26.独り言
なんだかんだ一度見られてしまったら諦めがついたのか、結局お弁当は綺麗に平らげつつ、何やら長らく言い訳を並べ立てていたシェルタが帰っていった人気のない教室は、酷く静かに感じた。
顔面に向かって殺意を感じるスピードで飛んできたゆで卵と、羞恥からか来た時よりも心なしか身を縮めてとぼとぼと去っていったシェルタのことを思い返して、ランはまた震えそうになる肩をどうにか抑え込む。
ここ最近は漸く想いを通じ合わせた愛しい彼女のことやレクスのこと、家のことでこれでも色々気を揉んでいたのだけれど、何だか少しだけ、肩の力が抜けた気がする。いや、本来気を抜いていられるような状況ではないのだけれど。
やっぱりこういうところがシェルタはすごいな、とぼんやり考えつつ、そろそろ自分もここから退散しようと、少しだけ椅子から腰を上げたときだった。
──教壇の死角から、小さな影がランの方目掛けて勢いよく飛んできたのは。
「……!」
ランが振り返るよりも早く、瞬時に反応して展開された魔法陣を、けれどその小さな影の色が視界の端に映った瞬間、咄嗟の判断で打ち消した。
自分の身体を動かすよりも、思考するよりも、魔法を操る方が早い。そういう訓練を、幼い頃から積んできた。
その甲斐あって、反撃を繰り出す直前で打ち消された魔法陣を気にした様子もなく、勢い込んで飛び込んできた小さな白い子猫にはかすり傷ひとつつかなかったけれど──代わりに無防備に腰を浮かせ掛けていたランに、小さな体躯ながらそこそこの衝撃が襲いかかって、思わずうめき声が漏れる。
「うっ」
受け止めきれずに勢いよくひっくり返ったランを、いつかの教室で目覚めた時のように新たに展開された魔法陣が受け止める。
衝撃をどうにか受け流して、きつく瞑っていた紫の目をそっと開けば、遠慮なくランを足蹴にした白い子猫が黄金の瞳で呆れたようにこちらを見下ろしていた。
可愛らしい見た目でもその品位は全く隠せていないな、とぼんやり思いつつ、ふと何気なく持ち上げた手袋に包まれた指先を、迷うように彷徨わせては結局下げる。まさか手でどけるわけにもいかないので、できることといえば困った顔をするくらいだった。
「……呆れる気持ちも分かりますが、僕も好きで身体能力が低いわけではないので、どうかご容赦ください。そしてできれば、降りていただけるととても助かります」
「……にゃあ」
ふん、と鼻を鳴らした子猫が、仕方ないなというような素振りでランの腹を蹴って跳躍すると、身軽に床へと着地した。不意打ちのそれにまた呻き声を上げつつ、腹の上の重みがなくなったことで漸く自身も立ち上がって、こちらを大きな黄金の瞳でじっと見上げる白い子猫と改めて向き合った。
姿が姿とはいえ、彼女を高い所から見下ろしているのはあまりに落ち着かない。苦笑を浮かべてもう一度椅子に腰掛けつつ、目の前の机を手で示してみせた。
「奇遇ですね。よろしければ、少し話していかれませんか。貴女はシェルタのために、僕はレクスのために動いているけれど、目的は同じでしょう?」
「……」
子猫でも嫌そうな顔、というのは見て分かるものなんだな、と思わず感心してしまうくらいのそれに、つい笑いそうになるのをどうにか堪える。その柔らそうな肉球や小さな爪が飛んでくるならまだしも、得体の知れない錬金薬を飲まされるのは勘弁願いたいところだ。
やはり、彼女の筋金入りのソルシエル嫌いは相変わらずらしい。
「……では、僕の独り言を聞いていってくださいませんか、通りすがりの美しい白猫さん」
胸に手を当てて恭しく頭を下げてみせれば、子猫は胡乱げにその宝石のような目を細めて、けれど小さく息を吐くと身軽に跳躍して目の前の机の上に乗り上げた。
素知らぬような顔で伸びをしてから丸まってみせるけれど、無意識なのかその柔らかそうな小さな耳がこちらを向いていて、思わず頬が緩みそうになるのをどうにか引き締める。彼女とこうして会話できる時間がどれほど貴重かは知っているつもりだ。
「そうですね、では、……逃げ出していく影の話でも」
