42.向かい合う
ずっと、誰かに手を引かれているような感覚がしていた。
少しでも立ち止まろうとすれば強まるそれが、まるで縋るようだったから、その温もりが、とても大切なもののような気がしたから。
だから急かすようなそれに抗うことなく、必死で着いて走った。……まるで、誰かの背を必死になって追いかけていた、子供の頃に戻ったような気分だった。
──柔らかな風が頬を撫でる感覚がして、ゆっくりと、意識が浮上した。薄らと瞼を持ち上げたはいいものの、視界に差し込む陽の光があまりに目に痛くて、思わず開けた先からきつく目を瞑る。
ちらりと見えた限りでは、医務室だろうか、清潔感ばかりを押し出した無機質な白い部屋はあまり馴染みのない場所だった。
身体がいつになく重く感じて、喉の奥が張り付いているようで不快感が湧き上がる。
それでも足掻くように指先を動かそうとして、しかし思うようにいかずに焦りが募った。手が使えないことがどんな結果に行き着くのか、理性よりも先に本能が警鐘を鳴らしていた。
けれど、手が動かないのは動かせないからではなく、誰かがきつく握りしめていたからだと気がついたのは、派手に椅子が倒れる音がしてからだ。
流石に目を見開けば、まだぼんやりと霞んだ視界の中でも、その頬を滑り落ちていく大粒の涙が、シーツに跳ねて消えていくのが見えた。
「レクス、先輩……っ!!」
「……シェル、ちゃん」
応える声は、どうしようもなく震え、掠れて。……宝石みたいな綺麗な緑の瞳を滲ませて、酷い隈を目の下に湛えながら、医務室のベッドに寝かされたレクスの手をずっと、ずっときつく握っていたシェルタは大粒の涙を零し嗚咽を漏らした。
ぐしゃぐしゃに乱れた金色の髪と、それを彩る見慣れた雫型の魔石を、開いた窓から射し込む陽光がきらきらと照らして、酷く目に眩しく映る。
「め、目が、目が覚めたんですね……よか、よかった、私……っ!!」
その、姿が。……酷く幸福な夢の中、映像室の鏡で見たものと重なって、どこかまだぼんやりとしていたレクスの意識が急速に像を結んだ。──ああそうか、夢から、覚めたのか。
あの時見たものはてっきり、きっとこんな風に悲しませているから、もう終わりにしないといけないという自責の念が生み出した虚像だとばかり思っていたけれど。ずっと寝たきりのレクスの傍で彼女がこうやって泣いていたのだとしたら、あながち幻ではなかったのかもしれない。
意識がはっきりとすれば案外身体も動かせるもので、ベッドに肘を着けば簡単に上半身が持ち上がった。着なれない病衣は少し動きづらいけれど、それをそう不快に思わない程度には身体の自由も戻りつつある。
「れ、レクス先輩! 無理しないで寝ていてください、すぐに誰か……先生やお兄さんを呼んできますからっ」
「……んーん、大丈夫。起きれるよ」
声色から頑なな意思を感じ取ったのか、止めるべきか迷っていたシェルタは結局介助することを選んだらしい。躊躇いがちに支えてくれる細く白い腕が、夢の中のものと同じ温もりを伝えてきて酷く胸が騒いだ。
ふと、普段動く時に耳元で鳴る軽やかな音がしないことに気がついて視線を巡らせれば、ベッドの直ぐ横の机、丁寧に布が敷かれて置いてあるのが見えて、思わず手を伸ばす。
抗うことなく手の中に収まったピアスが模るスノウモルに、どうしたって頭に浮かぶのは、レクスに沢山愛をくれた、花弁の雨の向こうで泣きじゃくっていた彼女のことだ。……自分なりに大切にしていたつもりだったけれど、結局、泣かせてばかりだった。夢の中でも、今も。
微かに息を吐いて顔を上げれば、必死になって止まらない涙を腕で拭う、髪はぐちゃぐちゃで目は真っ赤の、確かに現実を生きるシェルタがそこにいる。そう思った時、抗えないほどに胸に込み上げてきた何かを、誤魔化すようにレクスは無理に口角を上げて軽口を叩いた。
「……シェルちゃん、そんなに心配してくれたんだ?」
