36.剣と牙
彼の下から這い出して、けれど立ち上がることすらできないまま、私は恐慌に陥りながら動かない彼の背に取り縋った。
血に塗れた震える指先で彼の肩に触れて、けれどこんな大怪我を負っている人を揺すってはいけないことだけは頭の隅にあったから、触れるだけの指先を、それ以上どうすることもできなくて。
ただ縋るように、彼の名前を呼ぶことしかできなかった。
「な……なんで、先輩、レクス先輩、……いや、いやぁっ!! 起きて、逃げなきゃ、お願いっ……!」
魔物の斬撃に巻き込まれた魔石ランタンの灯りが明滅して、やがてふっと掻き消えた。月明かりだけの心元ない光源の下で、涎を垂らし、鋭い牙を剥き出しにして唸る魔物が、血に塗れた鉤爪を見せつけながら、まるで甚振ることを愉しむようにゆっくりとこちらに近づいてくる。
けれど、一人で逃げようなんて考えはほんの少しだって浮かばなかった。だって、彼がここにいる。まだ、息をしている。すぐに、すぐに手当をしないと。
地面に広がり、私の服にまで侵食してくるその出血量を意図的に考えないようにして、私は縺れるようにして脱いだローブで彼の傷口を必死になって押さえた。
すぐにじわりと染み出してくる赤いものと、鼻をつく鉄錆のにおいに目眩を覚えながら、喉が痛くなるくらいの絶叫を上げる。
「ッ誰か! 誰か!! 先生!! 魔物が……助けて、助けてくださいっ……!!」
すぐに治療魔法を使えば、きっと彼は助かる。それだけが一縷の望みだった。けれど何度叫んでも声が虚しく木霊するだけで、何も応えはないことに、絶望が胸の底から溢れ出してくる。
──でも、本当はどちらにしろ、誰かが音や声を聞いて駆けつけてくれたとして、きっとこの魔物の動きの方が速いことは心のどこかで分かっていた。
……だけど、だって、信じたくない。どうして。学園内に急に魔物が現れるなんて、あり得ないはずなのに。全部おかしな幻覚だと思いたいのに、手に伝わるぬるい温度が、眩暈がするほど生々しかった。
私が今日ここに来なければ、彼と話すために留まらなければ、こんなことにはならなかったんだろうか。私に、あの冒険譚の錬金術師みたいな力があったら、彼を助けられたんだろうか。
──こんなことなら、これ以上なんて贅沢なこと、望むんじゃなかった。彼がただそこにいて、笑顔でいてくれるくらい、尊いことなんてなかったのに。……一方的だってなんだって、隣に居られるだけで、愛してると伝えられるだけのことで、確かに幸せだったのに。
その呼気さえ感じるほど眼前に迫ってきた魔物の口から涎が滴り落ち、ゆっくりと開かれたそれから鋭い牙が覗く様を見て、きっとそう遠くはない未来に訪れるものを思い描いた私は嗚咽を漏らした。
せめて、と彼を庇うように覆い被さって、きつくその身体を抱きしめる。……分かってる、きっと、私を庇ってくれた彼は、こんなこと望んでない。でも、一人奇跡的に逃げおおせたとして、その先の未来でどちらにしろ、私はきっとまともに生きていけない。
家族を、きっととても泣かせてしまう。過去に私を救ってくれたあの強く美しい女性を思い浮かべて、いい女になるって約束、守れなかった、と呆然と心のうちで呟いた。来世もきっと、私は錬金術を好きになるだろう。けれど全てが道半ばで、当たり前に未練しかない。
彼のまだ温かい血に塗れた震える手で、きつく、きつく恋しい人を抱きしめる。今の彼に、私の声が届いているかは分からない。……それでも、言わずにはいられない。
彼の考えは分からず終いだったけれど、何度もその言葉を私に望んでくれたのは、きっと、彼も私と同じ気持ちだったからだと信じていたかった。
「……ッ……ごめんなさい、レクス先輩。────、あいしてる」
魔物の唸り声が劈いて、私は頬を滑り落ちるものを感じながら、愛しい温もりに縋り付いてぎゅうと目を瞑った。……何にも上手にできなかったけれど、彼と隣歩いた幸福な日々だけを、心に抱いて。
「……シェルちゃんに、触んないで」
──ぶわ、と舞い上がった風と共に、閉じた瞼の裏に焼きついた青い光が、私は最初、何だか分からなかった。
