45.いかないで
長い、長い夢を、見ていたような気がする。ずっと浸っていたくなってしまうような、いっそ目覚めなくてもいいと願うような、幸福な夢を。
だけど必死に私の名前を呼ぶ声が、遠くからずっと頭の奥で響いていて、そのまま意識が沈んでいくことを許してくれなかったから。
お願い、起きて、と。涙混じりの震える声に引き上げられるように、私は酷く重たい瞼を、緩慢に持ち上げた。無機質な白い天井がまず目に入って、痛いほどに眩しく感じる光に思わず強く目を瞑る。
けれどすぐ傍で、鋭く息を呑む音と共に、……頬に、ぱたりと温かい雫が落ちてきたから、私はもう一度、ゆっくりと目を開いた。
ぼんやりと、まだ霞んだ視界に真っ先に映ったのは、……軽やかな音を立てて揺れる白いピアスと、これ以上ないくらいに美しい、ターコイズブルーで。それが溶け落ちてしまったように、そこから絶えず降り注ぐ雨が、私の頬に落ちては伝っていく。
「……シェル、ちゃん……っ!!」
「……レクス、せん、ぱい……?」
応えた声は、からからに乾いていて、喉の奥が張り付くような感覚に空咳が漏れた。それでもその小さく掠れた声は、ちゃんと彼に届いたらしい。幾度か瞬けば鮮明になっていく視界の中、彼が吐く息を震わせて、くしゃりと顔を歪めた。
無機質な白い天井や彼の背後の部屋の様子に、自分が医務室のベッドに寝かされているのだということにだけぼんやりと理解が及んで、けれどまだ半分夢の中にいるような朦朧とした意識では、それ以上のことは考えられそうになくて。
「よ、良かっ……、ほん、とに、……っも、もう、起きないんじゃないかって……っ」
ただ、レクス先輩がそこにいて、……赤茶の柔らかな髪を、ぐしゃぐしゃに乱しながら。ターコイズブルーの瞳の下に酷い隈を携えながら、見たことのない顔で涙を零しているということだけが、今の私の世界の全てだった。
あの、誰にも弱みを見せることを良しとしない彼が、誰かの前でこんな表情をするなんて、想像したこともなかったのに。
「……せん、ぱ、い」
のろのろとした動作で重い腕を持ち上げれば、それを震える手で取った彼に、縋り付くように、崩れ落ちるように抱きしめられて、その温もりと甘い香りに、訳も分からず鼓動が逸った。
けれどそれよりもずっと、まるで在るべき場所に帰ってきたような、安心感を覚えて。……こんな風に彼に抱きしめられるのは初めてのはずなのに、どうしてそんなことを思ってしまうんだろう。
何も分からなくて、だから心の赴くまま彼の震える背に腕を回せば、レクス先輩は僅かに肩を跳ねさせて、それから私を抱きしめる力が、より強まって。
どくどくと並び立った鼓動に耳を澄ましていれば、まだぼんやりとしていた意識が、少しだけ鮮明になってくる。……そうだ、私は。
「望んだ夢が見られる錬金薬」を作ったのは、ただ、臆病な恋の慰めのつもりだった。大会で目覚ましい成果をあげて、一躍大人気になってしまったレクス先輩が、なんだかずっと遠く感じて、……寂しくて。
とても忙しそうな彼は裏庭に顔を出すことも減って、あまり話す機会もなくなってしまったから、代わる代わる流れる華やかな噂の一体どれが本当なのかも分からなくて、ずっと気が気じゃなかった。
名前が上がる女性たちは誰も彼も、私なんかよりずっと彼にお似合いだと思えてしまう人ばかりで、そんな風に卑下してしまう自分が、あの人の波に割り入る勇気のない自分が、どんどん嫌になっていって。……だから。
一度だけ、幸せな夢を見て、勇気を貰おうと思った。レクス先輩と恋人になって、ちょっとだけ甘い言葉を囁かれるような、そんな夢を。そして目が覚めたなら、それが現実になるように、また頑張ってみようって。
