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9.泥ガエル

 成長した今でこそ少しましになったと信じたいけれど、幼い頃の私は本当に精神的に未熟で、家族以外の誰とも上手く会話できないような子供だった。本が好きで家に篭りがちで、外に出ることもあまり好きではなかったから、いつまでも人と上手く関われないままで。

 誰かにしてはいけないこと、気がついても黙っていなければいけないこと、そういう暗黙のルールみたいなものがずっと理解できなかった。


 もしも私が一人で遊んでいるだけで満足できる子供だったのなら、それでも良かったのかもしれない。けれど幼い私が愛した本の世界はいつだって、人と関わることやその絆の素晴らしさを描写していて、私はそれに憧れてしまった。

 当たり前みたいに集まって遊ぶクラスの女の子たちが羨ましくて、でもどうやったらそこに入れてもらえるのか分からなくて。


 羨ましくて、見つめて、ずっと見つめていたら──いつの間にかそれが習慣になって。

 人を良く見るようになれば、人のことに良く気が付くようになる。良いことも悪いことも、関係なく。そして気がついたそれを上手く使えるような分別は、当時の私には身についていなかった。

 本当に純粋と言えば聞こえはいいけれど、無知で無神経な子供で、今思い返しても恥ずかしい。


『ねえ、その子のこときらいなのに、どうしてずっといっしょにいるの? へんなの』


 本当に、本当に、当時の私には悪意なんてなくて、ただ不思議に思って聞いただけだった。

 クラスでもセットみたいに扱われている、私たち親友だよねってずっと言い合ってる二人の女の子。服とか文房具もお揃いにしていたりして、仲良しの代名詞みたいな。

 でも、一人がもう片方の子の背中をいつも憎々しげに見つめて、裏で悪く言っていることを私は知っていた。……その子の好きな男の子が、もう片方の子を好きだったことも気がついていたけれど、それが頭の中で繋がりを持たないくらいに、当時の私は本当に未熟だった。


……そしてその日から始まった女子たちからの熾烈な嫌がらせは、憧れていた友達同士の繋がりの、本では描写されない負の側面を嫌というほど私に刻み込んだ。

 その二人はクラスの中心人物で、対して元々私はクラスでも浮いていたから、自分の立場を悪くしてまで庇ってくれるような子がいるわけもなくて。訳もわからないまま「みんなの悪者」になった私は、ただでさえ人との交流が少ないことを心配していた家族に相談することもできず、針の筵のような日々を耐え続けることしかできなかった。


 最初は子供の稚拙な嫌がらせだったはずのそれは、私が抵抗らしい抵抗を示さず、止める人もいなかったことでどんどんエスカレートしていって。

 ある日の放課後、目立たない公園の隅に引き摺られた私は、前日の雨でぬかるんだ場所へと突き飛ばされた。尻餅をつけば、お気に入りだったワンピースが簡単に泥まみれになって。

 けれどそんなものよりも、私を囲んだ女子たちから矢みたいに降らされる罵詈雑言の方が余程私の心を切り刻んだ。


 この子の方が可愛いからって、妬んであんなこと言ったんでしょ。気持ち悪い、暗いし何を考えているか分からない。大嘘つき──……


……嘘なんて、ついてない。仲良しだって、親友だって、大好きだって嘘をついていたのは、そっちの方なのに。

 でもそう口に出す暇もなく振り翳された子供の手は、当時の私には大きな刃物みたいに恐ろしく見えて、身体を固くしてきつく目を瞑って、それが振り下ろされる瞬間を待つことしかできなかった。


──でも、どれだけ経っても、想像していたような痛みはやってこなくて。……そうして恐る恐る目を開いたときに一番に映った、美しい雪の色を、私は今でも鮮明に覚えている。



『……やめな、みっともない』



 子供だったということ以上に、その背中はとても大きく見えた。

 その背に流れる雪のような色の髪が、目に焼き付いて。振り翳された手を掴んで止めたのは、艶やかな白い髪を靡かせた、女神も裸足で逃げ出すような見たことがないほど美しい女性だった。

