17.彼の兄
「えっと……おはようございます、ラン先輩。これは現実なので、とりあえず起き上がっていただけると……」
「ん? あー……ふわ、うんごめんね、寝ぼけてた。最近ちょっと大変で」
ゆるくそう言いながら、欠伸をして伸び上がった彼は魔法陣に支えられるようにして身体を起こした。レクス先輩とは反対の耳に輝く白い花弁を模した魔石のピアスが揺れるのを、思わず目で追ってしまう。
彼が地面にしっかり両足を付けてから、ふ、と溶けるようにその姿を消した魔法陣は、けれど必要になればまたいつでも発動するのだろう。
ぱたぱたと手袋に包まれた手でローブを叩いていたラン先輩は、私を見下ろして穏やかな笑みを浮かべた。レクス先輩つながりで、ありがたいことに彼とも交流を持たせていただいているけれど、やっぱり不思議な人だといつも思う。
とはいえレクス先輩程ではなくても、私は勿論彼を深く尊敬していた。……だから物申すのは気が引けるけれど、今回ばかりは流石に苦言を呈したい。
「あの、疲れているなら尚更、机の上なんかで寝ない方が……そもそもラン先輩は、どうしてこんなところに」
「うん? ああ、実はこの近くに野暮用があって。それはもう済んだんだけど、静かな教室を見つけてちょっと横になって一休みしようと思ったら、うっかり寝落ちてしまったみたい」
平然と気まぐれな猫のようなことを言うラン先輩に、いつもそんな風に適当なところで寝てしまうのかと心配になった。勝手に発動した魔法陣を見る限り危険はないのだろうけれど、見つけた人の心臓に悪すぎるのでできれば控えてほしい。
物言いたげな私の視線に気がついたのか、ラン先輩は誤魔化すようにへらりと笑って、手袋に包まれた手で頬を掻きながら首を傾げた。
「シェルタこそ、どうしてこんな所に? 不気味で薄暗い教室が君にあんまり似合わないから、夢かと思ったよ」
「私は……っああ!!」
突然叫んだ私にラン先輩が目を丸くしたけれど、今の今まで忘れていた影脱走事件を思い出してしまった私はそれどころではなかった。
いくらラン先輩と出会ったのが衝撃的だったからって、こんな大事が頭から飛んでいただなんて自分が信じられない。私は俄かに混乱に陥った頭で、半泣きになりながら目を瞬いているラン先輩に詰め寄った。
「そうだ、あの廊下で影が、影が逃げ出したんです!! それでっ、この教室に……ど、どうしよう」
「影が?」
怪訝そうな顔をした彼が、す、と白い手袋に包まれたしなやかな指を宙へと踊らせ、何でもないように寸分の狂いもない魔法陣をものの数秒で描き上げてみせる。
すると陣からふわりと大きな光の玉が浮かび上がり、暖かな色で教室を隅々まで照らし出した。さっきまで不気味に感じていたその空間も、明かりさえあればただ雑多に資材が置かれた空き教室だ。
つん、とそれを指先でつついて天井近くまで浮き上がらせたラン先輩は、それから視線を巡らせると首を傾げた。
「……影、いい子にしているみたいだけど」
「え? えぇっ!?」
彼の言葉に足元に視線を落としてみれば、何事もなかったかのように影が私の下に収まっていて、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。確かに、逃げ出した影に導かれてこの教室にやってきたはずなのに。
訳が分からないけれど、生まれてこの方付き合ってきたそれが戻ってきたことは確かで、私はあまりの安堵に泣いてしまうかと思った。意味もなく手や足を動かしては、きちんと着いてくるそれを何度も確認してしまう。
気が済むまでそうしていたあと、胸に手を当てて深く息を吐けば、なんだか立っているのもやっとな疲労感が襲いかかってきた。
「よ、よか……よかったあ」
「あはは。もしかして、また失敗作の錬金薬を好奇心に負けて試して、おかしなものでも見えていたの?」
