39.一度だけ
痛い。頭が、割れるように痛くて、涙が滲んだ。もうどこをどう走っているのかさえ分からないけれど、立ち止まっても、走っても、耳を塞いでも。ずっと酷い頭の痛みが着いて回って、遠くから何度でも、ノイズがかったような、酷く聞き覚えのある声が響いた。
……そうだ、聞き覚えがあるなんて当たり前だった。だって、これは、この声は。
『……一度だけで、いいから』
「……っいや、やめて……っ!!」
きつく目を瞑れば、見覚えがないはずの光景が、まるで映像魔石のように鮮明に頭に浮かんだ。
──レクス先輩が、華やかで美しい女性たちに囲まれて、親しげに話しかけられて明るく笑って応えている。……いや、そうだ、これは大会に優勝して、彼が大人気になってしまった時の。
まだ私とレクス先輩は付き合っていなかったから、色んな人と噂が流れる彼を見てやきもきして、……でも、それは全部杞憂に終わった、はずで。
……本当、に?
彼はどうしてか分からないけれど、私を選んでくれて、お付き合いが始まって、もうそれなりになる。……間違いないはずなのに、その始まりが分からないことに気がついて、ぞわりと肌が粟立った。
いつから付き合っていて、どれくらい付き合っていて、どちらから告白したのか。……そんな、覚えていて当たり前の大切なことが、どうしてか何一つ思い出せない。
「……なん、で、」
酷く鈍い思考に割り込むように、馴染んだ声が、弾むような響きで耳の奥にこだました。
『実は、付き合うことになったんだ』
……これは、この声は、記憶は、……誰、の。
呆然としている間に、また、目に映る情景が入れ替わる。その場所には、酷く既視感があった。目の前には錬金薬の参考書が開かれていて、それが置かれている机に、そこが以前実験に失敗してしまった時の、簡易的な研究室であることに気が付く。
錬金薬の参考書が何度か捲られて、やがてあるページで、その手が止まった。そこに、書かれたレシピは──……
『……一度だけで、いいから……せめて、少しの間だけでも、幸せな夢が見たい』
悲痛な声と共に、ぱた、と、雫がページに落ちて、その文字が僅かに滲んだ。それを拭う仕草を見つめながら、いつかに映像室の鏡で見た自分の姿が、ぼんやりと思い浮かぶ。
……あの時、虚像の私はレクス先輩のことを呼んで、涙を零していた。その理由が、今、目の前で輪郭を持とうとしている。
『大丈夫、ほんの少しだけ。“恋人同士”なんだから、きっとすぐに目が覚めるはず ……だって、終わらせる条件は──』
雫を拭っていた指先が離れて、僅かに滲んだ文字が、真実を突きつけるように露わになった。
『望んだ夢が見られる錬金薬』
「……わた、し、は……」
何も、見たくない。……気がつきたくない。どうして月が欠けないのか、どうして始まりが思い出せないのか、──どうしてレクス先輩がずっと、頑なにその五文字をくれなかったのかなんて、何一つ。
ぼろりとまた零れ落ちた涙を、置き去りにするように私は駆け出した。がむしゃらに、あてなんてなく走っていたつもりだったけれど、無意識に足を向けていた方向がどこに続いているのか、自覚してしまえば一層心が逸って、廊下を駆ける足が速まっていく。
……彼に、レクス先輩に、会いたい。大丈夫だよって、何も心配なんていらないからって言って、抱きしめて欲しい。そうしたら、私も先輩の傍にいられるだけでいいって、心から伝えられるのに。
私を庇ってあんなに酷い怪我をして、今も命だって危ういはずの彼に対して、思っていいことじゃない。分かってる。
それでもそんな風に考えてしまうのはきっと、もう目を逸らし続けることのできないものが、すぐ足元まで迫ってきているからだ。
「……うそ、だ……っ……」
掠れた声で呟けば、それに応えるようにがさ、とローブのポケットから紙が擦れるような音が響いて、私は思わずがむしゃらに動かしていた足を止めた。
……さっきまで、どれほど走ろうとそんな不審な音はしていなかったし、ローブに何か入れていた覚えもない。震える手でポケットに手を入れると、指先に触れたものを私は恐々引き出した。
「……、これ、」
廊下の窓から差し込む月明かりに、ぼんやりと青白く照らされたそれはくしゃくしゃに丸められた紙で、不思議とどこか、見覚えがあって。既視感に抗えずにゆっくりとそれを開いて、私は目を見開いた。
……それは、つい最近まで部屋に貼り出していたもので。少しだけ荒々しい文字が、一番上に意気込みを表すかのように力強く踊っていた。
『レクス先輩に、愛してるって言ってもらうために』
彼とすれ違ってしまった後に見ているのが辛くなって、確かにくしゃくしゃに丸めて部屋のゴミ箱に捨てたはずなのに。……けれど、それを疑問に思ったり、恐怖を覚える前に、ぐにゃりと目の前で紙に綴られた文字が歪んで、私はひ、と引き攣った声を上げた。
あまりに突然なことに身体が強張って、放り出すことさえできない私の目の前で、文字はまるで何かの生き物みたいに好き勝手にその身をくねらせ、寄り集まっては離れて、新たに文章を形成していく。
『目を覚ませ目を覚ませ目を覚ませ目を覚ませ目を覚ませ目を覚ませ目を覚ませ目を覚ませ目を覚ませ目を覚ませ目を覚ませ目を覚ませ目を覚ませ目を覚ませ』
「っいやぁっ!!」
漸く呪縛が解けたみたいに動き出した身体で、私は悲鳴を上げるとその紙を放り投げた。ひらりと宙を舞ったそれがどこへ飛んでいったのかすらもまともに見ないままに、私はまた弾かれたように廊下を駆け出していく。
嘘だ。嘘だ。……どうか、そう言って欲しい。だってそうじゃないと、私は。
どこをどう駆けていたのかも思い出せないのに、私は気がつけば本校舎の外へ出ていて、足を止めて顔を上げれば、すぐ目と鼻の先に月の光にぼんやりと照らし出された別棟が見えていた。
まるで目の前に急に現れたようなそれに呆然として、思わず息を止める。満月の夜の、少しも生き物の気配なんてしない冴え冴えとした空気を、私の浅い息だけが揺らしていた。
この先に向かうのを躊躇った足が、じゃり、と砂を踏みしめ一歩後退する。……全ての答えが、きっとあの場所にある。でも、まだ……まだ何も、覚悟なんて決まっていない。答え合わせなんてしたくない。
このまま逃げたところで、きっと月が欠けることはないし、明日なんて来ないのだろう。不思議とそう確信があって、それでも踏み出せないままに立ち尽くしていることしかできない。
進むことも、戻ることもできなくて、微かに震える息を吐き出したとき。……ふと、まるで慰めるような、包み込むような優しく甘い香りがふわりと漂ってきて、私は目を見開いた。
……確かに、あの思い出の木が魔物の鉤爪に切り裂かれ、倒れ伏したところを、この目で見ていたはずで──でも、私がこの花の香りを、間違えるはずない。
「っ……」
まるで私を待っているような、導くようなそれに酷く胸が締め付けられて、気がつけば足が浮いていた。どうか待って欲しいと思うのに、まだ、向き合うことなんてできないと思うのに。
そんな臆病な気持ちとは裏腹に、あれだけ走ったのにも関わらずもう疲労を覚えることもない身体が、勝手に全ての始まりの場所へと私を運んでいく。
──私の下で微かに影が揺らめいて、重たげに主の体を持ち上げていたことには、最後まで気が付かなかった。