40.悪足掻き
数えきれないほどに辿った道のはずなのに、まるで初めて通るみたいに余所余所しい空気を醸した別棟の外壁沿いを、生い茂る草を掻き分け踏みしめながら進んでいく。その時に鼻をつく青い匂いなんてすぐに覆い尽くしてしまうほどに、甘い香りは濃くなっていて。
一歩足を踏み出すごとに、どんどん確信が強まって、鼓動が酷く速まっていく。
会いたくて、たまらなかったはずで。何に代えても生きていてほしかったはずで、……笑っていてほしかった、はずで。でも、今は、今だけは、どうか私の思い描く姿が間違っていて欲しいと願った。
決して大怪我した姿や、ましてその果ての光景を望んでいるわけじゃなくて、けれどそれなら何を望んでいるのかと聞かれても、今の私には答えられない。
けれど何を望もうと、ただこの先に真実があるだけで。そうと分かっていても悪足掻きみたいな思考が止められない私を嘲笑うように、一際甘い香りが強まって、ひらり、と本物の雪と見紛うような美しい花弁が、ひとひら目の前を舞い踊り落ちていった。
思わず息を呑み、魅せられたようにその花弁の行く末を視線で辿れば、それは地面へと降り積もる前に空に溶けて消えてしまう。
ひらり、ひらひらと、次から次へと降り始めたそれの出所なんて、ひとつしか私は知らない。足を止めてしまいたいのに、身体はまるで言うことを聞いてくれなかった。白い壁に遮られていた視界が開けていって、そこからまた、新しい白い花弁が舞い込んでは消えていく。
──いつだって彼を思う度、彼と過ごした時間を思い返す度、きっと生涯大切に、心の中の宝箱に仕舞っておくのだろうと思えるような、きらきらした愛しい光景がいくつも浮かんで、それはずっと私の心のよすがだった。
彼の為にお洒落をしていったとき、本当に嬉しそうにはしゃいでいた声、耳まで赤く染めて照れていた表情。
幼い頃の悩んでいた私を抱きしめたいと言ってくれたこと、私が声を込めた魔石を宝物だと握りしめてくれたこと。
膝枕をして、優しい声で寝かしつけてくれたこと。……私の魔法使いになりたいと、言ってくれたこと。
……それなのに。
「……シェルちゃん」
その全てが、独りよがりな夢だったなんて、そんなの。
「……レクス、せん、ぱい」
私が裏庭に足を踏み入れたとき、彼はいつかのように、スノウモルの大木を見上げて佇んでいた。しゃらりと見慣れたピアスを揺らしながら、私を振り返ったその表情は寂しげで、本当に初めて会った時の再現みたいで。
……けれどあの時と違うのは、くらくらするほどの甘い香りと、本物の雪のように幾度もその身を楽しげに宙で踊らせては、地面に落ちる前に溶けるように消えていく、何度も視界を遮る美しい白い花弁。
あの冒険譚の最後みたいに、視界を覆い尽くすほど咲き乱れたスノウモルの木の下で。助からないと思うほどの酷い怪我が嘘のように真っ直ぐ立っているレクス先輩は、花弁の雨の向こう側から、私の顔を見て少しだけ困ったような、柔らかい笑みを浮かべた。
「────……」
……生きていてくれて、本当に良かったって。怪我は大丈夫ですかって、何もできなくてごめんなさいって、伝えないといけないのに。どうしてか唇が戦慄いて、何一つ言葉にはなってくれない。
彼に駆け寄って、泣きながら力の限り抱き締めたいのに、足はほんの少しも動いてくれなかった。
「……悪足掻きして戦ってみたけど、やっぱりダメだったね。このままじゃいけない、って思いが、それだけ強かったってことなのかな」
彼は静かにそう呟いて、その掌を満開のスノウモルの木の幹へと当てた。魔物の鉤爪の痕なんてどこにも見当たらないそれは、ただ優しくて甘い香りを振り撒きながら、この上なく美しい白い花弁の雨を降らせている。
……その、花の香も。物語の一幕のように美しい光景も、耳に心地いい、彼の声だって。確かに目の前にあるのに、……手を伸ばせば、触れられるはずなのに。
──それなのに、今どれほど彼を抱き締めたとしても、共に歩むことはできないのだと、どこかですとんと理解してしまった。
ほろ、とまた涙が頬を滑り落ちて、視界がぼんやりと歪むのに、瞬きすらもできない。……目を開いた時には、彼が目の前から消えてしまっているんじゃないかと思うと、怖くて仕方なかった。
感情が、言葉が、喉でつかえて、苦しくて。はくりと唇を戦慄かせれば、それを見ていたレクス先輩は、ゆっくりと首を横に振った。
「……なんにも、言わなくていいよ。だってシェルちゃんは、今までたくさん言葉をくれたでしょ。だからさ、今度は、俺の番。……ずっと、ちゃんと応えられなくてごめん。向き合うことから逃げて、泣かせて、ごめんね」
