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3.ソルシエル

 厳選した数冊の本を抱えてほくほくとしていた私は、はっと我に返って青ざめた。

 一体どれほど時間が経ってしまったのだろう、いくらゆっくり選んでいいと言ってもらったとはいえ、夢中になりすぎてしまった。レクス先輩は、と慌てて視線を巡らせて、すぐに視界に飛び込んできた見慣れた赤茶色の柔らかい髪に胸を撫で下ろす。


 さすがに怒らせてしまっていたらどうしようかと思ったけれど、彼はまだ隣の棚の前に立っていて、興味を惹かれるものがあったのか手に取った一冊の本に目を通していた。

 待たせてしまってごめんなさいと言葉を用意して駆け寄ろうとして、けれど寸前で踏みとどまる。

……その本を見つめるレクス先輩の表情が、あんまり優しくて───とても寂しそうだったから。


 すぐ近くにいるのに、レクス先輩が遠く感じて、どうしてだか声を掛けることを躊躇った。ただ、お待たせしてすいませんって、何の本を読んでいたんですかって言えばいいだけだと分かっているのに、……あの表情をしているレクス先輩に、踏み込んでいいのか分からないなんて、どうして思ってしまうんだろう。

 私は先輩の、恋人なのに。


 本を抱きしめる手が強張って、ほんの少しのその距離が詰められない。途方に暮れて立ち尽くしているその時間は、けれど長くは続かなかった。

 ふと本から顔を上げた先輩がこちらを見て、視線がぶつかり合う。驚いて肩を跳ねさせた私に、レクス先輩は目を瞬いてから苦笑を漏らした。


「どうしたのシェルちゃん、選び終わった? ならこっちおいでよ」


「え、えっと……いいんですか?」


「何それ、変なの。当たり前でしょ」


 本当に当然のようにレクス先輩がそう言ってくれたら、安心して、不思議と心がふわりと浮き上がって、私は固まっていた足が嘘のように先輩の元に駆け寄っていた。

 そんなに急がなくてもいいのに、と苦笑を漏らした彼にはにかむように微笑んでから、そろりとその手の中の本を覗き込む。普段あまり本に興味を示さないレクス先輩があんな表情で見つめるものが何なのか、正直想像もつかなかった。

 特に隠すことでもなかったのか、彼は私の視線の向ける先に気がつくと、見やすいように本を差し出してくれた。


「ん、気になるならシェルちゃんも読む? って言っても、多分内容知ってると思うけど」


 軽くそう言うレクス先輩の手の中にある小説のタイトルを見て、私は目を瞬いた。

 少し褪せて掠れた文字で「スノウモルの木の下で」と銘打たれたそれは、確かに普段錬金術の本ばかり読んでいる私でも目を通したことのあるものだった。大衆に広く親しまれる、誰でも常識のひとつとして知っているような物語で、小さい頃夢中になったのを覚えている。


 実話を元にした、主役の騎士と姫、そして偉大な魔法使いと錬金術師が力を合わせて悪い魔物を退治しに行く、言ってしまえばありきたりな冒険譚。

 けれどこれを彼が読んでいるというのは、私にとってとても意外なことで、自然と答える声も慎重になった。

……だって、この冒険譚の元になった実話は──……


「……えっと、そうですね、私も読んだことがありますけど……先輩は、このお話が好きなんですか?」


 レクス先輩は私の問いかけにそっと目を伏せて、ゆっくりとページを捲った。

 挿絵が挟まれたそのページは物語の佳境なのか、姫と騎士、魔法使いと錬金術師が一堂に会して、凶悪な魔物に立ち向かっているところが鮮やかな色彩で描かれている。それを優しく指先でなぞって、彼は穏やかに口を開いた。


「好きっていうか、まあ、教育の一環だったからね。あの家で与えられたものの中で、子供心に親しめるものはこれくらいだったし。……でも、幼い頃はラン兄様とよく役になりきってこっそり遊んでたんだ。俺が魔法使いの役をやりたいと言って、騎士の役は紙を丸めた剣を作って兄様に押し付けてた。はは、今思えば横暴な弟だったな。そういう意味では懐かしいし、好きって言えるかもね。……ごっこ遊びでは、世界一の魔法使いになってなんだってできた。実際はこんなんだけど」


 言いながら、レクス先輩は指先を宙へと投げ出して、魔力の線で小さく、少しだけ歪な陣を描いた。線の始まりと終わりが繋がると、それが淡い光を浮かべて、やがて輪郭線の曖昧な光でできた蝶が、陣の中から羽ばたきだす。けれどそれは、数秒も満たない間に形を歪ませるとかき消えてしまった。

 それを見て瞳を翳らせ自嘲の笑みを浮かべた彼に、酷く胸が締め付けられる。言葉がすぐに見つからないことが、とてももどかしかった。


──レクス先輩は、フルネームをレクス・ソルシエルという。そして彼の生家であるソルシエル家と言えば、代々優秀な魔法使いを輩出してきた、この国で知らないものはないほどの魔法使いの名家だった。

 この「スノウモルの木の下で」という冒険譚も、凶悪な魔物に立ち向かう魔法使いと、物語の終盤で彼と結ばれた錬金術師は、この学園の卒業生である数代前のソルシエル家の当主と、その妻がモデルになっているらしい。その妻というのが、まさに私がうっかり名前を出してしまった伝説の錬金術師、アルヒ・ソルシエルなのだ。