 どんな宝石も敵わないようなその黄金の瞳を剣呑に細めて女子たちを見下ろす突然現れたその人に、その場にいた全員が呆然とすることしかできなくて。


『はぁ……切らした変化用の素材を集めに来ただけだってのに、嫌なとこに遭遇したもんだ。子供ながらに醜い女たちだね、あんたらあそこの角の学校の子だろう』


 若々しい見た目とは正反対に古めかしい口調のその女性は、唸るようにそう言って女子たちを睨みつけた。

 あまりに存在感のある女性が突然目の前に現れて呆けていた子たちは、私を突き飛ばしてぶとうとしていたところを大人に見られた、という現実にようやく思考が追いついて見る間に青ざめると、慌てたように言い訳を始めた。


『ち、違うんです、私たちはそんな……ね、遊んでて転んじゃっただけでしょ、そうだよねえ』


 私に嘘つきだと言った子の拙い言い訳に縋るように、その場にいた子たちは我に返ると口々に同意して、最後にそうだと言え、という風に鋭い視線で私のことを突き刺した。それが怖くて肩が跳ねて、苦しくて、でもどうして良いか分からなくて。

……ここで、違うって、突き飛ばされたんだって言ったとして。親切に庇ってくれたこの女性は叱ってくれるかもしれないけど、でも、その後は?


 学校に話が伝わったとして、相手の方が数が多いのに、口裏を合わされたらたった一人で信じてもらえる? 先生だってずっと見てくれる訳じゃないのに、告げ口したって言われて、もっと酷いことをされるかもしれない。家族にだって心配かけるかも。


──……でも、でも。じゃあ、あの子が言うように、本当に嘘つきになっていいの? だって本当の嘘つきのあの子が、あんなにきたなく見えるのに。……私は、あんな風になりたくない。


 もう頭の中がぐちゃぐちゃで、何を言おうとしているのか自分でも分からないままに、俯きながら震える口を開こうとして──けれどそれは、目の前に差し出された細い腕に遮られた。

 はっと顔を上げれば、黄金の瞳が真っ直ぐに、ただ私を射抜いていて。導かれるようにそろりと小さな手を差し出せば、泥まみれのそれを女性は躊躇いなく掴んで、引き上げてくれた。

 尻餅をついたままだった私を立たせた女性は、ぽかんとする私に構わず尊大な態度で腰に手を当てて、ふん、と鼻を鳴らしてみせる。


『馬鹿だね、屈するんじゃないよ。何があったって、正しいことは正しいと言いな。罪悪感があるうちゃまだ良い、だが間違ったことにおもねり続けると、やがてそれが本当に正しい気がしてくる。それは一度踏み超えたら、もう二度と戻れない境界線なんだよ』


 あんたが悪くて、いじめることが「正しい」、そんな風に思い込んでるそこの連中みたいになりたかないだろう──言いながら、女性は小さなガラスの瓶をローブの袖から取り出した。

 不思議な色をしたそれに目を奪われる暇もなく、視線で会話して逃げようか算段していた女子たちに女性が向き直って。


『えっ』


 そうしてガラスの瓶の蓋を開けると、一息にそれを呷ってしまったのだからその場にいた全員が目を剥いた。

 四方から向けられる痛いほどの視線には全く頓着せず、それはもう拍手してしまいたくなるような良い飲みっぷりで瓶をすっかり空けてしまった女性は、ぐい、と見た目に似合わない粗暴な手つきで口元を拭って。

 にやりと悪辣に弧を描いたそれに目を奪われていれば──やがてクラスの女子たちにかかっていた女性の影が、どんどん膨れ上がって、恐怖に歪んで目を逸らせない女子たちの視線が、どんどん上がっていって。


『ひ、』


 誰かから引き攣ったような悲鳴のなり損ないが上がる頃には、私たちの目の前には、ここにいる全員の身長を足してもその大きさに満たないような、毒々しい色をした巨大な泥ガエルがぎょろりとその目玉を動かしてこちらを睨み下ろしていた。


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