32.覗き見る
『あのっ、と、突然すいません。それ、捨ててしまうんですか?』
今思い返せば、入学した初日にいきなり知らない異性の先輩に話しかけるだなんて、我ながら大胆だったなと思う。けれど、まるで価値のないものを放るようなその仕草に、それなのにどこかやるせなさの滲んだ項垂れた背中に、どうしてもそうせずにはいられなかった。
驚いたように振り返った彼の、美しいターコイズブルーの瞳に一瞬だけ見えた哀切の色を、今でも鮮明に覚えている。……最もそれはすぐに、多分な警戒心を含んだ軽薄な笑みに覆い隠されてしまったけれど。
『あー……どうせ人来ないと思って油断してた。君、新入生?』
入学式の前に概ね寮の設備などの説明は受けていたし、その時に荷物の整理などもある程度は済ませていたけれど、式の後にはまた寮の全体説明がある。
それまでの微妙な隙間時間は、殆どの新入生が交友関係を広めたり、もう一度部屋を確認したりするのに使っているようだったけれど、私はそれよりも専門性の高い設備が整っているという別棟に心が惹かれてしまって。
中を見て回る時間はないけれど、外観だけぐるっと見て回って戻ることにしよう、と新生活に浮かれた足取りで歩き始めた私の真新しいローブの胸元には、酷く繊細で美しい白い花が飾られている。
勿論私だけではなくて、周囲の新入生全員の胸元に咲き誇り甘い芳香を放つそれは、けれど式の途中まではただの剥き出しの小枝だったものだ。普通こういう慶事に飾るのは胸花じゃないのかな、と首を傾げていたのは勿論私だけではなかったけれど、歴史ある名門校特有の伝統なのかもしれない、とあまり気に留めていなかった。
だから、まさか。
『では、続いて新入生歓迎の印を、……魔法科代表、ラン・ソルシエルから!』
胸に飾られていた小枝があのスノウモルの枝で、たった一人の学生が会場中のそれを咲かせてしまうだなんて、思ってもみなかった。
その名前で上がった騒めきに、気負うでもなく登壇した彼が軽く指を踊らせただけで、人間業とは思えない速度で無数の魔法陣が展開されたのを思い返して、噂には聞いていたけれど本当に凄い魔法使いだったな、と思わず息を吐く。
本来スノウモルは、ひと枝を花開かせるだけで魔力切れを起こしてしまうようなものなのに、彼は新入生全ての胸に飾られたそれを平然とした顔で満開にしてしまったのだから。
大歓声をその背に受けながら舞台を降りていく、何だか腹に一物抱えていそうだった柔らかな笑みを思い起こしていれば、別棟の外観が見えてきたので私は歩調を緩めた。
本校舎から渡り廊下で繋がれた白い煉瓦造のそれは、大きさで言えば本校舎には及びもつかないけれど、窓の装飾や壁に掘り込まれた紋様一つとっても繊細で、何だかお洒落だな、という語彙力の欠片もない感想が浮かぶ。白い壁に沿って回り込むように足を進めていけば、あまり手が入れられていないのか段々草木が目立ち始めた。
外観も十分確認できたしそろそろ戻ろうかと迷い始めた頃合いで、視線の先に魔石ランタンが付いた木製のベンチが見えてきて、思わず目を瞬く。どうやらこの先は裏庭か何かになっているらしい。
折角ここまで来たのだから少し見ていこうか、という気になって、戻しかけた足をまた前に浮かせた私は、まさかこんな辺鄙な場所に先客が居るだなんて想像もしていなかった。
白い壁の先から徐々に露わになっていく裏庭らしき場所は、本当にただベンチがあるだけで手が入れられている様子もなく、けれど静かな場所で一人になりたい時なんかに良さそうだ。穴場を見つけられたかも、と考えながら歩みを進めていた私は、視界の先に誰かのローブが見えたところで慌てて足を止めた。
死角になっていて気が付かなかったけれど、よく見ればこの場所に似つかわしく無いような大木がその枝を伸ばしていて、その下に誰かが佇んでいる。
背中しか見えないけれど長身の男性らしく、赤茶色の柔らかな短髪が靡いて、その耳には白いピアスが揺れていた。
きっと私と同じように、静かで落ち着くのに最適な場所だと思った人なのだろう。公共の場所とはいえ邪魔してしまうのは何だか申し訳ないし、また今度出直そう、と身を翻しかけたところで、その先客がふとしゃがみ込むと足元の何かを拾い上げたので、私は思わず動きを止めた。
完全な好奇心だったけれど、こんな場所で何を拾ったんだろうと思わず目を凝らしていたら、彼が木の影を避けてそれを陽に翳すように持ち上げて、その表情が露わになる。
とても整った顔立ちの、見惚れてしまうくらい美しいターコイズブルーの瞳を持ったその人は、けれど酷く寂しそうな表情を浮かべていた。
それに思わず目を奪われれば、次いで彼が拾い上げたものが、恐らくあの一際目立つ大木の枝だということに気がつき、私は首を傾げた。あの何の変哲もなさそうな枝に、あんな表情を浮かべさせる何かがあるのだろうか。
気に掛かったけれど、こんな覗き見みたいなこと向こうもいい気分にはならないだろうし、いい加減に戻らないといけない。
そう自分に言い聞かせて足を浮かせ掛けた時、ふと彼が枝を持っていない方の指先を宙に投げ出した。それがゆっくりと、青い光を帯びた魔力の軌跡を描き出したから、思わず息を呑む。
……ゆっくりと丁寧に、少しだけ歪でも、線が逸れることのないように。駄目だと自分を咎めつつ目が離せないでいれば、やがて始まりと終わりの線が結びつき、ふわりと柔らかい青い光を放った。
そして、彼が持っていた枝にゆっくりと、ひとつ小さな蕾がつき、ほんの僅かにその花弁を寛げる。そこで初めて、この大木がスノウモルの木だったことに、私は気がついた。
けれど、それに何か思うよりも、私は心の中がきらきらしたもので満たされていて、拍手を送りたい気持ちでいっぱいで。今まで魔法を見る機会がなかったわけではないし、今日だって式で凄い魔法を見せてもらったばかりだけれど───……こんなに、見ていてこっちまで嬉しくなってしまうような、暖かい気持ちになる魔法は初めてだったから。
でも入学早々、恐らく先輩だろう見知らぬ人に声を掛けるのも、という躊躇いは、けれどふと自嘲の笑みを浮かべ項垂れた彼が、まるで価値のないものを捨てるように腕を振りかぶって枝を放ろうとしたことで、どこかへ飛んで行ってしまって。
何を考える暇もなく飛び出せば、流石に気がついて弾かれたようにこちらを振り返った彼と、まともに視線がかち合った。
『あのっ、と、突然すいません。それ、捨ててしまうんですか?』




