41.愛してる
彼が、少しだけ目を見開いて、涙を拭っていた指先が止まる。その美しいターコイズブルーの瞳を一心に見つめて、私はしゃくりあげながら、駄々をこねるように訴えた。
今の私をあの時の女性が見たのなら、成長したのに何も変わっていないと呆れてしまうかもしれない。……でも、でも、どうしても。
「ずっと、ずっと、このまま、……レクスせんぱいと、いたい。……ぜんぶにせものでも、それでも、……ふたりでいれば、きっとさみしくないから、だから」
ローブをきつく握りしめて、まるで我儘を言う子供みたいに泣きじゃくる私に、彼はほんの少しだけ、迷うように瞳を揺らして。
けれど、僅かに唇を震わせて、きつく胸元を握りしめた彼は、……私の手を取ることはなく、ただくしゃりと、泣きそうな笑みを浮かべた。
「……すごく、すごく魅力的なお誘いだけど。駄目だよ、待ってる人がいるから」
彼の声は優しいのに、そこにはとても頑なな意思が籠っていて、……私なんかじゃそれは覆せないことを、よく知っていて。それでもとても受け入れることなんてできなかったから、私は顔を真っ赤にしてぼろぼろと涙を溢した。
彼が困ったように何度も拭ってくれるのに、その仕草にどうしようもない愛しさが滲んでいて、そんなの止まってくれるわけがない。
「っやだ、やだあ……っ」
「──シェルちゃん、」
「……っおねがい、いわないで、ききたく、ない、」
あんなに、彼に言って欲しかったはずの言葉で。ずっとずっと、そのたったの五文字がほしくて、努力していたはずだった。……でも、今は。
その言葉がどんな意味を持つのか、私はもう知ってしまったから。恋人同士ならきっと簡単に達成できる条件だからと、安易に決められたそれが、今では酷く残酷なものに思えた。
拒絶するように耳を塞いだ私に、彼は少しだけ震える息を吐き出すと、そっと、私のことを引き寄せた。その躊躇いがちな手つきが、恨んでしまいたくなるくらいに優しくて、だからとても、拒むことなんてできなくて。
壊れ物みたいに腕の中に閉じ込められて、八つ当たりみたいに彼の胸に額を擦り付けるのに、その温もりがどうしようもなく愛しかったから、また涙が溢れていく。
諦めたように耳を塞いでいた手を外して彼の胸に縋り付けば、彼はほんの少しだけ、私の頭に頬を擦り寄せた。
しゃらりと、彼のピアスの装飾がぶつかる軽やかな音がして、彼のものなのか、花のものなのかも分からない甘く優しい香りが、慰めるように舞い上がる。こうしていられるだけで、確かに溢れてくる想いがあって、彼に触れていられることが、幸せで。
……今なら、それだけでいいと、心から思えるのに。──彼もきっとそうだったなんて、全部、本当に今更だった。
「……自業自得だけど。でも、本当は、ずっと伝えたかった。──やっと、言える……」
万感の想いが込められたその声は震えていて、聞きたくないのに、それでも受け取らなければいけないものだと、どうしようもなく理解していたから。
だから私はただ彼の温もりに縋り付いて、きつく目を瞑った。もうどうしようもできないと分かっていても、唯一できる最後の抵抗みたいに。……それは頭痛と共に響いた声が、教えてくれたこと。
この幸せな夢から、覚める条件は、
「──愛してる、シェルタ。……さようなら」
『レクスがシェルタに、愛を告げること』
彼がその言葉を口にした瞬間に、ぶわ、と風が巻き上がって、はっと息を呑んだ瞬間にはもう、あれだけすぐ側にあったはずの彼の温もりは離れてしまっていた。
重力に逆らって、雪と見紛うような美しい白い花弁が巻き上がり、欠けることのない満月に吸い込まれるようにして天に昇っていく。それは泣いてしまうそうなほどに美しくて、それなのに酷く、切ない光景だった。
どんどん視界を遮り埋め尽くしていく花弁の向こう側で、彼が寂しげな笑みを浮かべているのが見えて、私は必死になって手を伸ばした。
何かを叫ぼうと口を開いても、もう声は出てくれなくて、盛り上がった涙が花吹雪と共に攫われていく。
──……あれだけ、私の言葉を欲しがったくせに。何度も何度も強請ったくせに、こういうときばかり何も言わせないなんて不公平だ。
やっと、聞くことができたのに。私も、まだ彼に、……伝えたいことが、あるのに。
別棟も、学園も地面も、全てが均衡を失って、ゆっくりと崩れていく。夜空に輝く星々と欠けることのない満月に、大きな亀裂が入るのが遠く見えて、ただそこに残されたスノウモルの大木だけが、まるで誰かの代わりに泣いているみたいに、尽きることなく花弁を降らせていた。
花弁の隙間から、ターコイズブルーの瞳が私を捉えて、愛しさを滲ませたそれがゆっくりと細められる。ふと彼が腕を上げて、その掌の中に、雫型の魔石が収まっているのが見えて思わず目を見開いた。
……大怪我をした彼の元を離れなければいけなかった時、せめてもと思って置いていった、私の。
視界を遮るほどに舞い踊る白い花弁の先で、彼がゆっくりと目を伏せて、まるで何かを誓うように厳かに、そっと魔石に唇を寄せた。
「─────」
彼の唇が短く何かを模って、ふわりと青い光が灯った気がしたのに、やがて花弁に遮られ、その姿さえも見えなくなる。
ただ彼が、遠く、遠く離れていくのを感じて、私にはそれが全てで。胸が張り裂けそうなくらいに痛くて仕方なくて、けれどどれほどに泣いたって、……もう、幸せな夢は終わってしまったという現実だけが、そこに横たわっていた。
何もかも、彼と過ごした日々を示す全てが、花嵐に攫われて儚く崩れていく。天へと届いた花弁に驚いたように月が落っこちてまた陽が昇り、争うようにそれを繰り返していれば、煽られたように空に割り入る亀裂が広がった。
けれど今にもそれが崩れて、空の破片が降り注ぐというその時に、……まるでそれを支えるかのように、どれほどに見上げてもその全貌を把握できないほどに大きな、紫の光を帯びた精緻な魔法陣が空一杯に広がって、どこか遠くから、早く、という聞き覚えのある声が響いた気がした。……そしてそれに応えるような、小さな猫の鳴き声も。
そこから、何がどうなったのか、私には分からない。目の前の景色が目まぐるしく入れ替わって、朝も晩も、過去も未来もそこにはあって、全てがごちゃまぜになってやがて収束して。
音の全てが遠くへ消え去って、それを追いかけるように、花の嵐も遠ざかっていった。
……ただ。意識が解ける直前まで、どこに行けばいいのかも分からず子供のように泣き続ける私を、小さな猫の鳴き声が、導き続けてくれていたような気がして。
泣き疲れて、地面に横たわり目を閉じれば、酷く懐かしい温かい手のひらが頭に触れる感覚が、その温度が、慰めのように疲弊した心に染み渡った。
ぽん、と労うように手を置いてから、私の髪をひと束掬って馴染んだ重みを結いつけ、その誰かの手は名残惜しむように離れていく。
──約束、守れたじゃないか、という、とても慕わしくて柔らかい声と共に。




