8.めかし込む
先日はまず図書室で落ち合うことになったけれど、普段レクス先輩と会う時はそのまま裏庭に行くことが多い。しっかり時間を決めているわけではないから、どちらが先に着くかはまちまちで、それでも私は毎回できるだけ彼を待たせてしまうことがないようにと気を付けていた。
だから──こんな風に、建物の陰から私を待っている彼を覗き見るなんて趣味の悪いことをするのは初めてだ。
彼は足を組んでベンチに腰掛け、何かで時間を潰すでもなくじっとスノウモルの大木を見上げていた。その横顔は見惚れてしまうほど絵になっていて、真顔だとますます兄のラン先輩と似ているな、なんてひっそりと思う。
けれど、私が待ち合わせしている相手をこっそり陰から見つめるなんてことをしているのは、決して彼の端麗な容姿を観察するためじゃない。……純粋に、緊張しすぎて彼の前に足を踏み出せないだけだった。
いや、いつだって彼の隣に並ぶには勇気が必要だったけれど、流石に付き合い初めてそれなりになるのに、目の前に出ていくだけで尻込みなんてしない。
ただ、そう──大好きな彼氏の為に、慣れないおめかしを精一杯頑張ったとなれば、話は別というだけで。
いつまでも覚悟が決まらず、じり、と踵が後退すれば、いつもとは違う位置で髪飾りの装飾が音を立てて落ち着かない。まだ何も始まっていないのに心臓が煩いし、変な汗が止まらなくて私は早々に後悔しそうになっていた。
来る前に何度目か分からないくらい鏡を見つめていたときは、きっとこれなら大丈夫、と思えたのに、いざ直前になればそんな自信はどこかにすっ飛んでしまって。
おめかしと言ったって、歴史がある分風紀に煩いシクザール魔法学園の学生である以上はそうそう派手なことはできない。だから、少し前に友人に押し付けられたヘアアレンジやメイクの本を棚の奥から引っ張りだして、煌びやかで華やかなそのページと睨み合って。
錬金術の素材や参考書、個人的な器具を揃えるためにいつだってお金のやりくりには頭を悩まされているけれど、化粧品の一部は実験の一環として以前自作したものが残っていて助かった。
……それから、ローブの下のスカートの丈を、思い切って短くしてみたりなんかして。これはなかなか大胆になれない自分への景気付けみたいなもので、ローブを脱ぐ勇気はないからあまり意味がないかもしれないけれど、私にはそれが限界だった。
だから結局、気が付いて何か言ってもらえたらいいな程度の、控えめな仕上がりになっている、はずで。なのにどうしようもなく緊張して、出ていくことができないままに刻々と時間が過ぎ、彼を待たせてしまっているという罪悪感ばかりが膨れ上がっていく。
どうしよう、といよいよ半泣きになったところで、ベンチに腰掛けるレクス先輩はふと、思いついたように指先を宙へと差し出した。前触れもなく魔力の線を描き出したそれに、思わず目を奪われる。
丁寧に、丁寧に。少し歪でも、取りこぼす線がないように、道を逸れないように、陣がゆっくりと紡がれていく。小さな魔法陣に向ける彼の視線は、やっぱりどうしようもなく優しくて、愛しそうで、柔らかで。
はじまりと終わりの線が繋がれば、そこから数羽宝石のような輝きを帯びた小鳥が羽ばたきだして、私はうっとりと感嘆のため息を吐いた。
小鳥はやはりほんの数秒で、空へと溶けるように消えてしまったけれど、そのほんの瞬きほどの間に、生み出してくれたことを感謝するようにレクス先輩に頭を擦り寄せ、慕わしげにその肩に止まって。その羽を撫でるのは間に合わないと知っているレクス先輩は、ただ少しだけ寂しそうな、淡い笑みを浮かべてそれに応えた。
それは本当に、何かの物語の挿絵みたいに美しくて、切なくて──……視線を逸らすことができないでいれば、小鳥が消えた宙を見つめたまま、レクス先輩はふと口角を上げた。
「シェルちゃん、そんなに身を乗り出したらローブの裾が見えちゃうよ。隠密ごっこなら向いてないかも」
「ひぇっ」
「まさかシェルちゃんに覗き趣味があったなんてね、だいたーん。でも俺だけにしといてよ?」
「な、な、ないです誤解ですっ、すいませんごめんなさい!」
「あははじょーだん、別に怒ってないって。でもそろそろ顔が見たいかな」
「う……っ」
揶揄うような声色に、本当に怒ってはいないみたいだと安心したのも束の間、当たり前だけれど出てこいと言われてしまった。
まだ全然覚悟が決まっていなかったけれど、ここまで来て流石に隠れているわけにもいかない。大丈夫、何度も鏡で確認したし、雑誌の手順をそのままなぞったからおかしくはないはずだし。
もしかしたら案外、何も気が付かれないということも……いや、せっかく頑張ったのにそれはそれで寂しいけれど。
ぐちゃぐちゃと頭の中で考えつつ、どうにかこうにか足を踏み出した私は、目を逸らしたままそろりと建物の陰から顔を覗かせた。初めて錬金術の論文発表で登壇した時よりもずっと、心臓の音がばくばくと煩くて仕方ない。
「あ、あの……ちょっと、気分転換でもしてみようかな、なんて、その」
「……」
