かつて英雄ともてはやされた者の晩年
初めまして
ある国に、人類を長い間苦しめてきた魔王を倒した男がいたという。
魔王を撃ち倒し、生まれ故郷に帰った際には、それはそれはもう、これまでにない歓迎を受けたそう。
しかし、これは既に五十年以上前の話。
人々は魔王がいた頃の生活なんてすっかり忘れている。
いや、忘れてしまっていると言うべきだろうか。
当然、そんな事になっている世の中では摩耗を倒した英雄に興味を持つ子供らは少なくなっている。
勿論魔王を撃ち倒した英雄に興味を持つ若い子供らもいる。
しかし、殆どはただただ憧れを持つだけで、今その者がどうしているかには一切の興味を持たない。
一部の物好きは彼の今が気になっているらしいが。
まあなんにせよ、彼は既に過去の人物となっているという事だけは間違いない。
その証拠に数十年前までは誰もが知っていた彼の名は、今では殆どの人が知らないのだから。
先程例に挙げた子供らも、彼の名など知らない。
ただ、純真無垢な笑みで、彼のことを『勇者様』と称えている。
その時に自身の横を通った老人が、自分が称えている勇者だということも知らないで。
子供達が知ったらどう思うのだろう?
自分達の勇者様がこんな風に吹かれるだけで倒れてしまいそうな老人になっているなんて。
そもそも子供達がこの老人と勇者を結びつけるはずがないので、これはあくまでも想像にしか過ぎない。
それでも、こんな現実をこんな年頃の頃から知ってしまったら、永遠に夢を抱けなくなることだけは間違いない。
それはさておき、この老人の動向を見守るとしようか。
このかつて勇者と呼ばれた老人の肉体は、若い頃に比べれば当然衰えている。
しかし、流石は魔王を倒した人間と言うべきか、老人には似合わない筋肉は今だ健在だ。
だが、その足取りは心無しかおぼつかない。
彼の口からは何故酔い潰れていないのか疑問に思ってしまうほどの酒の匂い。
そう、彼は先日、大量の酒をこれでもかというほど呑んできたのだ。
勿論理由もなく酒を水のように飲むことはしない。
彼とて七十を過ぎようとしている肉体にこの量の酒を摂取させれば健康に害が出ることは理解している。
これには、彼なりのきちんとした理由がある。
かつて勇者と呼ばれたこの老人はつい先日、若い頃から世話になっている癒者から、死期が迫ってきている事を伝えられた。
しかし、まだ彼は七十。
魔法という、ズルがあるこの世界ではまだまだ元気でいられる年齢だ。
けれども、彼は普通の人間とは違う。
僅か十歳の頃から勇者として魔物との戦いに明け暮れ、魔王を倒すその時まで魔素を誰よりも浴びてきた。
勿論、魔素は人間にとって有害だ。
そして、魔素は残念な事にどれだけ優れた癒者であっても取り除くことは出来ない。
だから、彼は普通の人間より死期が早く訪れてしまったというだけだ。
世界のために魔王を倒したというのに今では忘れ去られ、さらにその冒険が自身の寿命を縮めていた。
これを知った時の彼の気持ちはどんなものだったのだろうか。
少なくとも、大量の酒を思わず呑んでくれてしまうくらいには激情にかられていたことだけは間違いない。
どれだけ愚痴を溢そうが、彼の抱えてきたものを分かり合える者はこの世に誰一人としていない。
だって、魔王を倒すなんてことをした人間は、この世界には彼しかいないのだから。
共に冒険を歩んだ仲間達なら彼の気持ちを分かってくれたのかも知れない。
しかし、現実というものは何処までも残酷だ。
彼等は既に亡くなっているの。
もっと言えば、彼の昔からの知り合いはもう、先日彼の死期に言及した癒者くらいしか存命している人物がいない。
彼と唯一血のつながりのある親戚ですら、一月程前に魔物の襲撃によって命を落としている。
つまり彼は今、孤独だ。
そう、孤独なのだ。
「クソ! クソ! 何で俺だけこんな……こんな……」
一人きりの家の中で、彼は今日も酒を呷る。
自慢の拳で机を何度も、何度も叩きながら。
彼の前にある机の上には、既に二、三本ほどの酒の瓶。
これほどの量の酒を呑んでいるのに意識がしっかりしているのを褒めるべきか。
「俺の努力で今があるんだろ……じゃあ何で俺を知る人間がいないんだよ……!」
この時、彼の心の大部分を占めていたのは怒り、寂しさ、それとも実に人間らしい承認欲求?
どれが一番多かったのかは、彼以外の人間に知る由もない。
まあ、そもそも、彼のことを知ろうとする人物など今となってはいないのだが。
今の彼を見ても、百人中九十九人はただの酔っ払いとしか認識しないに決まってる。
こんな老人がかつての英雄だなんて、誰が思うのだろう?
英雄も、時間が経てばなんて事のない人間となる。
時間が経てば、人々の記憶からは自然と忘れ去られる。
一人の元英雄の叫びが何処かの民家に響き渡る中、世界は今日も平和に回っていた。
お読みいただき、ありがとうございました