「な、何言って、……当たり前じゃないですか! 何日目覚めなかったと思って……っ錬金薬の失敗としか教えてもらえなくて、酷い事例だって、いっぱい知ってるのに、……い、生きた心地、しなかったんですから……っ!! に、苦手だって言ってたのに、どうして一人で作るなんてこと……っ」
荒く呼吸をしながら、必死になってそう言い募るシェルタの頬に止めどなく滑り落ちる涙に、触れたいと心から思う。
少なくとも夢の中では、レクスはそうすることができた。泣かせているのも自分だったから酷い話だと思うけれど、泣き止ませてあげることができなくても、涙を拭って抱きしめて、せめてもの慰めに温もりを分かち合っていた。……でも、今は。
微かに浮かせかけた腕を、力なく下ろす。自分がどんな表情を浮かべているかなんて分からないけれど、少なくともシェルタに余計な心配を掛けるには十分なものだったらしい。眉を下げたシェルタは、慌てたようにしゃんと背を伸ばすと身を翻した。
「と、とにかく、すぐに医務室の先生か誰かを」
「っ待って、シェルタ」
「……え?」
思わず出た呼びかけに、シェルタが咄嗟に足を止め、怪訝そうな表情で振り向いたのを見て、我に返った。はく、と唇を戦慄かせて、思わず瞳を揺らして。それから自嘲の笑みが漏れるのに、どうしてかピアスを力なく握り締めた手が、震える。
情けなくて、とても見せられたものじゃないのに、自分の意思では止められそうになかった。
……そうだ、そうだった。現実で、「シェルタ」と呼びかけたことなんて、レクスには一度もない。でもいつか、そう呼べる日が来たらと、────……そう呼んで、嬉しそうに笑ってくれる日が来たのならと、少しだけ夢見ていた。
「……シェルちゃん、心配掛けてごめん。でも、本当に少しでいいから……君と今、話がしたい。お願いだから」
戸惑ったような表情を浮かべながらも、結局はレクスの真剣な声に応えて居住まいを正したシェルタに、ほんの僅かに、震える息を吐いて。
それから込み上げてきたものを全部、全部飲み込むと、レクスはいつもの明るく軽薄な笑みを浮かべようとした。もう何年貼り付けているか分からない、とっくに自分の一部になったもののはずだったのに、どうしてか上手く繕えない。
何度やっても上手くできなくて、だから結局レクスはただ目を伏せて、力無く口の端を歪ませると、掠れた声でその言葉を口にした。
「……付き合うことになったんでしょ。兄様と」
「……え、」
シェルタが、ゆっくりと目を見開く。咄嗟に目尻に淡く散った朱色と、一拍置いて付け足されたどうしてそれを、という慌てたような声に、レクスは目を伏せたままに力なく笑った。
……大会で優勝した後、やたらと人が寄ってくるようになって、家に命じられた人脈確保以上に押し寄せるそれは、正直疲れるもので。下手に無下にもできないそれがやっと落ち着いたから、久しぶりに、シェルタとゆっくり話したいと思った。……シェルタの応援のお陰で、優勝できたのだと直接伝えたくて。
遠目に見えたスノウモルの大木を見上げるその姿にらしくなく浮かれて、驚かせようと気配を殺して近付くようなことをしたのが悪かったのだろう。
『……猫ちゃん、聞いてくれる? まだ誰にも言ってないから、内緒にしてね。──……実は、付き合うことになったんだ。……その、ラン先輩と』
──やっぱり最初にレクス先輩に伝えようと思うけど、祝福してもらえるかな……認めて、もらえるのかな。大切なラン兄様はお前になんかやらない! なんて言われちゃったらどうしようね、と不安を滲ませて笑う姿が、声が、今も頭に焼き付いている。
スノウモルの大木の上で寝そべり彼女の独白を聞いていた、黄金の瞳の小さな白猫は、あの時からあまりに苦い思い出の象徴となってしまった。……被害妄想だと分かっていても、あの時ぶつかった視線に、哀れみが込められていたような気がしてならなかったから。
記憶の中からですら、こちらの全てを見透かしてしまいそうな子猫の視線を振り払うように軽く頭を振って、決して隠していたわけじゃ、と慌てたように言い訳を並べ立てているシェルタに向き直る。視線がかち合えば、そのあまりに真剣な表情に驚いたかのように彼女が唇を引き結んだ。




