だから勘違いしないでくださいよ、天上院さん!.1
作品が半端なところで終わっていましたので、続きを更新致します!
興味ある方はぜひ!
「何が、違うのでしょうか?」
漫画なら、ふぁさぁ、という効果音がつくだろうと思えるくらいに淀みない動きで、目の前の彼女の手が払った黒髪が波打つ。
瞳は黒々とした銀河をたたえていて、肌は雪のように白い。唇も血色がよく生き生きとしている。
女神像に命が宿り、下界を視察している。
そう言われたほうが納得できる存在感を放っているのが、この人、天上院華という人間だった。
容姿端麗、文武両道、聖人君子で、おまけに学院長の娘というハイスペック。
ケチのつけようがない完璧人間――というのが、少し前まで私が彼女に抱いている印象だったが…今では、それは塗り替えられてしまっていた。ペンキの入ったバケツをぶちまけたみたいに。
「だからぁ…違うの。分かるよね…ほら」
対する私はこんな感じ。身長は低いし、陰気。勉強は言語系のみ強いが、運動はからっきし。家も一般家庭の代表例みたいな感じだ。
「あの…きちんとおっしゃって頂けないと、何のことか分かりませんよ、澄香」
「う…」
澄香、と天上院さんが呼ぶから、心臓がドクンと強く一つ跳ねる。
私、小森澄香を呼ぶ魅惑的な響きだ。いっそ、ずっと耳元で聞いていたいと願うほどに。
だけれども、私が告げるのは心とは裏腹のこと。
「あのですね、天上院さん。私は天上院さんが『澄香』って呼ぶことを許可しておりません」
「はぁ、そうなのですか?」
「はい、そうなのです!だから、澄香って呼ぶの、やめてください」
「嫌ですか?」
「い、嫌、ではないけど…」
「じゃあ、構いませんね」
見事な微笑みを浮かべて言ってのける天上院さんを見て、私はしまったと内心で頭を抱える。こんなことなら、嘘でも嫌だと言えばよかったのだと。
「澄香もどうぞ、私を華とお呼び下さい」
あの天上院華にそんなこと、できるわけないじゃん。そんなことをしたらクラス中、いや、下手をすると学年中に何様だと後ろ指さされかねない。
私は天上院さんの提案を無視すると、「とにかく、違うから」と繰り返した。それを受けた天上院さんは、困り顔ではにかんでもう一度聞き返してくる。
「澄香、本当に申し訳ないですが…何が、違うのでしょう?」
天上院華の困り顔にはある種の効果がある。そう、相手を、『このままにはしておけない』という気持ちにさせる効果だ。
このやり取りを三度も繰り返した私は、さすがの天上院さんも本当に分かっていないようだと思い直し、襟を正す。
「それはぁ、えーっと…」
とはいえ、自分から説明させられるとなると、さすがに気恥ずかしくなる内容だ。
それでも、言わなくてはならない。
この件については、誤解があっては絶対にいけないのだ。私の名誉のため、そして何より、天上院華を調子に乗らせないためにも。
私はぐっと顎を引いて、魂を奮い立たせた。
今、言うのだ。
想いを織り込んだ言葉が喉から放たれる寸前、にこり、と天上院さんが微笑む。その華やかさの中に、どこかこちらをからかうような小賢しさを覚えた私の直感は、間違っていなかった。
「困りましたね…私が思い当たるものがあるとすれば、澄香の好きが、そういう好きらしいという話ぐらいしかありません」
「ぐっ…!」
こいつ…分かっていて、分かっていないふりを…!