 言葉を探す私をどう思ったのか、宙にかざしていた指先を下げて、彼はぱっと茶化すような笑みを浮かべた。


「……ま、でもあの兄様と比べたら、誰でもそんなものかもしれないけどさ」


「……レ、レクス先輩、その」


「あはは、やだな、そんな顔しないでよ。魔法使いになりたいなんて幼い夢はずっと昔に置いてきたし、ラン兄様のことを、俺がどれだけ尊敬しているかは知ってるでしょ。……あの方は、俺の唯一の家族で、誇りなんだ」


 その言葉に脳裏に浮かんだ姿は、柔らかな短い銀髪にアメジストを嵌め込んだような瞳の、どこか冷淡ささえ感じる美貌。

 話してみれば思いの外人当たりは柔らかいけれど、初めて見た時はあまりに浮世離れした空気を纏っているものだから、本当に同じ人間かどうか疑った覚えがある。


 今代、ソルシエル家に異端児と呼ばれるほどの天才が生まれ育ち、世界に名を轟かせているというのは、最早一般常識だった。学生の身でありながら、魔法史に刻まれるような功績を数多残し続け、学園が誇る彼の名前を耳にしない日は一日だってない。


『はじめまして、シェルタ。僕は魔法科のラン・ソルシエル、好きなように呼んでくれていいよ』


 雰囲気は全然違うけれど、彼は面立ちは確かにレクス先輩と少しだけ似ている、と思う。ただ、それをレクス先輩の前で無遠慮に口に出したことはないけれど。

 少しでもこの二人と交流があれば、そこにある複雑な事情や感情は多少なりとも察することができる。二人は片耳ずつ対になった魔石のピアスを付けているし、仲は悪くないようだけれど、歳の近い兄弟なのにレクス先輩は彼のことをずっと兄様と呼んでいるくらいなのだから。

 関われば関わるほど、不思議で難しい関係の二人だと思わずにはいられない。


 魔法使いの名家に生まれながら魔法が得意でないと自嘲するレクス先輩が、その道の天才である歳の近い兄の背中を見ながら、今まで生家でどんな扱いを受けてきたのかを詳しく聞いたことはない。それでもご両親が健在であるにも関わらず、ラン先輩を唯一の家族だと言い切るのは、多分そういうことなんだろうと思う。

 ソルシエル家の魔法に対する厳格さ、そして魔法使いになるために施される教育は、全く関わりのない一般人の私でさえも小耳に挟んだだけで震え上がるようなものばかりだったから。


……その中で、魔法と道を分ち剣を取った彼が、今までどれほど血の滲むような鍛錬を重ねて、どんな思いで名を立てたのか。レクス先輩の明るい笑みに隠されたそれを、私はきっとほんの少ししか知らないけれど、それでも。


「……私は、もちろん剣もですけど、レクス先輩の魔法、とても好きです。丁寧で優しくて、綺麗だから」


 私が差し出せるだけの真実を伝えれば、レクス先輩は少しだけ目を見開いた。彼の描く小さな魔法陣はいつだって少し歪で、生み出す魔法はささやかで、直ぐに儚く消えてしまう。でも、その指先が丁寧に魔力の線を描くのを見ているのは心が踊るし、彼の生み出すその一瞬は、いつだって優しくて、とても美しかった。


 魔法を生み出す時、彼のターコイズブルーの瞳が、ほんの少しだけ魔法への愛しさを込めて和らぐのを見ると、私まで嬉しくなる。それは恋人贔屓ではなくて、レクス先輩に対して特別な感情を抱く前からずっと変わらない。私の言葉に、彼はやがて酷く嬉しそうに笑った。


「……ありがと。シェルちゃん、初めて会った時もそう言ってくれたよね」


 そう言いながら、思い出を閉じ込めるような仕草で優しく本を閉じたレクス先輩は、それを棚に戻しながらこちらを振り返ると、悪戯っぽい笑みを浮かべてわざとらしく声を上げた。


「あーでも悲しいな、シェルちゃんが好きなのは俺の剣や魔法だけ? 泣いちゃうかも」


「……レクス先輩」


 出た、と身を固くして私にできる精一杯の鋭い視線で先輩を睨め付けてみても、当然ながらそんなものレクス先輩はどこ吹く風だ。ただそれ以上促すでもなく、期待を宿した瞳でじっとこちらを見下ろしてくる。

 それを無視できるほどの胆力が私にあるはずもなくて、だからこれを言うたびに増していく胸の痛みからどうにか目を逸らしつつ、私は結局羞恥を堪えながら、諦めたようにその五文字を口にした。


「……ぁ、あいしてる、レクス先輩」


「ふふ、うん。ありがと、シェルちゃん。それ借りたらさ、裏庭行こっか」


 満足げにその言葉を受け取るだけの先輩を、恨めしく思うのだって嘘じゃないのに。いつもいつも、そんなに嬉しそうな顔をされたら、それ以上何も言えなくなってしまう。翻るローブの裾をほろ苦い気持ちで見つめながら、結局私の足は彼についていくために動き始めてしまうのだ。

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