言いながら指先を軽く宙で踊らせれば、何も考えずとも瞬く間に精緻な魔法陣がそこに描き出されていく。やがて最初と最後の線が繋がれば、大人しくランの動きを真似していた濃い影が、独りでに一歩踏み出して本体と分たれた。
模倣するだけの時間から解き放たれ、開放感を表すように伸びをしてみせたランの影はきょろきょろと周囲を観察して、ふと机に丸まる小さな白猫に気がつくと興味深そうに覗き込む仕草をしてみせる。
それにぴくりと小さな耳が動いて、苛立たしげに尻尾がぴしゃりと机を打ったので、ランは苦笑してこら、と影に声を掛けた。渋々というような仕草で戻ってきた影がまた己の下に収まったのを確認すると、そっと肩を竦める。
「……影は自分の分身で、魔力的にも大きな意味を持つものです。そして表裏の裏を担うその性質上、無意識下の心を反映するものでもある。鏡の方はともかく、僕は廊下には何も仕掛けていません」
白く柔らかそうな毛に覆われた小さな頭が僅かに持ち上がって、薄く開かれた黄金の瞳がこちらを問うように見返した。
「心の奥底で進む気があるのなら、あと必要なのは契機だ。だったら、我々がそれになればいい」
ゆっくりと笑みを浮かべれば、子猫は暫く探るようにそれを見つめて、それからフン、と鼻を鳴らすとまた己の柔らかそうな身体に頭を埋めてしまった。
それを好きに行動していいということだと解釈すると、これからするべきことを順序立てて頭の中で構築し始める。まだ作戦はあるはずだとシェルタを焚き付けたから、近いうちにまた動きがあるだろう。
そう考えつつ、視界の端で小さく揺れる尻尾に思考が中断されて、右に左にと気ままなそれを目で追ううちに、ふとランは口を開いていた。──それこそ本当に、独り言のように。
「……僕は、ソルシエル家の失われた記録や文献の復元を試みたことがあります。それでもアルヒ・ソルシエルに関しては不確かなものが多いけれど……彼女が夫の死後、最も執心した実験は、『死者を甦らせる錬金薬』だったとか。過去幾千もの錬金術師が挑み、決して叶うことはなかった神の領域に、彼女は片足を掛けた」
今では広く知られている学問である錬金術も、元を辿れば人間の欲望を叶える手段の一つでしかなかった。それは例えば、生命として定められた期限に抗い、枯れた命を蘇らせる、誰しもが一度は思い浮かべるような空想を現実にするための。
そして幾多の錬金術師がその研究に身を窶し、気が遠くなるような時が過ぎて、やがて錬金術師たちはこの世に不可能があるということと、諦めを知った。もうそんな御伽話の中のような錬金術の研究をする者など、現代には残っていない。……ただ一人を除いては。
「蘇生や不死とはいかずとも、恒久的な外見の不老にまでは辿りついたという説すら目にしたことがあります。決してそれを鵜呑みしたわけではないけれど、ソルシエル家が未だに彼女の捜索を続けていることが、その時何となく腑に落ちました」
揺れていた尻尾が、ぱた、と音を立てて机に落ちる。小さな白猫は顔を上げることはしなかったから、何を思っているのかは分からない。
……いや、元々通りすがりのただの白猫が考えていることなんて、きっとランに計り知れるものではないけれど。
「彼の死後から、もう随分経ちました。古巣に戻ってきたのは、自分の果てが見えたからですか。……先の見えない暗闇の中、シェルタの言葉は刺さりましたか」
「……」
問いかけの体を成したそれに、応える声はない。それは当然のことで、目の前にいるのは何の変哲もない白い子猫だし、これはただの独り言でなければならない。けれど、誰に伝えるわけではなくても意味を持つ言葉というのは往々にしてあって、それは例えば、決意表明だとかそういうもので。
──だからこれも、偶々、ランがそれを目の前の子猫に聞いて欲しくなっただけのこと。
「通りすがりの美しい白猫さん。僕は、この学園を卒業したら、あの家をひっくり返すつもりでいます」
「!」
ぴん、と小さく白い耳が立って、柔らかな毛に埋もれていた頭がぱっと上げられた。黄金のまんまるな瞳の中に、ゆるりと細められたランの紫の瞳が映り込む。
けれどぶつかったはずの視線はどこか噛み合わず、宝石のような輝きを帯びた紫が眺めているのは、遠い過去の憧憬だった。