私は口を真一文字にしてから、天上院さんを睨みつける。
「それだよ、それ。分かってるじゃん」
話は先週末にさかのぼる。
私は半ば天上院さんに脅され、彼女を自分の家に招き入れた。私の母や妹が天上院さんの外面の良さに騙されたことも問題だった。だが、妹の趣味である女性同士の恋愛小説が私の机の上にあるのを見られてしまったこと、そして、天上院さんに抱きとめられた形になったとき、うっかり彼女の口づけを受け入れてしまったことに比べれば、造作ない問題であったと言えよう。
「違うからね、それ。勘違いしないでよ、天上院さん」
「ははぁ」
腕を組み、にやにや(彼女の内面を知るまでは、おしとやかとしか思えなかった顔だ)している天上院さんに宣言する。
「あの本は妹の趣味なの。ね、妹。後、天上院さんから…その、された、のを黙って受け入れたのも、妹と同じ性的指向の人なのかなぁ、って思って、拒絶できな…」
不意に、天上院さんが手を伸ばした。
その一つ、一つの動きがプログラミングされた超ハイテクロボットみたいに乱れがない彼女の指先が、そっと私の髪に触れ、頬に触れたとき、肺が、心臓がぎゅっとなって、動けなくなった。
「あ、っ…」
初夏の日輪が白く地面を輝かせる放課後、私と天上院さんは校舎が落とした暗く静かな影の中にいた。
ついさっきまで、へらへらとも、穏やかとも取れる微笑みを浮かべていた天上院華が、酷く生真面目、いや、シリアスな表情で私を真っすぐ見つめる。
私はその神仏にも引けを取らぬ存在感を前にしながらも、焦燥だけでどうにか口を動かす。
「こ、ここ、学校――」
「今も、嫌ですか?」
透き通った声が私の鼓膜を打つ。
天上院華が放つ真剣な響きだ。平民風情に、『NO』という逃げ道はない。
私にできるのは、せいぜい目線を地べたに逸らし、無言を貫くことぐらいだ。
でも、それは天上院さんの望むところではなかったようで、彼女は急かすように言葉を重ねてくる。
「言ったはずですよ。誘ったのは、始めたのは貴方のほうだと」
彼女が、10センチ近くある距離を縮めてくる。
「ですが、だからといって貴方が加害者だとは言いません。私もまたそれに乗じましたから」
甘い香りがする。
くらくらと、地面が、心が揺れるような…。
「ただ、被害者でもない」
私の顔に影が落ちた。
思わず目をつむってしまうほどの何かが、たった今、私の中に流れている時間の全てを支配していた。
柔らかな感触が額に生まれた後、ゆっくりと身を離した天上院華と視線が交差する。
傍目から見ても、酷く興奮している様子だった。たいして動いていないのに呼吸は荒いし、頬は上気している――いや、きっと私も同じか。
「…花は何も無意味に香るのではないのです」
ぎらぎらした黒曜の瞳に飲み込まれかけながら、私は黙って彼女の言葉を聞いていた。情けないほどに。
「誰かを引き寄せるために、こんなにも甘く香り立つ。そうでしょう、澄香」
私は天上院華の竜巻みたいな吸引力に捕えられて、しばらくの間動けなくなっていた。「何それ、知らない」と捨て台詞みたいな言葉を吐き捨てて、その場から走り去ることができたのは、実に五分ほどかかった後だったかもしれない。
当分の間、天上院華と関わりになるのはやめよう。
そんなふうに決め、捕食者から逃げるウサギの如く、天上院華から逃げ回り始めて一週間。私は酷く疲弊した心持ちで自室のベッドに身を沈めていた。
頭をぐるぐると回るのは、もちろん天上院さんのこと。
彼女の気持ちが理解できない。色々と言葉を駆使して私にあれこれ伝えているようでいて、その実、核心に迫るようなことは何も口にしていない。
(天上院さんが私にかまう理由…)
私はそれを、自分の枕に顔を押しつけながら考えてみた。
物珍しい生き物に興味が向くことに似ているのかもしれない。あるいは、ただの暇潰し?
彼女自身の言葉を参考にするのであれば…花の匂いに吸い寄せられてきたってことになる?