酷く優しい、包み込むような響きを帯びているのに、その声には濃い終わりの色が乗っていて、……言わないで、と叫びたいのに、どうしてだかもう、喉からは掠れた音すらも出てはくれない。
花の海に溺れてしまったみたいに、危うい呼吸だけを繰り返して、肺までが甘い香に満たされていく。彼はただ、穏やかな日々を思い返すように、柔らかく目を細めた。
「……シェルちゃんが、顔を真っ赤にしてさ、一生懸命俺に伝えてくれる言葉のひとつひとつが、……隣に居られる一分一秒が、本当に、……頭おかしくなりそうなくらい、嬉しかった。君の綺麗な、宝石みたいな色の目が俺を映して、ふわって笑って名前を呼んでくれるだけで、……どれほど、」
声が、低く掠れて。つかえた言葉の先を探すようにゆっくりと目を伏せて、彼はそっと、震える息を吐き出した。
「……俺の、こと。シェルちゃんが、魔法使いだって言ってくれて、……本当に、物語の魔法使いみたいに君を幸せにできたら、どんなに良いかって何度も想像した。ずっと一緒にいたいって、真っ直ぐに伝えられる君が眩しくて、そんな未来も少しだけ、考えたんだ。──あの時言えなかったけど、……俺も、本当は、おんなじ風に思ってる。シェルちゃんと、ずっと、ずっと一緒にいたいよ」
まるで、血を吐くような声だった。……私は、彼が私と違う方向を見ているんだとずっと思ってた。だから、私がどれだけその手を取ろうとしたって、引いたって、彼はそこを動いてはくれないのだと。
──でも、違った。彼は、私と同じ風に思ってくれていて、同じ方向を、見てくれていて、……ただ、踏み出した先に道なんてないことを、知っていただけだった。
今なら、痛いほどに分かる。……あの時、彼がずっとこのままでいたいと望んだ気持ちが。
ひら、と吹雪のように宙を舞う花弁の一つを、彼は掌をかざしてそっと捕まえた。確かに手の中に落ちてきたはずのそれが、まるで最初からなかったみたいに溶けて消えるのをただ見つめて、微かに息を吐き出して。惜しむように握りしめたあとに、力無く腕が落ちていく。
「本当は、すぐに終わらせるべきだって、分かってたんだ、最初から。でも、全部が全部偽物だったとしても、……その場限りの、作られた想いだって、知ってても。──『シェルタの恋人のレクス』は、心の底から幸せだったんだ、怖いくらいに。……だから俺のわがままで、もう少しだけって何度も言い訳して、ずるずる引き伸ばした。終わらせたく、なくて、消したくなくて。……でも、もう」
掠れ、震えた息を吐き出して、彼がそっと目を伏せる。その言葉に続くものが、心の底から怖かった。引き留めたいのに、遮りたいのに、涙が溢れるばかりで、やっぱりどうしても声は出てくれない。
それならと足を踏み出そうとしても、縫い止められたように動くことができなくて、焦燥が胸のうちから湧き上がった。この場所に足を踏み入れた時も、身体が勝手に動くような感覚がしたけれど、これは違う。
……まるで、もっと大きい何かに押さえつけられているみたいな。
──それが、私以外の誰かの意思によるものだというのなら……この場には、私と、もう一人しかいない。はっと目を見開けば、彼はまるで正解を告げるように、痛みを孕んだ瞳を細めた。
動くことができない私に代わるように、舞い踊る白い花弁を掻き分けた彼がゆっくりと足を踏み出して、靴音が緩慢に終わりまでの距離を数える。やがて私のすぐ目の前に立った彼を涙で滲んだ視界越しに見上げていれば、苦笑を浮かべた彼が、止めどなく私の頬を滑るそれを指先で優しく拭った。
「……結局泣かせちゃったけど……でも、自分勝手でも、俺なりにさ。──君を大切にできて、嬉しかったよ」
その声が、指先が、……あんまりにも、温かくて。
彼の温度を、確かに感じるのに、彼の甘い香りも、優しい笑みも、間違いなくそこにあるのに。彼がずっと、ずっと、本当に私を大切にしてくれていたことを思い返して、喉の奥に熱いものが蟠るような感覚がした。
最初から、彼が全部悟っていたんだとしたら、口にすることを許されない想いを抱えながら、……ずっと、どんな、気持ちで。
彼が私の想いを受け取って、本当に嬉しそうに笑っていた場面を一つ一つ思い返して、二人で映像魔石を観た時、その言葉を飲み込んだ彼の深い悲哀に満ちた表情が、浮かんで。
どうしようもなく胸の底から溢れた想いに、何かに押し込まれるような感覚を振り払って、漸くぽつりと、酷く掠れた声が漏れた。
「……やだ、終わらせたく、ない、」




