31.思い出す
日々の中でその紙が視界の端を掠めるのが辛くて、今夜向き合おうと決めたはずだったのに。勢いのある線で書かれた「保留」の文字をぼんやりと見つめていた私は、持ち上げたままのペンの先からインクがぽつりと落ちたところで意識を引き戻された。
床を汚してしまったそれをすぐに拭かなくてはと思うのに、どうにも緩慢な思考と重い身体がそれを許してはくれない。
もう何もかも放り出してしまいたかったけれど、今ペンを置いてしまったらもう持つ気力が湧かない気がして、私は億劫さの滲んだ仕草で紙にペンの先をつけた。
『私は、』
けれどたったそれだけの文字でペンの先は止まってしまって、どうしてもその先に綴る言葉が浮かばない。
広がっていくインクの滲みに文字が侵食されていくのを見つめていたら、ふと胸の底からやるせない気持ちが湧いて、力なくペンを下ろすと同時に紙を勢いに任せて剥がしてしまった。
拙い努力の軌跡が詰まったそれは、けれど今見ているにはどうしようもなく痛くて。くしゃ、と手の中で丸めたそれを見下ろしていたら、また性懲りも無く涙が滲んだ。
……あの日から、私はレクス先輩を避け続けていた。裏庭にも、一度も行っていない。彼のことを思い浮かべるだけで、羞恥だったりやるせなさだったり後悔だったり、ぐちゃぐちゃの感情が湧き出てきて、今はとても顔を合わせられそうになかった。
本当は、ちゃんと会って謝って、今度こそ向き合って出来る限り話し合うことが正しいって分かっている。……分かっていてもそうはできないから、日々自己嫌悪が積み重なって仕方なかった。
急に泣き出したりして、面倒臭いと思われてしまったかもしれない。彼は絶対そんな人じゃない、と訴える自分がいるのに、彼のことなんて本当は何にも分かっていなかったくせに、と叫ぶ自分もいて、もう何を信じればいいのかすら分からなかった。
くしゃくしゃに丸めた紙をゴミ箱に放り込んでしまったら、何だか酷い虚脱感が襲いかかってきて、痛み始めたこめかみを抑えながら縋るように思い浮かべるのは、あの日寄り添ってくれた小さな白猫の温もりだ。
あの日、漸く泣き止んで顔を上げるなり、すっかりぐしゃぐしゃにしてしまった白く柔らかな毛に青ざめた私に、気にするでもなく用は済んだとばかりに涼しい顔で颯爽と駆けていってしまった、不思議な小さい白猫。
いつかに彼があの猫ちゃんが私のことを大好きだと言ったけれど、本当に弱っていた時に傍にいてくれたあの懐っこい小さな命に、今では私の方が心を傾けてしまっていた。
……あの日以来姿を見ていないけれど、何だか無性にあの子猫に会いたくて仕方ない。
明日、帰り道で探してみようか。もしも前みたいに触らせてもらえなかったとしても、一方的に話すだけできっと楽になれる。
感情の捌け口にしてしまってあの猫ちゃんには申し訳ないけれど、私が勝手に慰められたような気になっているだけで、実際は人間の言葉なんて分からないだろうから、だから。
……猫にまで縋ってしまう自分が情けなくて、私はぞんざいな仕草で指をかざし明かりを消すと、倒れ込むようにしてベッドに潜り込んだ。
どれほど挫けても、何度失敗しても、思考を止めてはいけない。それが錬金術師を志す者として正しい在り方で、私も普段できる限りそれに添いたいと願っているけれど、今夜だけはもう、何も考えたくなかった。
レクス先輩のことを考えていたら、あんまり情けない話だけれどいつまでも泣き続けてしまいそうで。つきりつきりと頭の奥を刺すような痛みも、瞼を下せば気疲れからすぐに沈んでいく意識と共に攫われていく。
……意識が溶け落ちる寸前、訴えかけるような最後の僅かな痛みと共に、どこかで小さく、震えた声が聞こえた気がした。
『……度……けで、いいから』
……今のは、誰の───……
きっと忘れてはいけないと思うのに、酷く、聞き覚えのある声だった気が、するのに。疑問を抱く暇もなく、私の意識はまるで誰かに手を引かれるように、暗闇へと沈んでいった。
……遠くどこかで響いた、聞き覚えのある獣の低い唸り声も、耳に届くことはないまま。
放課後、寮への道を歩きながら、何気なく覗き込んだ手鏡の中の自分は今日も酷い顔をしていて、見るのも億劫になった私は諦めてそっと蓋を閉じた。
あまり覚えていないけれど、昨夜何か悪い夢でも見たのか特に隈が際立っていて気が重くなる。けれどどうせ、好きな人には今日も見せることはないのだし、と小さく息を吐き出して、気を取り直すように顔を上げると、私は周囲を見回しながら小さく声を上げた。
「猫ちゃん、白くて綺麗な小さい猫ちゃん……、いる……?」
けれど酷く重い足取りで歩いていた私が一人帰路に取り残されているだけで、辺りには猫の子一匹見当たらない。残念ながら、今日はあの猫ちゃんには会えないらしいと悟って、また重い溜め息が押し出される。
──恋を知らなかった頃の自分が今の私を見たら、きっと呆れてしまうだろうな。あの不思議な女性にこの魔石の髪飾りを与えられた日から、私の頭の中には錬金術のことしかなかったから。
……一体いつから、彼のことでこんなに一喜一憂するようになったんだっけ、とふと思い返して、そう昔のことでもないはずなのに、何だか懐かしい気持ちになった。純粋に彼が好きで、ただ真っ直ぐに想っていられるだけで嬉しかった日々が、今では眩しく思えるからかもしれない。
一目惚れだとかそんなものではなかったけれど、何となく顔を合わせる内に、彼が笑顔の下に隠した剣に対する直向きな努力や、隠しきれない魔法への羨望や、時折覗かせる寂しさや……そういうものにゆっくりと惹かれていって、これが恋だと自覚した時には、世界が色付いて見えたものだった。
誰か一人を深く想うということがどれほど尊いことか、私は彼に教えてもらった。
勿論恋をしているからには振り向いて欲しい気持ちがあったけれど、それでもまさか住む世界が違うような彼と本当に付き合えるとは思ってもみなかったな。彼と初めて会った時の私に伝えてもきっと信じないか、仰天して倒れてしまうかもしれない。
彼と出会った日が、もうとても遠いことのように思えるのに、それでも鮮明にあの時の会話を思い出すことができる。
……一目惚れなんて単純なものではなくても、とても忘れることなどできないような、印象的な出会いだったのは間違いない。
目を閉じれば、ふわりと甘い芳香が漂う──あの日を思い返すといつも真っ先に思い浮かぶのは、雪と見紛うような美しい白い花弁だった。