なんだ、それ。虫か。いや、そもそも私は『花』って柄じゃない。
いや、まさか…。
脳をよぎった可能性に、思わず私は勢いよく顔を上げる。
「えっ…もしかして、『匂い』、なの…!?」
天上院さんは私のシャツを盗んで嗅ぐようなことをする変態だ。ひょっとすると、匂いフェチとかいうやつなのかもしれない。
そんなことを考えたせいか、気づけば私は自分の制服に体臭が染みついているのかどうかを確認していた。
すんすん、と鼻を鳴らして腕や肩を嗅ぐ。
(……いや、よく分かんない。良い匂いではなくない…?臭くも、ない、けど、多分…)
やっぱり、この説は無しか、とため息交じりに肩から顔を離したそのとき、私は自室の扉がほんの少しだけ開いていることに気がついた。そして、そのわずかな隙間から黒い瞳がこちらを覗いていることも。
「え、こわっ!」
素っ頓狂な声を上げれば、ひとりでに扉が開かれる。現れたのはスポーティーに髪をポニーテールで結った妹の瀬里奈であった。
「もぉ、お姉ちゃんったら…そういうのは鍵をかけてやんなきゃ」
「は、はぁ?何言ってんの。ってか、勝手に入って来ないで」
瀬里奈が私のことを『お姉ちゃん』呼びするときは、だいたいろくでもない話が始まるときだ。
身を固くし、警戒を露わにする。妹のにやけた面は自然と天上院さんを思い出させる。もちろん、瀬里奈は彼女のような容姿端麗ではないが。
「嗅いでたんでしょ。残り香」
「げっ…」
見られていた、と羞恥が襲い来るが、身悶えする寸前にハッとする。
「の、残り香?」
「うん。天上院さんの」
満足そうに頷いて告げた妹の言葉に、私は気が遠くなるような眩暈を覚えて、額に手を当て天井を仰いだ。
「はぁー…何その誤解。瀬里奈、妄想力豊かすぎ」
「えぇ、今さら恥ずかしがらなくていいじゃん。二人がただの友だちじゃないことぐらい、見る人が見れば分かるよぉ」
「だから、誤解だって。天上院さんとはただの友だちかどうかすら怪しい」
「またまたぁ」
私は時折、心の中で妹のことを装甲車で例えることがある。彼女には思い込みで人の話を聞かなくなる悪癖があるのだ。
「そもそも、天上院さんの残り香を嗅ぐのに自分の制服嗅いでたら、意味分からないでしょ」
半ばイライラしながら低い声でそう言い返すも、瀬里奈は懲りない様子で口角を上げる。
「そんなこと言ってぇ、学校でもイチャイチャしてるんじゃないの?残り香がつくくらい、近い距離で」
「イチャイチャ…!?」
その単語にこの間、校舎の陰で額にキスを落とされたことを思い出す。
あれがそうと言われれば、そうなのだろう。いや、人に見られていたら言い訳のしようなんてない。
でも、私たちは『イチャイチャ』するような関係ではない。
だけど待って、じゃあ、私たちの関係ってなに?
思い出して赤面していたのだろう。瀬里奈は高い声で私の態度を茶化す。
「ほぉら、やっぱりそうなんじゃん!」
これでは冤罪のまま有罪宣告だ。
そんなことになれば、私の名誉が損なわれる。
私は自分の姉としての威厳を守るべく、ついつい、勢いのまま反論してしまった。
「あれは天上院さんが勝手にしてきたの!許可もなく!」
なんとなく、話の流れで私がどんなことを言いたいのかを察したのだろう。瀬里奈は豆鉄砲でもくらったみたいな顔でこちらを見ていたのだが、私はそれに気がつかないほど弁明に熱中してしまっていて、勝手にそれを続けていた。
「に、匂いだって勝手に天上院さんが嗅いできてるの!私のシャツを一日盗んでまで、コソコソ!」
依然、ぽかんとして私を見つめる瀬里奈。私はその表情が疑いのためだと考えたため、さらに躍起になってしまう。
「瀬里奈だって覚えてるでしょ!?私が体操服で帰ってきた日のこと。ジュースこぼしたとかなんとか言ったけど!こぼすわけないでしょ、学校に自販機なんかないんだから!」
これだけ言えば理解してくれるだろう。そんな希望を胸に再三覗き見た瀬里奈の顔は驚愕の色のまま止まっていた。
(し、しまった)
そこまできてようやく私は、瀬里奈がぽかんとした顔をしていたのは、私の発言を疑ってのことではなく、信じたからこそだと思い至る。
だとすれば…私がやったことは自滅行為だ。
この一、二か月ほどで私と天上院華との間に起きた、とても理解し難い出来事の数々を大っぴらにしたわけなのだから。
普段は私の話など聞く耳持たない装甲車だが、今ばかりは頭が回っていない様子だった。だから私は彼女の体を押して部屋から追い出し、羞恥を友にして布団に頭を突っ込むのであった。