目が覚める条件は、夢の中のレクス先輩から愛を告げられることで、……恋人同士という設定なのだから、きっとすぐに達成できるはずだと、思っていたのに。
作る際に大した魔力を込めた覚えもないのに、私はずっと、眠っていたのだろうか。長い、長い夢を見ていた気がするのに、その全てが靄がかったように遠かった。
思い出そうと記憶を探ってみても、つきりつきりと刺すような頭の痛みと、……胸の奥から迫り上がるような、狂おしいほどの切なさを覚えるばかりで、何一つ確かなものは掴めない。
今更失敗するような錬金薬じゃなかったはずなのに、どうして。
彼の腕の中が酷く安心できるのを良いことにぼんやりと考え込んでいたら、ふと馴染んだ重みが頭にないことに気がついて、私は彼の肩越しにゆっくりと視線を巡らせた。目当てのものはすぐに見つかって、ベッドの傍の机の上、丁寧に布が敷かれて置いてある雫型の魔石に目が止まる。
酷く重い身体を、それでもどうにか起こそうと身を捩れば、私を抱きしめていたレクス先輩が慌てたように腕を離して、それから優しく背を支えてくれた。
「シェルちゃん? 無理しないで、まだ起きない方が、」
「……髪飾り、ほしくて」
縺れそうになる舌を必死で動かして、酷く重く感じる腕を精一杯伸ばせば、レクス先輩は戸惑ったような表情を浮かべた。それでも私が求めているものは理解してくれたらしく、これ? と言いながら魔石を丁寧な仕草で手に取って、そっと手渡してくれる。
両手で受け取ったそれはいつもよりもずっと重く感じて、思わずその輝きをじっと見つめてしまった。
雫を模った美しい魔石が、掌の中で揺れる。ずっと、夢として、恋として、私の道標だった、とても大切な思い出の魔石。……だけど本当に、それだけだっただろうか。
これを手に取った誰かの寂しげな笑みが一瞬だけ頭を過って、ふと息が詰まった。何も思い出せないくせに、悔しさのような、もどかしさのような何かが湧き上がる。
……その誰かに、まだ伝えたいことがあったのだと、どうしてこんなにも思ってしまうのだろう。その伝えたかったことすらも、記憶のどこをひっくり返したって見つかりはしないのに。
ぼんやりと手の中の魔石に心を囚われている私を見て、レクス先輩は表情を曇らせた。湧き上がる焦燥を滲ませて唇を噛み、けれどそうと悟らせないよう、自分を落ち着かせるようにして少しだけ息を吐く。
それから安心させるような笑みを繕うと、屈んだ彼は私と目線を合わせて、優しい声で言い含めた。
「……俺のことは、分かるんだよね? 急いで誰か呼んでくるから、横になって待ってて。ご両親も、すぐ駆けつけられるところまでいらしてるんだ」
「え、」
それに反応して顔を上げた私に、彼は少しだけ安心したようにその瞳を緩めた。
並の病院より錬金術の専門家が揃っている学園で経過観察をしていたこと、それでもこれ以上目が覚めないようなら大きい魔法病院に移る手筈になっていたことを、簡単に説明してくれる。
その関係で両親が学園の近くに泊まっていて、何度も面倒な手続きを乗り越えて面会に来ていて、ずっと、私のことをとても心配してくれているということも。
息を詰め、言葉もなく瞳を揺らした私に、きっと目が覚めたと知ったらとてもお喜びになるよ、と締め括って微笑んだ彼は、そっと立ち上がった。
そのまま立ち去ってしまうのかと思ったけれど、彼はこちらを見下ろして、まるで私が本当に生きていることを、目覚めたことを確かめるようにゆっくりと目を細める。
溢れ出した感情を抑えるように震える息を吐き出して、そのターコイズブルーが、また滲んで。それを隠すように彼はぱっと俯くと、すぐ戻るね、と微かに震える声で呟いて、こちらに背を向けた。
