18.アドバイス
全てを見透かすような瞳に射抜かれて、どくりと心臓が音を立てる。お姫様なんて本当にとても柄じゃないと言いたいのに、うまく口が動いてくれない。足を組んだラン先輩は、首を傾げて上品に口角を上げた。
「もしかして、レクスのことかな」
「え……な、なんでっ」
「シェルタは分かりやすいからね。……良かったら話を聞くよ、決して口外しないと約束するから」
それは勿論、彼が無闇に誰かの個人的な話を触れ回るとは全く考えていないけれど、それと彼のお兄さんに恋愛相談を気軽にできるかというのは別の話だ。
とてもじゃないけれど恐れ多いし、すぐに遠慮するべきだと思うのに、……レクス先輩に誰よりも近い彼なら、私が汲み取れないレクス先輩の考えも分かるんじゃないか、なんて思考が消えてくれない。
迷いに迷った私は視線を彷徨わせて、けれど結局、急かすでもなく私の返答を待つアメジストの瞳に背中を押されてしまった。
「そ、その……実は──」
あまり詳細を話すのは躊躇われたから、彼があまり想いを口にしないこと、言葉にしてほしいと思って努力をしてみているけれど、彼にちゃんと近づけているのか不安を抱いていることを要約しつつぽつぽつと語った。
一度も口を挟むことなく最後まで聞いてくれるあたりが、やはりレクス先輩と似ているなと思ってしまう。話し終えて一息つけば、ラン先輩は困ったような淡い笑みを浮かべた。
「シェルタにそんな顔をさせるなんて、困った弟だな」
「えっ、その、違うんです! レクス先輩は本当に素敵な人で、とても大切にしてもらっていて!……私が不安に思うことを、無下にするような人じゃないと知っています。思うところがあるなら話し合えばいいだけだって、分かってるんです。……でも、どうしても、彼の本心が怖くて。こんな遠回りして、きちんと向き合えない私が、臆病なだけなんです」
言いながら自分が情けなくて、視線が落ちていくのを止められない。それでも気を遣わせるようなことはしたくなくて、どうにか口角を上げてみせたけれど、失敗してしまったのかラン先輩はそっと眉を下げた。
「……君は真面目でいい子だから、自分をそうやって責めるけれど、抱え込むところはよくないね。大切な人に向き合えていないとしたら、それはレクスの方だよ。……その点に関しては、僕も耳が痛いんだけど」
ふとラン先輩が遠い何かを思い返すように目を伏せて、それが少なからず痛みを孕んでいるように思えたから、私はそっと口を噤んだ。
自分の影を追いかけるなんて非日常が尾を引いていて気が付かなかったけれど、改めて見れば本人が言っていた通り、その顔にはどことなく疲労が滲んでいる。
それは身体的なものというよりは心労を感じさせて、休んでいたところを起こした挙句にこんな相談を持ちかけているのが尚更申し訳なく感じた。お礼だけ伝えて話を畳んでしまおうかという思考が頭を掠めたけれど、その前にラン先輩は先ほどの憂いが滲んだ表情なんてなかったみたいな微笑みを浮かべて。
「……君も知っていると思うけど、レクスは何だか僕を神様みたいに思っている節がある。でも勿論そんなことはないし、あの子が本気で隠そうとしていることなら気がつけない。あの子はそういうのが上手いからね」
その必要に迫られる環境だったというのもあるんだろうけど、と小さく声を繋いで、ラン先輩は複雑な感情を滲ませた瞳をそっと伏せた。
「だから弟のことを何でも理解しているなんてとても言えないけれど───少なくとも僕の知る限り、レクスは伝えるべきことを蔑ろにするような性格じゃない。それが許される状況ならね」
「……ええと、つまり」
「言わないのは偶然じゃなくて、多分レクスなりの理由があるんじゃないかな。それをひっくり返せるかどうかは、シェルタの頑張り次第ってところだと思うよ」
彼の言葉に、私は思わず目を瞬いた。……理由。恋人に一線を引く理由が本当にあるとしたら、それは一体どんなものなんだろう。
