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5.白い猫

 彼の焦ったような表情と、宙を舞う水筒が視界に入ったのを最後に襲いかかってきた浮遊感に、私は訳も分からないままに身を固くしてきつく目を瞑った。

……けれど、想像していたような衝撃も痛みも、いつまで経ってもやってはこなくて。代わりに感じる温もりと甘い香りに、私は恐る恐る目を開いた。

 途端に視界に広がったのは、これまでにないほどの至近距離でこちらを見つめるターコイズブルーで、驚きに一瞬息が止まる。


「、びっくりした……大丈夫? 痛いところない?」


「あ……」


 先程私が躓いたのは、どうやらベンチの脚だったらしい。私が頭を打ち付ける前にレクス先輩が抱えるようにして助けてくれたようだったけれど、その体勢が良くなかった。まるでベンチに押し倒されるような形になって、回された腕の力強さにばくばくと鼓動が速まっていく。

 少しだけ汗ばんで熱を持ったレクス先輩の身体が、その香りが、いつもよりもずっと近くて。


 純粋に心配の色を浮かべるその瞳に、大丈夫ですって、助けてくれてありがとうございますって、すぐに伝えないといけないのに。レクス先輩の耳に揺れるピアスの装飾が頬を掠めて、それがひどく冷たく感じるほどに、自分の顔が熱を持っていることを嫌でも自覚してしまった。

 それがとても恥ずかしくて、じわりと視界が滲んで、なのにこんなに近くてはそれを隠すことさえできやしない。


 そんな私がどう映ったのか、揺らいだ景色の中で、レクス先輩がほんの少しだけ目を見開いて──……私の熱が移ったように、じわりとその目尻が淡く色づいた。ゆっくりと伸ばされた彼の指先が、その温度を確かめるように熱を持った頬に触れて、思わず肩を揺らしてしまう。

……けれど、熱の灯ったそのターコイズブルーの瞳に、目を逸らすことさえできなかった。ましてや、抵抗しようだとかそんなことは、考えさえ浮かばなくて。

 ごくりと喉を鳴らしたのが、私なのか彼なのかさえも、もう分からなかった。


「……シェルタ、」


 ほんの少しだけ、掠れた声で名前を呼ばれて。いつもの「シェルちゃん」という柔らかくて可愛らしい呼び名とは違う、ごく稀にしか呼ばれないそれに、くらりとした。

 はしたないと思われたくないなんて考えていたことも忘れて、どこか遠慮がちに頬に触れている彼の指先に、そっと擦り寄ってしまう。大丈夫かな、引かれてないかな、こんなことして嫌われちゃわないかな、とそろりと彼を見上げて、彼が耳まで淡く染めて、見たことのない色を宿した瞳でこちらを見下ろしていることに気がついて息を呑む。


……もしかして、例えば今、ゆっくりと目を閉じてみせたら。その指先を、強請るように引いてみせたのなら。はしたないと何度自分を咎めても、ふとした時に想像するのをやめられなかった彼の唇の感触を、知ることができるんじゃないか──……なんて。

 けれどそんな浮かれた思考は、私を包み込んでいた温もりがゆっくりと離れていってしまったことで断ち切られた。

 慌てて滲んだ視界を瞬きで散らせば、鮮明になった景色の先で、身を起こしたレクス先輩は僅かに目を伏せていて。それからほんの小さく息を吐くと、ぱっと空気を変えるように、いつもの人懐こい笑みを浮かべた。


「ごめんねシェルちゃん、俺がからかうようなこと言ったから慌てちゃったんでしょ。起きれる?」


「あ、……は、はい、大丈夫です。助けてくださって、……ありがとう、ございます」


 先ほどの張り詰めた空気なんてなかったかのように差し出された手を取りながら、当然彼のようにすぐに切り替えることのできない私はどこか呆けたようにそう答えた。

 その手に促されるままにベンチへと座り直しながら、まだ熱の残る頬で彼を見上げてみても、もうさっき確かにそこに宿っていたはずの色は、彼のターコイズブルーの瞳のどこを探しても見つからなくて。


 怪我がなくてよかった、と微笑んで水筒を拾いに向かったレクス先輩の背中を見つめながら、私はじわりと胸に立ち込めるもやもやしたものを抑え込むのに必死になっていた。助けてもらっておいてこんな感情を抱くなんて、と自分を咎めてみても、どうしたってそれは晴れてくれない。


 例えば直接的な好意を示す言葉を貰えないだけだったのなら、少し寂しいけれど、彼はそういうことを口にする性質ではないんだろうと割り切ることだってできたかもしれない。大切にしてもらっていることは痛いほど実感しているし、言葉だけが全てじゃないことも知っているつもりだ。

……だけど、胸に纏わりつく不安が、ずっと消えてくれないのは。レクス先輩の恋人だという自信が、ちっとも湧いてきてくれないのは。

 彼の指先が触れた頬に、冷ますように手を当てて私はそっと唇を噛み締めた。


 もう、付き合ってそれなりになるのに。そういうことに疎い私でさえ、今いい雰囲気だったかも、と思うような時に、彼はいつも曖昧な笑みひとつ残して離れていってしまう。恋人同士の進展速度なんて人それぞれだし、焦るようなことじゃないと分かっている、つもりだけれど。

