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25.ゆで卵 

「そうだ、教え合いでお相子と言ったのに、僕が聞いてばかりだったね。そろそろ本題に移ろう」


「!」


 思わず居住まいを正してごくりと喉を鳴らせば、ゆで卵が今度は反対に転がってご飯から剥がれ落ちた梅干しに乗り上げたけれど、とても構っていられない。そこまで身構えられると少し伝えにくいけど、とラン先輩が苦笑を浮かべた。


「──結果だけ言ってしまうと、あの廊下に異常は見られなかった。勿論、魔石ランタンにもね。魔力の痕跡もなかったから、誰かが悪戯で魔法を仕掛けていた可能性は低いと思うよ」


「、……そう、ですか」


 何となく察してはいたけれど、それでも落ち込んでしまう声色は隠せなかった。世界に名を轟かせる魔法使いである彼がそう言うのなら、やっぱり、あれは私の見間違いか、幻覚か何かだったということなのだろう。

 それならきっと、あの時に出会した鏡の中の自分も、その類のものだったということで。それであんなに大騒ぎしてラン先輩に調査までさせてしまって、本当に申し訳ない。

 でもあまり謝罪を重ねても彼に気を遣わせてしまうだけな気がして、私はそっと困ったような笑みを浮かべた。


「わざわざ調べてくださって、本当にありがとうございます。やっぱり疲れていたのかも……夜更かしはほどほどにしないといけませんね」


 冗談めかしてそう言いつつ、私はじわりと湧き上がってくる不安をどうにか抑え込むのに必死になっていた。逃げ出した影だけならまだしも、鏡に映し出された悲しげな自分も幻覚だったのだとしたら、これからも同じようなことが起こらないとも限らない。

 実際は別に疲れているとも思わないのに、どうして突然不可思議なものが見えるようになってしまったのだろう。頭の片隅でそんなことを考えていたら、ラン先輩がふと、何気なく口を開いた。


「ねえシェルタ。あれから、またおかしなものは見なかった?」


「え……」


 どく、と心臓が音を立てて、反応を取り繕うような余裕もなかった。明らかに動揺の色を浮かべた私に、驚くでもなく彼はただじっと、射貫くようにこちらを見つめてきて。

 全てを見透かすような瞳に、不安から思わず頼りたくなってしまう。ラン先輩は本当に不思議な人で、つい何もかも打ち明けてしまいたくなるような空気を纏っていて。

……でも、どんなにすごい魔法が使えても、何もかも抱え込めるような人なんていないことくらい、知っているつもりだ。一度唇を引き結んでから、私は繕った笑みを浮かべた。


「……いいえ、何も」


 私の返答に、ラン先輩は少しだけ物言いたげな視線を寄越して、それからそっか、と呟くと小さく息を吐いた。

 彼やレクス先輩みたいに隠し事が上手くない私の下手な取り繕いなんて、きっと彼にはばれているんだろうけれど、追及しない優しさが今はありがたかった。


……もしも、またおかしなことが起きたら、それが一人ではとても抱えきれないようなものだったら、その時また身の振り方を考えよう。

 また一つ、隠しごとを抱えた後ろめたさに目を伏せつつ、誤魔化すように私はちょうど目に入ったものの話題を振った。


「あ……そういえば、ラン先輩は早くにお昼を食べ終わったんですね。いつもは学食ですか?」


「ん?……ああ、前までは適当に買ったものを食べていたんだけど、最近は彼女が作ってくれていてね。料理が得意な子だからついでだって言ってくれるんだけど、とても凝った出来ですごく美味しくて、近頃は昼食が楽しみなんだ」


「へ、へぇ……」


 思い返しているのか、本当に嬉しそうにふわりと笑う彼は微笑ましいし、彼女さんとの仲が良好なそうなのも安心したけれど、致命的に話題選びを失敗したなと私は後悔していた。何せ私の膝の上、隠すように置かれたお弁当箱の中身はもうとても人様にお見せできるようなものじゃない。


 自分用だから、と言い訳してみるけれど、それでも凝っていてとても美味しいお弁当をしょっちゅう作るような女性の話を聞いた後では、尚更これを彼に見せるわけにはいかなくなってしまった。

……それに、レクス先輩にこんな雑なお弁当を作る人間だってことが、万一にも伝わってしまったら。


『えっと……シェルちゃん、普段そういうの食べてるんだ……はは』


 引いた顔をするレクス先輩を思い浮かべただけで心に深い傷を負った私は、冷や汗を愛想笑いで隠しながらそっとお弁当に蓋を被せようとした。

 この際、これは夜ご飯に回してしまおう。授業中お腹が鳴りそうになったら、合間に錬金薬でどうにかお腹をいっぱいにしよう。実験台に名乗り出れば、錬金科の学生なんていくらでも試作品を片手に群がってくるに違いない。

 そんな捨て鉢なことを考えていれば、ラン先輩がそういえば、と声を上げた。


「シェルタ、さっきから全然食事が進んでいない気がするけど……食欲がないの? それとも、僕が話していたから食べ辛かった?」


「えっ!?」


「気にしないで食べていいんだよ」


「え、いえ、えっとその……っ」


 言いながら何気なく私の手元を覗き込もうとしてきたラン先輩に、焦って急いで蓋を閉めようとしたのが良くなかった。


「あっ」


「え?」


 慌てるあまり噛み合わなかった蓋に、丸々としたゆで卵が挟み込まれて奇跡的にその形を保ったまま弾丸のように射出される様が、まるでスローモーションのように視界に映し出される。

 弾丸の軌道上には状況を理解できていないのか、呆けた表情を浮かべたラン先輩の顔があり、ゆで卵で彼を殴打してしまう未来が瞬時に浮かんで私は血の気が引いた。

───……しかし、彼が大量の魔法陣を同時に、しかも常に活性化させ続けることのできる世紀の天才魔法使いだということを、私は忘れていた。


 攻撃判定をもらったらしいゆで卵が、瞬く間に目の前に展開された大きな魔法陣に返り討ちに遭い、バラバラに切り刻まれて弾き返される。

 咄嗟にお弁当箱でそれを受け止めれば、目の前には綺麗に切られた食べやすそうな、黄身が色鮮やかなそれが残るばかりだった。


……しかし、起こった出来事はなかったことになってはくれないし、この重苦しい空気も勿論元には戻ってくれない。彼が私のお弁当を目に入れて未知に遭遇したような表情を浮かべたのも、しっかりと脳裏に刻まれてしまった。


「……」


「……」


「……切るんです、普段は、ちゃんと、その……ほんとです、うそじゃないです。そ、そもそも自分用なんて大体こんなものというか」


「シェルタ、僕は何も言ってないよ」


 謝罪の言葉すら浮かばず無意味な言い訳を繰り返す私に、ラン先輩は責めるでもなく静かにそう呟いたけれど、いつになく真顔の彼がとんでもなく怖くて、私は震えることしかできなかった。


「お、お願いです、どうかレクス先輩にだけは黙っていてください……」


「だから、僕は何も言ってないってば」



──以前レクス先輩が、「兄様ってツボに入ると真顔になるんだけど、普段は大体穏やかな笑顔を浮かべているからとてつもなく怖いんだよね」と何気なく呟いていたことを、この時の私はすっかり忘れていた。

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