彼の心が本当は私にないんじゃないか、という恐怖はずっとあって、それはとても分かりやすい理由だと思うけれど……好きなら距離を詰められても逃げない、という最初に定めた指標は、今のところレクス先輩からのあたたかな好意だけを指し示してくれている。
本心を隠すことが上手い彼だから、それを信じ切るわけではないけれど、でも本当に他に理由があるのだとしたら想像もつかない。難しい顔をする私に、ラン先輩はふと思いついたように口を開いた。
「でも、そっか。やっぱり恋人には、好きだとか愛してるだとか、言葉で伝えてほしいもの?」
「え? えっと……そうですね。人によるとは思いますけど……少なくとも私は、たまには言葉がもらえたらやっぱり嬉しいし、想いが通じ合っているんだなって安心できるかと。……その、他にも個人的な思い入れというか、憧れがあるっていうのもあるんですけど」
「ふうん……そういうものか。言われてみれば、僕は彼女にあまりそういうのを伝えていなかったかもしれない。気をつけないと、愛想を尽かされたくないしね」
「……えっ」
今、とんでもないことを聞いた気がする。
考え込んでいたことも頭から吹っ飛んでしまい、まじまじと本当に世間話のような体で呟いた彼を凝視してしまった。慎重に開いた口から出た声には、どうしたって驚愕が滲んでしまう。
「あ、あの、初耳で驚いてしまったのですが、ラン先輩、もしかしてお付き合いされている方が……?」
「うん? ああそうだよ、最近ね。……あ、でもまだレクスにも言ってないんだった。僕から伝えるまで内緒にしておいて」
衝撃の言葉をさらりと口にした彼に、さあっと血の気が下がった。動揺に椅子がガタ、と音を鳴らしたけれど、とても構っていられない。
「そ、それは……部外者の私が先に聞いてはいけないお話なのでは……!?」
「やだな、寂しいこと言わないで。シェルタは部外者じゃないよ」
そう言ってもらえるのは勿論嬉しいけれど、それとこれとは別問題だ。ソルシエル家の後継である彼の恋愛事情は学園の中でも注目の的だけれど、本人があまりに浮世離れした雰囲気を纏っていることもあり、交友関係の広いレクス先輩とは違って具体的な噂が持ち上がることは一度もなかった。
それはソルシエル家の後継と恋愛関係になることが、普通の学生同士のそれとは比にならない重みがあるということも理由の一つだ。こんな、さらりと口にするようなことでもなければ、レクス先輩より先に私が聞いていいことでもないはずなのに。
苦言を呈するべきだろうかと悩んだのは、けれどほんの僅かな間だった。
「……彼女にはこれから色々、苦労を強いると思うけど。───ランくん、って呼んでもらうだけのことがすごく嬉しくて、戻れなくなったんだ」
ふわ、と微笑んだラン先輩の表情が、いつになく柔らかくて、寛いだものだったから。
慌ててしまったし驚いたし、やっぱりレクス先輩に先に伝えるべきなんじゃないかとも、思ったけれど。……何だか、幸せをお裾分けされたみたいに私まで嬉しくなってしまったから、そうしたら咎める言葉なんてどこかに行ってしまった。自然と肩の力が抜けて、口元に心からの笑みが浮かぶ。
「あの……馴れ馴れしいと思われてしまうかもしれないんですけど、ラン先輩はすごく背負うものが大きくて、きっと気苦労も多くて……とても強い人だけれど、それでも心配だなと、思っていたので。だからラン先輩の重荷を一緒に背負ってくれる、心から想い合える相手が見つかったのなら、私も本当に嬉しいです」
彼が選んで、こんなに優しい表情で語る女性なら、きっと素敵な人なんだと思う。ソルシエル家のことだったり、一筋縄ではいかないこともあるのだろうけれど、二人の恋路が、どうか穏やかであるようにと願わずにはいられない。
もしも困ったことがあって、私に手伝えることがある時は必ず言ってくださいね、と伝えれば、彼は気の抜けた顔で笑った。