まだ何にも言われていないにも関わらず、早口で言い訳を重ねてしまう。気が付かれなかったら寂しいけれど仕方ない、なんて考えていたのが嘘みたいだ。
半泣きでじっと地面の小石を見つめていれば、彼からの反応が何も返ってきていないことに気がついて、私は恐々顔を上げ──……途端にぶつかった視線に、思わず息を呑んだ。
先程まで明るい声で話していたはずのレクス先輩は、すっかり言葉を失ったようにぽかりと口を開いていた。まるで、本当に思ってもみないものと遭遇したみたいに。
でも私から視線を逸らすことはなくて、射貫くようなそれをどう捉えればいいか分からず戸惑う私に、レクス先輩ははっと我に返ったような素振りで口を手で押さえた。
そうしたら彼の表情がほとんど窺えなくなってしまって、……けれどじわじわと染まっていく耳までは、隠せていなくて。それに目を奪われながら、私は無意識にレクス先輩の方へ一歩足を踏み出していた。
「あ、あの……」
「ちょっと待って」
「は、はい」
いつになく強い口調の静止に、考える暇もなく中途半端な姿勢で足が止まる。その間に彼は、らしくない粗暴な仕草でぐしゃぐしゃとその柔らかそうな赤茶色の髪を掻き回した。
「……シェルちゃん。不意打ちはさ、ずるいと思うんだけど。これじゃ格好つかないじゃん……」
いつもの明るくて軽快な声とは違う、少し低くて掠れたその声に、じわじわと顔に熱が集まっていく。
全然出来に自信なんて湧かなくて、半ば後悔していたのが嘘みたいに心が浮き上がった。だって、精々気がついてくれたら上々だと思っていたのに──レクス先輩がまさか動揺して照れてくれるだなんて、誰が予想できただろう。
格好なんかつけなくたっていいから、格好悪い彼のことを、もっと知りたい。二の句が継げないのに心臓の音ばかり主張が激しくなっていって、彼に近づきたくて。
顔を真っ赤にしてどうすればいいか分からず固まる私に、レクス先輩は何度か深呼吸をしてから、やがてへにゃりと力の抜けた笑みを浮かべた。
「……意地悪言ってごめん。こっちおいで」
「! は、はいっ」
飼い主に呼ばれた犬みたいに慌てて走り寄れば、彼はそれにまた笑ってから手で自分の隣を軽く叩いた。促されるままにそっと腰掛けて、まだ熱の引かない頬でそろりと彼を見上げてみれば、同じように少しだけ目尻を染めた彼と視線がぶつかって動揺に思わず唇を引き結ぶ。
「気分転換って言ってたし、自惚れだったらすげぇ恥ずかしいんだけどさ、……その、俺のためにお洒落してくれたって思ってもいい?」
少しだけ自信のなさそうな、それでも期待を隠せない甘い声に、私は壊れたおもちゃみたいにただこくこくと頭を縦に振った。上手く言葉にできなくてもどかしいけれど、他の誰でもない、大好きなレクス先輩のためだけに頑張ったことが伝わってほしくて。
私が肯定を示せば、彼はぱっとそのターコイズブルーの瞳を輝かせた。
「やった。……じゃあ、このお洒落したシェルちゃんは、俺だけのものだ」
──言い忘れたけど、すっごい可愛い、似合ってる。
いつになくはしゃいだ声色で、本当に嬉しそうにそう言われてしまえば、浮かれないでいるなんて無理な話だった。慣れないことで苦労したし、失敗して半泣きでやり直したり、何度もくじけそうになったりしたけれど、頑張ってよかった。
彼の笑顔と言葉ひとつで魔法みたいに心が浮き上がって、どんな苦労も報われたと思ってしまうんだから恋とは不思議なものだ。
ありがとうございます、とか細い声で応えつつ、嬉しさにどうしたってにやけてしまうだらしない顔を見られないように慌てて俯けば、ふと視界の端で彼の手が伸ばされた。それがさらりと私の髪の一筋を掬って、どきりと胸が音を立てる。
「髪も纏めてて、すごい新鮮。……あ、これ、普段つけてる魔石の髪飾り? 結ぶのにも使えたんだ」
「あ、は、はい。大切なものだから身に付けていたいだけで、面倒なのでいつも纏めたりはしないんですけど……」
「そっか、じゃあ面倒なこと、今日は頑張ってくれたんだ。……これ、初めて会った時からずっと付けてるよね。随分品質の良い魔石だけど、確か思い出の品だって言ってたっけ」
そういえば、彼にこの魔石の髪飾りの来歴を詳しく話したことはなかったかもしれない。今でも色鮮やかに眼裏に浮かび上がる、私の幼い頃の憧憬。いつだって、思い返せば口元が緩んでしまうような宝物。答える声は、自然と柔らかいものになった。
「……はい。私の夢の、始まりなんです」
予想外の返答だったのか、少しだけ目を瞬いたレクス先輩は、次いで好奇心をその瞳に浮かべた。
「へぇ……よかったら聞かせてよ、シェルちゃんの思い出話」
「え、でも、長い話になってしまいますけど……」
「いいよ。俺、シェルちゃんと話してて退屈したことなんてないし」
当たり前のように言われたそれに、けれど私は少しだけ目を見開いた。決して話すのが上手い方ではない私との会話を、彼がそんな風に思ってくれていたなんて思わなかった。
じわりと胸の底から湧き上がった喜びに背中を押されるように、私は幼い自分を思い描きながら、ゆっくりと順を辿って語り始めた。