、何を隠そう、更衣室にただ一人残った天上院さんの優しい声だった。
「どうかされましたか、小森さん?」
「て、天上院さん…」
心底心配そうな声に、不覚にも目頭が熱くなり、喉が詰まった。
その様子を目の当たりにした天上院さんは、「また何かないのですか?」と深刻な顔つきで私に近寄ってくる。彼女はすでに着替え終わっているため、ちゃんと制服を着用している。
「実は、その、シャツがなくて…」
「まぁ…そんな、どこにも?」
「うん」
ちらり、とロッカーの中を一瞥した天上院さんは、意を決したふうに頷くと、「失礼」と呟いて私が脱いだ服たちの中に手を突っ込んだ。
天上院さんの穢れなき美しい指先が、私みたいな庶民が脱ぎ散らかした服をまさぐる光景は、自然と私の胸に罪悪感をもたらす。
(ご、ごめんなさい、いや、すみません、天上院さん…!)
口に出す勇気のない謝罪。それを心のうちで何度か繰り返しているうちに、天上院さんは服の間から手を抜き、物憂げにため息を吐いた。
「…確かに、シャツはないですね」
天上院さんの悩まし気な様子を見ていると、彼女の慈愛が自分みたいなのにも平等に降り注がれることは、天空の太陽が地上の万物を照らすことと近しい現象のような気がしてくる。
「以前のようにどこかへ置き忘れた――というのは、さすがにありえませんよね」
少し手を伸ばせば触れられる至近距離で天上院さんが小首を傾げる。それだけで、私の胸はきゅっと切なさと息苦しさを覚えるが、粟立つ肌に、改めて自分の置かれた状況を思い出させられて、深く頷いた。
「は、はい。さすがに…」
「そうですよね…ということは、誰かに隠されたということでしょうか?」
「あー…」
おそらく、そうだと思うが…私が肯定してしまっては天上院さんがますます心配することは火を見るより明らかだ。そんなことが許されるのだろうか?
そうして逡巡していると、天上院さんは私の心を見透かしたかのように目を細め、少しだけこちらを咎めるような口調でこう告げる。
「小森さん。万が一、他人の物を盗むような輩がこの学園にいるとすれば、そのような人間を庇うことは罪悪ですよ。優しさと甘さをはき違えてはなりません」
ファンタジー小説に出てくる聖女ばりに清冽な言葉。それは私が抱える躊躇の霧を打ち払うのに十分すぎる光を帯びていた。
「多分、悪戯で隠されたんだと思います。たまにあるので…」
「たまにある?」ぴくり、と天上院さんの端正な顔が歪む。「それは聞き捨てなりませんね。私の父がより良くしようとしているこの学び舎で、そのような醜悪な行為が常習化しているなどと…!」
美人は怒ると怖い、というのが世間一般の定評だが、なるほど、なかなかどうしてその通り。鋭く冷たい面持ち。怖い。
天上院さんはすぐに自分の感情が高ぶっていることに気がつくと、「すみません、私としたことが」と丁寧に謝罪してくれた。
それから私たちは、どのようにして学園側に報告するかを二人で考えた。すぐにでも父に報告する、と天上院さんは提案したのだが、私は一日待ってほしい、とお願いした。
その申し出を天上院さんはとても不思議がっていたが、こちらとしては、事を大きくしたいわけではなく、悪戯がエスカレートしないように手を打てさえすればそれでいい、という私の意見を聞くと、少しばかり不満げにそれを承諾してみせた。もちろん、悪戯がエスカレートした場合は即刻、学園長に報告するという約束つきで。
天上院さんにも学園長の娘という立場がある。だからこそ、私みたいな人間の問題でも放置するわけにはいかないと考えたのだろう。
互いに同意を得たところ、不意に、天上院さんが呆れたような、感心したような微笑みを浮かべた。
「それにしても…優しいのですね、小森さんは」
「え、いやぁ…」
私はただ、臆病なだけだ。
問題と直接対峙することで、状況が悪化することを恐れているにすぎない。
「優しいとかじゃなくて、私は――」
日和見主義者とか、事なかれ主義者だとか。とにかく、そうした自称を口にしようとしていた刹那、そっと、天上院さんのたおやかな指先が私の頬に触れる。
「えっ…」
あまりに驚くべき事態に私が身を硬直させていると、彼女は気恥ずかしそうにこう言った。
「その優しさを誰かに利用されないよう、お気をつけ下さいね。小森澄香さん」
更衣室。窓の外からうららかな西日が差し込む、初夏のことだった。
「…フルネーム…」
覚えていてくれた。私なんかの、天上院さんが楽園の花なら、雑草でしかない私の名前を。
天上院さんは、また私の心を読んだみたいにこう続けた。
「ふふっ、覚えていますよ。大事なクラスメイトのフルネームですもの」
たとえリップサービスだとしても、私はこの瞬間、この狭苦しい更衣室の中にもたらされた輝きと甘い香りを一生忘れることはないだろう…という確信を抱いていたのだった。