 それでも……スキンシップは多いのに、機会だっていくらでもあるのに──私たちはまだ、キスのひとつすらしたことがない。それは何だか少し、歪な気がして。


 レクス先輩の手を離れた水筒はスノウモルの木の根元近くまで転がってしまっていたらしく、それを拾い上げた彼が何気なくこちらに視線を向ける。

 後ろめたいことを考えていた私は罪悪感から僅かに肩を跳ねさせたけれど、そんなことを知る由もない彼は苦笑しながら少し土の付いてしまった水筒を見せるように持ち上げた。少しだけばつの悪そうな、悪戯がばれた子供みたいなその表情にいちいち胸が高鳴って。


……彼は、私が何度も差し出している五文字に、どれほど特別な想いを込めているかなんて知らないんだろうな。

 目の前にスノウモルの大木があるせいか、幼い日の憧憬が鮮やかに脳裏に浮かび上がった。私にとって、何度も手に取って、埃を丁寧に拭ってはうっとりと眺めてしまうような、宝石のような思い出。今でも耳に残っている、愛しさの滲む優しい声。


『……満開のスノウモルの木の下で、“愛してる”って言ってもらったのさ。素敵だろう?』



「シェルちゃん?」


「っ」


 いつの間にかすぐ傍まで戻ってきていたレクス先輩の声に、私ははっと我に返った。

 いけない、今日は何だか考えに耽ってしまう日だ。彼のことで悩んで、彼と居る時間を無駄にしてしまったら意味なんてないのに。差し出された水筒を受け取りながら、私は慌てて笑顔を繕った。


「すいません、助けていただいた上に拾わせてしまって……ありがとうございます」


「ううん、投げちゃったの俺だし、それはいーんだけど……」


 そこで言葉を探すように声を途切らせたレクス先輩にじっと見つめられて、どきりと心臓が跳ねる。彼は明るくてともすれば軽薄な印象さえ与えるけれど、決して距離感を誤ることはないし、人の機微にとても敏い。

 もしかしたら、私が彼のことで悩んでいることを悟られてしまったのだろうか。……まだ、彼と真正面から向き合う覚悟なんて全然できていないのに。


 けれど上手く誤魔化すようなこともできず、ただ探るように注がれる視線と、それに速まっていく鼓動の音に焦りばかり覚えていると──……にゃあ、という可愛らしい高い声が、その緊迫した空気を切り裂いた。

 ぱちりと目の前で瞬いたターコイズブルーの視線が逸れて、それに倣う前に膝へと白い小さな影が飛び乗ってくる。


「え、わっ」


 前触れのないそれに思わず素っ頓狂な声を上げたけれど、小さな闖入者はそれに構うことなく、我が物顔で素早く私の膝に丸まってあくびをひとつしてみせた。

 ふわふわの白い毛に包まれたその体躯と、しなやかに揺れる尻尾。魔石ランタンの灯りを照り返すその金色の瞳はきらきらと輝いていて、まるで宝石みたいだ。


 唐突に私の膝を寝床として占領したのは、両手で包めてしまいそうなほどに小さな白猫だった。膝にじわりと重みと温もりが染み渡って、呆然としていた私は現実に引き戻されるとにわかに慌て始めた。


「え、え、猫ちゃん……! ど、どうしようレクス先輩、この子、たまにこの辺りで見かけてた美人さんだ! 猫ちゃんがこんな風に膝に乗ってくるのなんて初めてですっ」


 私は猫が大好きだけれど、染み付いた薬品の匂いのせいか今まで逃げられてばかりだった。またとない機会、是非ともその見るからに柔らかそうな毛を堪能させていただきたい。けれど触ったら折角膝に乗って寛いでくれているのに逃げていってしまうかも。

 

 手をうろうろと不審に彷徨わせながら、先ほどまでの張り詰めた空気も忘れて興奮のままにレクス先輩を見上げれば、視線がぶつかった彼はぽかんとしていて。

 それに我に返った私は、昂っていた気持ちが音を立てて萎んでいくのを感じた。代わりに湧き上がってくるのは、子供みたいにはしゃいでしまった羞恥だ。猫一匹で大騒ぎして、幼稚だと呆れられてしまったかもしれない。


「す、すいません、私……」


「……ふ、は、ははっ」


「へっ」


 暫く口を半開きにしていたレクス先輩は、やがて耐えきれないというように肩を揺らし、それからとうとう吹き出すと目元をくしゃくしゃにして笑い始めた。

 何が彼の琴線に触れたのか分からず目を瞬く私に、まだ笑いの発作が収まらないらしい彼が待って、と手で示してくる。戸惑いつつも言われたとおりに待っていれば、やがてはー、と息をついた彼が目尻を拭った。


「はは、いや、ごめんごめん。子猫に目キラキラさせて、頬真っ赤にして慌てるシェルちゃんがあんまり可愛くって」


 思いもしないことを言われて、ぶわ、と顔に熱が集まるのを感じた私は視線を彷徨わせた。褒めているというよりは揶揄うようなそれに、少しくらい怒ってもいいような気がするのに、こんな赤らんだ顔じゃとてもそんなことできそうにない。


 反応に困って口ごもれば、私の膝で丸まっていた子猫が急かすようににゃあ、と高く鳴いて、それから抗議するようにでろんと身体を伸ばした。


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