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ミラベル・デュカス公爵令嬢は五歳になったばかりの頃、ルクヴルール王国第一王子ヴィクトルと婚約を結んだ。
政略的な為か、それとも二歳差で当時まだ幼かったミラベルが気に入らなかったのか、比較的に早い段階で彼の心が自分に向いていない事にミラベルは気付いていた。出会ったその日は仲良く過ごせたと思っていたが、そもそもそれ自体が偽りで初めから嫌われていたのかもしれない。
あれから十二年、今日もまたミラベルの前に居る殿下は、彼に集まる令嬢達へ笑顔を向け甘い言葉をかけていく。
私は彼等の語らいが終わるまで微笑みを貼り付け、一人佇んでいなければならない。その間、彼の視線は一度たりとも此方に向く事は無い。
ヴィクトルは色々な令嬢と浮名を流していたが、一人に絞らなかった事だけがミラベルの救いだった。特定の誰かが居る訳ではない、それを心の拠り所にミラベルは何とか踏ん張っていた。
けれど遂に、その砂粒のように小さな平穏も崩れ去る日が来てしまう。
彼の寵を一身に受け取る令嬢が現れたのだ。
春先に溢れる花を思わせる薄紅色の髪に、透き通る深い海原のような瞳をした美しいリナはボナール侯爵家の末娘という、容姿に加え身分も申し分ない令嬢だった。
華やかな黄金の髪と大地に芽吹く木々を思わせる翠眼の殿下と並ぶと、何人たりとも触れる事を許されない、神々を描いた絵画のように神聖さを感じる程だった。
社交界に王宮、そして貴族学院内でも、婚約者の挿げ替えという噂ががまことしやかに囁かれていた。そして恐らくその通りになるのだろう。ここまで気付かない振りをしてきたミラベルも、いよいよ認めるしかなかった。
デュカス公爵家の娘というだけで、殿下の婚約者の地位にしがみ付いて…と笑われ続けてきた。老婆のようだと言われる白銀の髪、灰色に近い紫色の瞳のミラベルではヴィクトル殿下の隣に居る事すらも認められず、蔑んだ視線を浴び非難めいた陰口が飛び交った。
ヴィクトル殿下の婚約者となった時よりも前から、正確には顔を合わせた瞬間に恋に落ちていた。今なら分かる。もし叶うなら、あの時に戻り浮かれた自分に忠告したい。
殿下は貴女の事など好きにならない、身の程を弁えるように、と。
そんな中、先ほど伝令が来てヴィクトル殿下に呼び出された。
久しぶりに耳にした殿下の名前に、嬉しく思うと同時に昏く視界が遮られるような、眩暈を感じた。ふら付く足に力を入れ、義務のはずがいつの間にか開催されなくなった二人の茶会へ臨んだ。
初めての顔合わせも此処だった。大好きだった小さな鉢植えの藤の花も、今では大地に根を張り薄紫色の門のように梁を覆いつくしていた。ミラベルを取り巻く状況はあの頃から激変していた。この庭園も成長はしたものの、相も変わらず美しいままで眩しく輝いていた。
自分だけが取り残されていくようで、仄暗い想いが顔を覗かせる。
指定の場所は庭園の四阿。予定より早くに着いたが、席の横で静かに佇む。殿下が来るまで、こうして待つのはいつもの事。何時間も遅れるのは当たり前、終いには断られたのだって数え切れないほどで。
それも今日で懐かしい想い出に変わる。
時間丁度にサクサクと大地を踏みしめる音がして、殿下が顔を現した。
「待たせたか」
「いえ、私も来たばかりです。ルクヴルールの太陽にご挨拶申し上げます」
頭を下げ、淑女の礼をする。
「堅苦しいのは無しでいい。早速だが大事な話がある」
ここ数年、まともな話すらしてこなかった二人だ。大事なと言えば、嫌でも察しが付く。
覚悟を決めて顔を上げた。そして真っすぐ殿下を見つめた。何時ぶりだろう、きちんと顔を合わせたのは。深い木々を思わせる翠色の瞳に吸い寄せられる。嫌いになれたら、どんなに良かっただろう。
後少し、せめて今日だけは貴方をこの目に焼き付けたいから。
「私達の婚約を一旦保留にしようと思う」
ガンとした衝撃が身体を吹き抜けていく。分かっていた事だとは言え、会えた悦びを味わう時間も僅かにしか与えられず、残酷な現実を突き付けられた。
保留とはつまり、白紙に戻るという事。関節がギシリと音を立て、身体がぐにゃりと捻じれていくような感覚に抗い、無理やり抑え込む。心のままに嫌だと泣き喚く事が出来たら、違う未来があるのだろうか。
けれど無様な姿で終焉を迎えたくない。故に選択肢は、ただ一つ。
「殿下の仰せのままに」
笑顔を貼り付け何とか一言を絞り出し、今一度深々と臣下の礼をした。
「それでは御前失礼いたします」
背を向け音も無く、その場を後にする。