「馴れ馴れしいなんて思わないよ、ありがとうね。でもシェルタは僕を心配してくれてたんだ、君には先輩として、頼り甲斐のある姿を見せていたつもりなんだけど」
「あ、も、勿論頼り甲斐のある、心から尊敬できる先輩だとも思ってます! 本当です」
「はは、うん、そんなに慌てなくても分かってるよ。でもやっぱりシェルタに尊敬できる人だって言ってもらえるのは嬉しいな。……ああ、あと家のいざこざを気にかけてくれているみたいだけど、大丈夫だよ。いざとなれば精神魔法でどうにかするし」
なんてね、と悪戯げに続いた言葉に、私は頬を引き攣らせた。
精神魔法は相手との深い信頼関係や繋がりがないと成り立たないし、そうであったとしても下手に相手の精神に刺激を与えすぎるとこちらの精神も崩壊しかねないという、諸刃の剣もいいところの危険な魔法だ。いくらかのラン・ソルシエルとはいえ、おいそれと使っていいようなものじゃない。
たちの悪い冗談を嗜めるべきか、でも彼のお兄さんに冗談が通じないと思われるのも嫌だな、と悩んでいたら、ふと手袋に包まれた手がこちらに自然な仕草で伸ばされた。
「あ、シェルタ、埃が……」
その指先が、なんでもないように私の髪に触れようとしたから、驚いてつい身を引いてしまう。ラン先輩のきょとんとした表情が目に入って我に返るなり、やってしまったという焦りが湧いた。
他意なんて何もない、ただの厚意だと分かっているのに、それを無下にしてしまうなんて。……でも、レクス先輩の手じゃないと思ったら驚いて、自然と身体が動いてしまって。
彼が言った通り髪に絡んでいた埃を慌てて払い、私は必死になって謝罪した。
「す、すいません! 驚いてつい」
「いや、こっちこそ不躾だったよ、ごめんね。でも新鮮な反応だ」
特に気分を害した風でもなく笑うラン先輩に、私は眉を下げた。彼は元々懐に入れた相手には距離の近い人だし、髪に触れられる程度のことで拒否を示すような人は他にいないだろう。
だからこそ気分を害しても不思議はないのに、彼はこれからは口で言うね、気をつけるよ、と優しく助け舟を出してくれた。申し訳なさから沈痛な表情でそっと頷いた私に、ふと彼は優しい笑みを零して。
「シェルタは、本当に恋人に対して誠実だよね」
「え? いえ、そんなことは……、自分の本心だって、うまく伝えられないのに」
「そう自分を卑下しないで。大丈夫、君は本当に優しくて真面目ないい子だし、シェルタの恋人は絶対幸せだと思うよ。僕が保証するから」
「……あ、ありがとう、ございます」
彼の優しい励ましがじんわりと心に染みて、僅かに声が震えてしまった。何よりも、レクス先輩の大切なお兄さんにそう言ってもらえたということが、心の底から嬉しくて。
多分みっともないことになっている表情を見せるのは憚られて俯けば、それを察してくれたのか、彼は空気を変えるようにそうだ、と明るく声を上げた。
「ふと思い出したんだけど……シェルタ、前に預けたものは、まだ持っていてくれてる?」
「え?……あ、も、勿論ですっ」
「そっか、うん、ありがとうね。それだけで本当に助かってるんだ。悪いけど、まだ当分は頼むよ」
「そ、そんな大袈裟な……」
眉を下げて苦笑するラン先輩に、私は慌てて両手を振った。確かにとても大切に預かっているけれど、あれは場所を取るようなものでもなければ、彼がそんな風に申し訳なさそうな顔をするものでもない。何ならお節介を申し出たのはこちらの方だ。
でも、レクス先輩のお兄さんであり、心から尊敬している彼に信頼されているというのは喜ばしいことだった。その時の会話を思い起こしていれば、ふとその様子を見ていたラン先輩が口を開いた。
「そういえば、次は確か、レクスと恋物語を観るつもりだって言ってたよね」
「あ……は、はい。改めて言われるとちょっと恥ずかしいですけど、本当はそのために図書室に向かっていて」
「なら、預かり物のお礼というわけじゃないけど───おすすめの話があるんだ」
私が目を瞬いた先で、ラン先輩はにこりと朗らかな笑みを浮かべた。