勘違いしないでくださいよ、天上院さん!.1
「瀬里奈、今日、部活は?」
あくる土曜日の朝。私は何気なくを装って、氷菓を頬張りながらテレビを眺めている妹の瀬里奈へと尋ねた。
「ふぇー?なんでぇ?」
「咥えたまま話さないの。行儀悪いよ」
「ふぇーい」
瀬里奈は適当な返事をすると、しばらくの間、アイスに熱中していた。やがて、それが彼女の胃の中に消えた後、瀬里奈はこちらを向き直った。
「休みだけど?」
「……あ、そう」
タンクトップからはみ出る四肢は、眩しく白い。私と違って筋肉質なところも洗練された印象を抱かせる。
「なんで?」
「別に」
内心で焦燥を覚えつつも、可能な限り抑揚を殺して返事をする。そして、階段を上って自分の部屋に向かうふりをしながら、さりげなく続ける。
「あ、そうだ。今日、友だち来るかもしれないから、邪魔しないでよ」
「はーい」
瀬里奈はテレビをぼうっと見つめながら、上の空で返事をしたようだった。これでなんとか誤魔化せるか、と希望を抱いて自室に滑り込んだが、現実は甘くはない。すぐにリビングから瀬里奈の絶叫が聞こえた。
「と、友だちーっ!?澄香が!?」
ドンドンドン、と階段を爆速で駆けあがってくる。その背中に母が苦言をぶつけているようだったが、瀬里奈の足音にかき消されて、ハッキリとは聞こえなかった。
ガチャガチャッ!
私の部屋のドアノブがすごい勢いで空回りする。鍵をかけておいてよかった。
直後、扉が激しく叩かれる。
「澄香!す・み・か!」
「あぁもう、うるさい!静かにして!扉叩かないで!」
「なに、友だちって!どういうこと!?」
「どうも何もないってば!瀬里奈だって連れてくるでしょ」
「澄香が友だち連れてくるのって初めてでしょ!あー!だからお母さん、クッキーなんて作ってたの!?」
それは初耳だ。気遣いはありがたいが…放っておいてほしいものだ。
瀬里奈が矢継ぎ早に質問をぶつけてくる中、私は大きなため息を吐いて肩を落とした。
家に誰もいなければ、妙な心配をせずに済んだのに…。いや、それはそれで危険か?
(…何が危険なの、何が…)
自分の心の声にツッコミを入れていると、唐突に、瀬里奈が聞き捨てならないことを言ってきた。
「も、もしかして……澄香がシャツの匂い嗅いじゃった人…?」
「っ」
脳裏に蘇るのは、天上院華の恍惚の面持ち。
私のシャツに顔を埋めて幸せそうにする姿は、こう、背徳感があった。だが、倒錯的なものであっても、天上院さんがやってみせればある種の芸術のようにも見えるから――じゃない。誰がやっても、受け入れがたいことには変わらない!
そうして、天上院さんとの奇妙な思い出を振り返っていた、この沈黙の時間がいけなかった。
「きゃーっ!うっそぉ、澄香、マジで!?」
「ち、違うって!いつまで誤解してるの!」
私は必死に誤解を解こうとした。しかし、この走り出すと途端に装甲車みたいに話が通じなくなって激走する瀬里奈の前では無意味でしかなかった。
瀬里奈の大声が母に聞こえたらどうしようとか、瀬里奈が余計なことをしないかとかが気になって、必死で否定を続けているうちに、不意に、喧騒を切り裂くインターホンの音が聞こえた。
「あっ!もしかして!」と瀬里奈が叫ぶ。
とっさに時計を確認する。まだ約束の時間より一時間は早い…が、天上院さんなら故意に約束を破ってきそうでもあった。そのほうが、私が困ると知っているから。
上がってきたときと同じ足音を立てて下へと降りていく瀬里奈。
あいつ、勝手に天上院さんを迎え入れるつもりだ。いや、天上院さんと決まったわけではないけれど…!
「はいはーい!今、開けまーす!」
やたらと高い瀬里奈の声。明らかに面白がっているのが伝わってくる。
「勘弁してよ、もぅ!」
私も慌てて瀬里奈の後を追った。私のいないところで、瀬里奈が天上院さんに何を言うか予想もできなかったし、天上院さんも妙なことを口走る可能性があったから、私は今までにないくらい焦っていた。
私が階下に辿り着いたとき、すでに瀬里奈は玄関の扉に手をかけていた。
「ま、待って!」
懇願虚しく、扉が開かれていく。
父親が三十年のローンを組んで立てた家の扉が、この瞬間、混沌の扉と化していた。
そして、扉の先には…。
「いらっしゃいま…」
不自然に、瀬里奈の言葉が途切れる。
無理もない、と私は思った。
私だって、呼吸することを忘れてしまうほどだったから。
初夏の日差しを遮るための麦わら帽子。
透き通るような肌によく似合う、白いワンピース。
血色の良い爪が鮮やかに見える、黒のサンダル。
黒白のコントラストは、彼女の艶やかな黒髪によってその美しさを増していた。
その証拠に、逆光になって彼女の全面には影が落ちているというのに、瀬里奈も、私も、呆けたようにただその麗しき彫像に見惚れるしかなかったのだ。
やがて、唖然として言葉も出ない私たちに向かって、彼女は言う。
「お邪魔致します。初めまして、私、天上院華と申します。お出迎えまでして頂いて、とても嬉しいです」
天上院華は、そうして完璧な微笑みを浮かべた。
(か、完璧すぎませんか……天上院さんっ!)
こんなにも綺麗な人が、友だちとして訪ねて来てくれているのだ…誇らしい気持ちになるなというほうが、土台無理な話であった。