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27.反吐が出る 

「あの蛆だけを詰めた蠱毒のような家を心底憎んでいるのは、何も貴女だけではないんですよ」


──ソルシエル家では、あらゆる日常的な動作を魔法で行うことを強制される。魔法でフォークや皿を動かせないなら、それはソルシエル家において人間ではなく、食事をさせる意味などない。魔法で水の塊を操れないのなら、それは人間ではないから、入浴などさせる必要はない。

 その果てに何か不都合が起きたとして、それは最初から人間ではなく、ソルシエル家には何も生まれていないから、困ったことなどなにもない。困ったことがあったとしても、それは深く広がる腐った根のどこかで、全部なかったことになる。


 ランとレクスが普通の兄弟でいられたのは、本格的な魔法教育が始まる前の、まだ才能の格差がはっきりと分かっていなかったほんのひとときだけだった。

 今でも、鮮明に覚えている。「にーちゃん」と呼んで、無邪気な笑顔でどこに行くにもあとを着いてきた可愛い弟が、「兄様」と呼び方を変えて、他人行儀な口調で話し、ランの従者のように振る舞い始めた日のことを。


 その歪な、全てを諦めたような笑みと、紫に腫れ上がった頬を震える手で抑えた、まだとても小さな手を。

……魔力だけは誰よりも膨大なくせに、まだ高度な治療魔法を扱うことができなかった、その痛々しい頬さえ治してやれなかった、ちっぽけな自分への憎悪を。

 きつく握りしめた手袋に包まれた拳が、ギリ、と音を立てた。


「レクスは将来、きっとこの国になくてはならないほど優秀な騎士になる。……そうして利用価値があると判断したなら、あの家はあっさりと掌を返すでしょう。アルヒ・ソルシエルの夫である当主が亡くなった時も、腹に子がいないと分かるや喪も明けないうちから弟との再婚話が持ち上がったと聞きました。彼女が出奔したのは、それが大きなきっかけだったと」


「……」


 聞くだけで吐き気を催すような話だ。けれどこんなものは、あの家ではまだ生易しい方なのだと知っている。魔力と魔法以外に人間に価値はないと本気で思っているような、醜悪な人間が集まり好き放題に歴史を積み重ねれば、ランでさえ目を逸らしたくなるような記録なんていくらでも出てくる。

 けれど、胃から込み上げる酸いものを堪えて、堪えて、裏で記録を漁りながらランは従順に過ごし続けた。……全ては、反逆の舞台を整える為に。


「これ以上絶対に、レクスの人生を道具として消費させたりはしない。……それに、僕と彼女のことも、きっとあの家は認めないでしょう。ソルシエル家は今、僕のことを優秀で、従順で、都合の良い傀儡だと思っています。……これほどやりやすいことはない。あの脂下がった蛆共の顔が絶望に染まるところを見れたのなら、どれほど胸が空くでしょうね」


「……にゃあ」


 呆れたような鳴き声を上げた子猫が胡乱気にこちらを見遣ったので、ランはそこであまり人様に見せられない表情を浮かべていたことに気がついて、そっと口元を押さえてから穏やかな笑みを取り繕った。それはとても容易いことで、一体いつから貼り付けているか分からない仮面は、もう皮膚の一部に変わって久しい。

 誤魔化すように子猫に対して首を傾げてみせれば、しゃらりと耳元でスノウモルの花弁を模したピアスが揺れて軽やかな音を立てる。ふと子猫の黄金の瞳がそれを辿ったから、ランはああ、と呟いて手袋に包まれた指先を耳元に遣った。


「これ、弟とお揃いなんですよ、いいでしょう。……とんでもない魔力が封印されているなんて噂もありましたが、僕が調べた限りでは、これはアルヒ・ソルシエルが夫の晩年、衰弱し殆ど魔法が使えなくなった彼の補助の為にと作ったものです。それも特定の魔法に限っていて、条件が厳しく指向性が一定のために効力こそ強いですが、あの家が求めているようなものではないし……知ったとして、きっと理解できないでしょうね。だから彼女も置いて行ったんでしょうけれど」


 どこか懐かしそうにそのピアスを見つめていた白い子猫は、けれどやがて興味を失ったように鼻を鳴らすと視線を逸らした。好きにしろ、ということなのだろう。

 既にこちらに興味が失せた様子の黄金の瞳は何もない宙を見つめていて、それでも何となく、ランの知り得ないいつかの尊い日々を見つめているのだろうという気がした。子猫も、ランも口を噤んでしまえば、当たり前にその場に沈黙が降りる。