死後の世界とは、もしかしたらこんなに美しい色をしているのだろうかと、ぼんやりと考えるばかりで。……まるで、彼の瞳の色みたいな。
けれどその愛しい声が耳に入って、私は弾かれたように顔を上げた。縋るように、祈るように視線を巡らせて、真っ先に視界に映ったものに、思わず息が止まる。あっと言う間に再び滲んだ視界でも、その傷ついた背中はいつもよりもずっと、大きく見えた。
「……あー……なんだっけ。……本にはなかったけどさ、かっこよかったよね、あのシーン」
血は未だに止まっていないし、息も切れ切れなのに、彼の声は明瞭でよく響いた。きっと真っ直ぐに立っているのもやっとの筈なのに、その佇まいはそんなことを少しも感じさせない。
彼の背の向こう側で、その鼻先から血を流し、怯んだように後退する魔物の姿が見えた。
「……ああ、そうだ。──『今この瞬間が、我々の人生で、最も力を発揮できる時だ。……さあ、何をしている、立て』」
こんな時に考えることじゃないと分かっているのに、ため息が出るほどに美しい、淡く青い光を帯びたその剣の切先を魔物に突きつける彼の姿は本当に──……何かの物語の、一幕みたいで。
彼はほんの一瞬こちらを振り向いて、呆然と彼を見上げるばかりの私に、柔らかな笑みを向けた。
「……死んでも、君を守るよ。シェルタ」
「……レク、ス、せん、…っ」
ぼろぼろと涙が溢れて、まともに声にもならないそれを遮るように、巨大な魔物が咆哮を上げた。鼻の上にしわを寄せ、牙を剥き出しにしながら目にも止まらぬ速さで飛びかかってくる。
私は思わず悲鳴を上げて、逃げてと叫ぼうとしたけれど、彼が何でもないように剣を振る方が余程早かった。
「遅いよ」
実際の剣の動きなんて何も見えなかったのに、青い光の残影だけが描かれて、次の瞬間には魔物の前足が切り離されていた。宙を舞うそれから一拍置いて、魔物が痛みと怒りにに大きな咆哮を上げる。
それがびりびりと空気を揺らすけれど、私はその全てを呆然と見つめていることしかできなかった。
彼の剣の腕は勿論私だって知るところで、けれど本当の意味では全く分かっていなかったのだと思い知る。酷い怪我を負っているはずなのに、こんな大きな魔物を相手取るのだって、きっと初めてのはずなのに──明らかに、彼は魔物を圧倒していた。
「……今のうちに逃げて、って言いたいけど、ちょっと難しいか。動かないでね、シェルちゃん」
彼はすっかり足が萎えて動くことのできない私に、安心させるように優しくそう言うと、軽い音を立てて地面を蹴った。瞬きをした次の瞬間には、彼は後退していた魔物のすぐ側にいて、思わず息を呑む。
振り下ろされた剣はとても軽やかで、魔物の攻撃をいなすその動きはまるで重力を感じさせないのに、彼が腕を振る度、青い軌跡を描いて魔物に深い傷が刻まれていくのが嘘みたいだった。
未だ彼の血が滴る、すでに片方しか残っていない前足の鉤爪が、目にも止まらぬ速さで彼を切り裂こうと振り回されるのに、それは彼のローブの端を掠めるばかりで少しも打撃にはなり得ない。
軽々と猛攻を躱す彼の返り血に染まった顔が、満月の明かりに照らされて、思わず息を呑む。……瞳孔が開いている彼は、歯を曝け出して笑っていた。
彼が宙で身体を捻れば、その動きに添うようにローブが円を描いてひらりと翻る。それは何かの演舞みたいに美しいのに、そこから繰り出された不意打ちの強烈な蹴りが魔物の脳天に直撃して、ぐらりと魔物の濁った色の瞳の焦点がぶれるのが見えた。
魔物はそのまま轟音を立てて硬い地面に叩きつけられ、もうもうと砂埃が上がって彼と魔物の姿が見えなくなる。
もしかして……これで決着が着くのかもしれない、と固唾を飲んで祈るように見つめていれば、そんな淡い期待を裏切るように、砂埃の向こう側で魔物が大地を揺るがすほどの唸り声を上げ、その身を起こす輪郭が見えた。
……それがあまりに恐ろしくて、思わず短い悲鳴を上げてしまったのが良くなかったのかもしれない。
少しずつ晴れていく砂埃の向こう。……レクス先輩だけを注視していたはずのぎょろついた濁った瞳が、こちらを捉える様を見てしまった。