……足早に遠ざかっていく、その姿が────誰かの、寂しげな笑みと、重なって。
「……ま、って。待って、レクス先輩、」
掠れた、小さな声は、彼には届かなくて。でも、どうしても……今、引き留めないと、いけないと思ったから。
彼が扉の外に足を踏み出そうとした瞬間、喉が痛むほどに、叫ぶように、泣きそうな声を張り上げた。
……そうだ、誰かじゃない。あの時、彼に、私は伝えたかった。
「っいかないで……!!」
彼が弾かれたように振り返って、そのターコイズブルーの瞳が見開かれる。私が余程酷い顔をしていたのか、彼は直ぐに身を翻し、焦ったようにたった数歩で戻ってきてくれた。……レクス先輩が、目の前にいる。私の声を聞いて、帰ってきてくれた。
ただそれだけのことで、自分でも不思議になるくらいの安堵を覚えて瞳を滲ませた私に、そんなことを知るわけもない彼は見る間に青ざめた。
「っシェルちゃん、どうしたの? どこか痛む? それとも気分が悪くなった?」
私よりも余程具合を心配されてしまいそうな顔色で、焦燥を滲ませながら言い募る彼に、胸が酷く締め付けられる。引き留めた癖に上手く言葉が見つからなくて、視線を彷徨わせる私に眉を下げると、ちょっとごめんね、と言いながら、彼は私の手首や額に優しく触れた。
……それが、とても心地よくて。その温もりがあまりに恋しくて、彼の沢山剣だこのある大きい手に擦り寄れば、驚いたようにその手が止まった。
きっと、すぐに然るべき検査を受けて、その後は両親や、沢山色んな人に謝らないといけなくて、……まず誰よりも、目の前の彼にそうするべきだということは、まだぼんやりとした頭でも分かっていた。
だけど見開かれたターコイズブルーの瞳に、これ以上ないくらいに単純な想いが湧き上がって、どうしても、抑えきれないほどのそれを今、彼に伝えたかったから。
……普段だったらきっと、少し大袈裟で恥ずかしくて、とても口にできないはずの言葉。それなのに、不思議なくらい自然に、それは口から滑り落ちた。
──まるで、どこかで何度も、練習でもしていたみたいに。
「レクス先輩。……私、あなたのこと、……誰よりも、──」
……その、たったの五文字を、受け取った彼が。
信じられないというように、ゆっくりと目を見開いて、ぶわりと鮮やかに、その頬が色付いて。
……それから、まるで初めて何か欲しいものをプレゼントされたような、今にも泣いてしまいそうな子供みたいな表情を浮かべたことを、私はきっと、一生忘れることはないのだろうと思った。
はく、と、その唇が戦慄いて、きっと何か、彼は多くを言い募ろうとして。けれど、言葉よりも先に、揺れて滲んだターコイズブルーが溶け落ちたから、レクス先輩は慌てたようにそれをローブで乱雑に拭った。
だけど、拭っても、拭っても次々と降る雨のようなそれに、とうとう諦めたように、くしゃりとした笑みが浮かぶ。
それを瞬きも忘れて見つめていれば、彼に釣られてしまったように、私の頬を涙が一粒転がり落ちた。それが手の中の魔石に跳ねた瞬間、……ふわり、と、ほんの微かに青い熱が放たれ、私に優しい温もりを分け与えて去っていく。
押し殺したように震える彼の声と、……遠い、きっともう交わることはない誰かの、優しい声が重なった。
「『……ありがとう』」
──俺も君を、と続いたレクス先輩の声に、或いは心を通じ合わせた二人に、祝福を送るように。
……甘い香りと共に、ひらりと、雪と見紛うような白い花弁がカーテンの隙間からひとひら舞い込んで、喜びを示すようにその身を宙で踊らせて落ちていった。