声は震えていなかっただろうか、最後まで淑女として振舞えたのか気が気ではなかったが、別れの余韻に浸るのさえも許されなかった。
「ヴィクトル様!終わりましたのね!」
件の令嬢が発した、春風の様な声が背後で響いた。散らばっていた欠片が集まるように、事の全貌が手に取るように分かった。
殿下が彼女にかける声を聞いてしまったら、立ち直れる気がしない。そこからは只管足を動かしてその場を必死に離れた。途中からは記憶が定かではなく、断片的に覚えているのは帰りの馬車からの見慣れた景色だけ。気付けば公爵家へと戻っていた。
父である公爵に事のあらましを話し、今後の事を全て委ねた。ただの令嬢が、王族相手に出来る事は何もない。
「…すまない」
思いもよらず父から謝罪の一言が零れた。
「お父様の所為ではございません。私の努力が足りなかった、それだけの事です」
「気付いてやれなかったのは私の罪だ。私に全て任せて、暫くゆっくりしなさい」
父の言葉を聞きながら、そっと母が抱きしめてくれる。兄は無言のまま、私の肩に手を置いた。家族の優しさに触れ、温かさで満たされる。
部屋に戻り一人になった途端、涙が溢れた。決意が揺らいでしまいそうだ。
それでも父と母、嫡男である兄、公爵家に迷惑をかけてばかりではいられない。
◇
我がルクヴルール王国には乙女の祈りという習わしがある。響きは美しいが、百五十年に一度やって来る忌まわしき仕来りだ。
献身と言えば聞こえはいいが、悪く言えば人身御供。乙女を生きたまま像にして神へと奉納するという闇深い、けれど避ける事の出来ないものとして扱われている。過去に一度、取りやめた時、大地が荒れ狂い国を揺るがす大災害が起こり、慌てて乙女像を捧げたそうだ。
初めてこの話を聞いた時、守護しているのは神では無く悪魔だろうと慄いた。
本当にこれ程、非情な神が居るのなら止めさせたい。私如きではどうする事も出来ないだろうが。
修道院に入ると言っても、家族が許さないだろう。けれど王家との婚約が消失した事による、公爵家が被る損益を考えれば私が責任を取る方がいい。何の役にも立たない私が、少しでも政略の駒として動ける方法はこれくらいだから。
…というのは言い訳。
殿下が彼女と歩む未来を見続けなければならないのは、辛すぎるから。直接見ずとも噂を耳にするのですら耐え難い。
このままでは底の無い暗闇に足を取られそうで。
生憎、愛する人の幸せを見守る、そんな清らかな心は持ち合わせていなかった。殿下に愛想を尽かされた理由が分かると言うものだ。
色々な思考から、現実から背を向けた事への正当な理由が欲しかった、ただそれだけ。
通例では平民から選ばれてきたが、次回の選任がされる前に私はその役を買って出た。剪定前だった事、殿下との婚約が無くなったのが知れ渡っていたというのもあり、水面下で即決定した。そも立候補した者が居れば拒む事はないそうだ。間髪入れずに手渡されたのは黒い小瓶。よく見ると限りなく暗い紫色の液体は、ドロリと粘度が感じられる。この魔法薬を飲むだけと聞いて緊張が僅かに緩む。
幕引きは己が手で。
つんとする刺激臭に顔を顰めながら、少々残念な最後の晩餐をミラベルは一気に呷った。
◇
◇
◇
私の唯一の誤算は、動かぬ像になっても意識があるという事。乙女像を捧げている主との邂逅も無い。会えたのなら文句の一つでも吐き捨てたものを。
負け犬のように、色々なものから逃げ出した罰が当たったのだろう。
像となった私は中央神殿の正面の祭壇に祀られた。ここに入るには教会の許可が必要な為、普段、人は少ない。神殿を守る信徒が日に一回祈りと清掃に来るだけだ。
最初の内は家族が毎日のように来ていた。母は泣き崩れ、兄は目を潤ませながら静かに怒っていた。父は何度も何度もすまないと謝り続けた。
その様子を見ると、石化して動かなくなったはずの心がきゅっと痛む。もう悲しまないで欲しい、三人にだけはそれぞれ手紙を残してきた。その意味を汲んでくれたようで、最近では来訪の回数は少し減ってきたので安心している。
面白半分に様子を見に来た貴族達も多かったが、暫くするとそれも無くなり荘厳な神殿へと戻っていった。このまま朽ちるまで時の移ろいを見守るのだろう、そんな風に漠然と思っていた。
◇
「ミラベル」
その声に冷たく動く事が無くなった心が、ざらつくような気がした。
大理石の階段を三段登り、周りを囲う飾り房の付いた柵を超え、私の目の前にやって来たのはヴィクトル殿下だった。護衛も付けず帯剣すら無く、その身一つで来たように見える。
もう目にする事は無いと思っていた。
…何故、貴方がここに?