 もう独り言も尽きて、だからいつこの場から立ち去っても良かったのだけれど、どこか長い年月にくたびれたようなその小さな姿を見ていたら、自然とランの口は開いていた。

……脳裏に浮かぶのは、思い出すのにも息が詰まる地獄のような幼少期と、その間を縫って縋るように何度も、文字が擦り切れるほどに小さな指先で捲った、眩しい冒険譚。


「……貴女達の旅は、全ての始まりだった。あの冒険譚に、ソルシエル家や王家の権力を誇張する為に大幅な脚色が加えられていることは勿論知っているし、貴女にとっては気に入らないことでしょう。けれどあの物語は、擦り切れた幼い心と倫理観を支えてくれる、唯一無二のものでした。──貴女達が紡いだ道に、最大限の感謝を。貴女がソルシエル家の門を潜ることは二度とないでしょうけれど、それでも、貴女の名に誓って、必ずあの家の闇を晴らします」


 自分の本心を曝け出すというのは、ランの人生の大半において避けるべきことで、だからどうしてもこういう時はらしくなく緊張してしまう。

 手袋に包まれた掌が汗ばんだのに気がついて、思わず苦笑を浮かべた。彼女からしたらこんな若造がどう振る舞おうと気にしないのだろうけれど、流石に気恥ずかしいのでこれは気が付かれたくない。


 実際小さな白猫がそんなランの心のうちを悟っていたかは兎も角、机に丸まっていた子猫がゆっくりと起き上がり、居住まいを正してランを見上げたのは間違いのない事実だった。

 黄金の瞳と、ランの紫の瞳が暫く言葉もなく交錯して、けれどやがて、根負けしたように子猫の瞳が柔らかく緩められる。


「……、にゃ」


 許容と、少しの呆れが滲んだようなその鳴き声にランが目を瞬いた時には、トン、と軽やかな着地音と共に子猫は机から降りていて、ぴんと立った白い小さな尻尾が雑多に置かれた机の脚を縫って遠ざかっていくところだった。

 どんなにすごい魔法が使えたところで猫語は分からないけれど、何となくあの子猫に言われたことを察して、苦笑を浮かべつつ教室の扉の外に消えていく姿に声を掛ける。


「どちらにしろ変わりませんよ。だって、レクスとシェルタが居るんですから」


 その尻尾の先すら見えなくなる寸前で、白く柔らかな毛に包まれたそれがぞんざいに揺れた気がして、思わずランはくつくつと喉を鳴らした。

 呼び声に応えるのが面倒なとき、猫は尻尾で返事をするというのはなるほど本当だったらしい。あの家をぶち壊したら、手始めに猫を飼い始めてみようかと考えながら、ランは手を組んで大きく前に伸びをすると、ガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。

 過去を思い出して懐かしんだなら、次は未来に足を進めなければならない。


「ちゃんとあの二人を導かないとね。……僕は今、その為にここにいるんだから」






 とてとて、と可愛らしい足音を鳴らしながら、小さな白猫は気ままな足取りで廊下の隅を歩いていた。その黄金の瞳は前を見据えているようで、どこかここではない遠くを見通している。

 普段はけして、過ぎ去った時間を惜しみ、どうにもならないことを悔やむようなことをしたりはしない。それでも懐かしい話を持ち出されれば、らしくなく過去の思い出に浸ることくらいある。もう、随分遠くなった褪せた色の声が脳裏に反響した。


『……アルヒ。もしも私が死んだら、きっと君が錬金術で蘇らせておくれよ。どれほど時間が掛かっても構わないさ、どんな姿だって絶対に私は君だと気がつくし、心から君を愛すると誓おう。……それで、実験をしている間だけでもいい。どうか、……どうか、私のことを』


 ゆっくりと、子猫は黄金の瞳を細めて、小さく息を吐き出した。見た目をいくら変えたところで、生命として定められた期限に抗うことなどできない。勿論、とうに枯れた命を蘇らせることだって。

 知っていて、分かっていて、全てを費やした。もう先に逝ってしまった、行く末を憂うかつての仲間の手も振り払い、何もかもを捧げた。逃げ道の涙だって手放して、ここまで走り抜いてきた。


──……何も後悔はない。既に定めた、己の道の果ても含めて。


 あたしの人生めちゃくちゃだよ、全部あいつのせいだ、会ったら絶対にまず一発グーで殴ってやる、と心の中でぐちぐち呟きながら、不機嫌そうに小さな白猫は尻尾を揺らした。

……なんにせよひとまずは、目の前の厄介ごとを片付けないといけない。君は本当に情に厚いな、と懐かしい顔が頭の中で呆れたように笑ったから、ひとまず予行演習に一発お見舞いしておいた。

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