「ミラベル、ミラ…ベル…」
神が創り出した彫刻のように美しい顔を歪ませたヴィクトル殿下。震える手が私の頬を包む。
どうして、そんなに。
「あぁ…」
あり得ない程、悲哀に満ちた眼差しを向けてくれるのだろうか。美しい翠玉のような瞳に薄っすらと膜がかかる。
まさか…泣いて、いるの?
「何故ミラベルが乙女の像に、」
貴方が別の方と幸せになるのを見たくなかった、逃げたの。
目を逸らすことなくミラベルを見つめたまま、遂に大粒の涙を零し始めた。頬に添えられた手が移動し、ヴィクトルの指先がミラベルの唇に触れた。
じんわりと彼の熱が伝わってくる。石になったミラベルが感じる訳がないのに。
ヴィクトルの漏らした嗚咽が慟哭に変わり、地を這うような声が空間を切り裂いた。
「…必ず…、必ずミラベルと共に歩む未来を調える。待っていて」
カツンと音を立てて硬質なミラベルの指に、大粒の翠玉が付いた金の指輪が通された。キラキラと光が揺らめく。
今度はしっかりと、ヴィクトルはミラベルの頬を撫で唇を落とした。その左手の薬指にはミラベルと同じ形の指輪が視界に入る。嵌った宝石は深く優しい輝きの紫水晶は落ち着いた色合いで、ミラベルの瞳と良く似ていた。
こんな、だってこれではまるで。
私の事を。
…そんなはずは。
ボナール嬢をご寵愛されていたのは、紛れもない事実で。
私に向ける感情は、家族はおろか幼馴染に向けるそれでもなく形式的なもの、だったでしょう?
◇◇◇
その頃の私は退屈していた。
年の割に卓越していた為、大人たちが私に求める事が手に取るように理解できた。幸い身体や精神面でも、それに応えうるだけの能力を備えた才能ある子どもだった。
第一王子という立場から、七歳という弱年で婚約者の選定が行われた。
茶会の度にすり寄って来る同年代の子息令嬢達に嫌気がさしていた為、あまり期待していなかった。否、期待以前に何か粗を探し縁談自体を無かった事にしてやろう、内心そう目論んでいた。
「ルクヴルールの太陽に、ごあいさつもうしあげます」
集められた数多の令嬢、これで最後だと宰相に耳打ちされた。目の前で美しい淑女の礼を披露する少女。今までの候補者達とは異なり、過剰に着飾る事も無く、媚びるような眼差しも感じず好ましい。
好ましい?今、私はそう思ったのか?
味わった事の無い心の揺れに戸惑いながらも、食い入るように彼女を見やる。
天使を思わせる白く輝く髪、深みのある上品な紫色の瞳が真っ白な肌を更に際立たせている。薄く赤みが差す頬と春先の果実のように色付く唇。その全てに思わず触れたくなる衝動を抑えるのが精一杯だった。
手を前に動かし、彼女に挨拶の続きを促す。王族らしい振舞いとしてはギリギリの及第点になってしまった。
下げていた頭を戻し、こちらを真っすぐ見つめたまま、ふわりと微笑んだ。
「デュカス公爵家のミラベルでございます。おまねきありがとうございます」
ミラベルというのか、なるほどと思わず頷いた。
「ミラベル嬢に会えて嬉しいよ。藤の花が見頃なんだ、案内するよ」
そう右手を差し出すと、ミラベルは控えめに手を添えた。やはりこれまでの令嬢達とは違う反応に好感が持てるが、物足りなさをも感じた。
もっと触れたい。
「この先は石畳になっている。きちんと整備されているけれど、念のため。ね」
ミラベルの手に自分の手を重ねて、もっと強く握るように促す。顔を真っ赤にしながらも、はいと小さく頷く彼女を見て気分が高揚した。
なるべくゆっくりと歩いた。この幸せな時間が少しでも長くなるように。
けれど残念ながら、あっという間に藤の花の前へと着いてしまった。
「まぁ、なんて愛らしい。それなのに美しいなんて」
花に視線を止めたまま、ミラベルは目を輝かせている。
意匠の施された白磁器の鉢から天に向かって枝葉を広げる藤は、ヴィクトルの頭一つ上ほどの背丈ながらも、薄紫色の花を全身に纏うように咲き誇っていた。
「それは良かった。手を掛けた甲斐があるというものだ」
少し得意げに胸を張れば、思惑通りミラベルが此方へと振り返った。
「こちらは殿下が…?」
微笑みながら是と頷く。
「繊細なのに湧き上がる生命力を感じます。努力を重ねられる殿下を神様が認めてくださったのですね」
ふわりと微笑むミラベルから増々目が離せなかった。
王族としての教育の合間をみて、暇つぶしにと始めただけだったが、日々成長してここまで育った藤の花と同じ色をした瞳を持つミラベルを重ね愛おしいとさえ感じた。
碌に花も見ずに綺麗だ、さすが第一王子だと上っ面だけの賛辞ばかりだった中で、心行くまで花を観賞し、その過程をも称賛してくれたミラベル。
思った以上にすんなりと私の心に浸透していく。
ミラベルでなければ駄目だ。一刻も早く国中に知らしめなければ、安心できない。
こうして初顔合わせの後、瞬く間に婚約者として契約を結んだ。手に入れた実感で一息吐けた。心が身体が満たされて行く。それまでの味気ない日々が色付き、生まれて初めて生きているという実感がした。
充実したのも束の間、すぐに慣れてしまう。
足りない、またあの多幸感が欲しい。
もっと、もっと。
手に入れたい。そして出来る事ならミラベルと共有したい。
…不公平じゃないか、常にミラベルを想っているのが私だけというのは。どうすればいい。何をしたら君の頭の中を私で埋め尽くせるのだろう。
そんな中、王家が主催する茶会が行われた。隣国の大使が家族を伴い我が国を訪れた。彼等を、もてなす為の催しだ。顔合わせの際に大使の一人娘に偉く気に入られてしまい、案内役を任命された。
ミラベルとの時間が減り、内心舌打ちをしていたが反面嬉しい気付きもあった。
仕方なく笑顔で大使の御令嬢を先導していると、此方を射貫く視線を感じた。視界の端で確認すれば、ミラベルが此方を見ているのが分かる。
淑女の笑みで隠しているつもりなのだろうが、表情が僅かにいつもと違う。彼女の機微になら何だって気付く私にしか分からない程度のものだが。
世界中の悲しみを背負ったように瞳を潤ませながら、どうしてと訴えてくる。初めて寄せられた悋気に高揚した。この時ばかりは彼女の心に私だけしか居ない瞬間だと悟った。
漸く堕ちて来てくれた。けれど同じ位置というにはほど遠い。
まだだ、まだ足りない。
私を、私だけを見て欲しい。
以前から好意を隠さずに近づいてきた令嬢を、気まぐれに傍に置いた。そうしてミラベルとの時間を極力減らせば、またあの激情を向けてくれた。
もう少し。
あと一回。
次を最後にしよう。
こうして自分の仄暗い歪な想いを優先させた。
普段から他人が何を欲しているのか、心の移ろいが手に取るように分かっていた。人が求めるものに色を付けてやれば、たちまち支配できる。それが当たり前になり過ぎて自惚れていたのだろう。
異変に気付いた時には、既に手遅れとなっていた。
最愛の心を見誤ったのだ。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
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