「えっ、いやそんなことは! ない、はずなんですけど……」
熱心に影を確認する私に苦笑してそう言うラン先輩に、勢い込んだ反論はどんどん尻すぼみになっていった。それは人いきれからから外れて休息を取っていた彼を起こして騒いでしまった罪悪感でもあったし、あれが幻覚か何かだと言われてしまえば時間が経つにつれ自信がなくなってきたからでもある。
間違いなくこの目で見たし、あれを追いかけてここまで来たはずだけれど、個人の主観や記憶ほど信用できないものはないと言うし。
いや、でもあれは確かに、と眉を下げる私に、とりあえず座って落ち着きなよ、とラン先輩は近くの椅子を引き寄せてくれた。
「廊下って言ってたけど、もしかしてあの別棟に繋がる廊下? 確かそんな噂があったよね」
「そ、そうです、そうなんです! 魔石ランタンが灯る瞬間に遭遇して、つい長居してしまっていたら、影が……」
「成程。あれは放課後廊下でたむろして道を塞ぐ学生が減るように、学園側が昔流した噂が色々脚色されたんだと思ってたけど……魔法科の誰かが、噂に乗っかって悪戯でも仕掛けた可能性はあるね」
だとしたら本当に悪質だ。何せ噂の行き着く先を思って、影を追いかけている間本当に怖かったのだから。あの時の恐怖が蘇ってきて半泣きになる私に、ラン先輩がふと思い返すように視線を宙へと投げた。考える時の癖なのか、その手袋に包まれた指先が小さな魔力の線を描いている。
「あまり僕にそういう俗な話を振る人はいないから、記憶があやふやなんだけど。なんだっけ、影に着いていくと異世界だか平行世界だかに連れて行かれる、って話だったかな」
「あ、そ、そうです。死んでしまうなんて話もあって、あと……」
運命の人に会えるという説がある、と言い掛けて、思わず口を噤んだ。考えすぎだと分かっているし、彼がそんなことで気分を害するような人でもないと知っているけれど、行き着いた先にいたのがラン先輩でがっかりしていると思われてしまうんじゃないか、なんて。
運命の人ではなかったけれど、尊敬する先輩だって大当たりなのは間違いない。幸い私が口篭ったことには気が付かなかったのか、ラン先輩は苦笑を漏らした。
「どれもこれも、実際に自分の身に降りかかるとなると遠慮したいものばかりだ。可哀想に、怖かったね。それに遭遇したのが僕だったら良かったんだけど。異世界にも魔法があるのか興味あるし、平行世界も悪くない。そうだな……僕が騎士で、レクスが魔法使いの世界なんてのはどう? シェルタは何だろう、お姫様かな。新鮮で面白そうだ」
「……、」
『魔法使いになりたいなんて幼い夢はずっと昔に置いてきたし、ラン兄様のことを、俺がどれだけ尊敬しているかは知ってるでしょ』
無意識なのか手慰みなのか、片手間に指先でいくつも小さく精密な魔法陣を描きながら、ラン先輩は冗談めかしてそう言った。お姫様なんてとても柄じゃないですよ、と愛想笑いでもなんでも返せばいいのに、以前聞いた夢の話を思えばとてもそんなことはできそうになくて、思わず瞳を揺らしてしまう。
……彼は夢を置いてきた、と言ったけれど、捨ててきたとは決して言わなかった。
咄嗟に黙り込んでしまった私に思うところがあったのか、ラン先輩はこちらに視線を投げると魔法陣を描いていた指先を止めた。最後まで線を繋ぐことはなかったそれを、特に未練を感じさせることなく消し去って穏やかに笑ってみせる。
「まあ僕は運動はてんで駄目だし、やっぱり騎士なんて御免かな。性に合ってるって大事だよね」
「……、はい」
躊躇いがちに頷きを返せば、ラン先輩はそれ以上その話題を深掘りしようとはしなかった。レクス先輩と彼は、こういうところも少しだけ似ていると思う。人の機微に敏くて、空気を変えるのが上手なのだ。
「影に関しては学園に報告してもいいけれど……目撃者が他にいないんじゃ、取り合ってもらえないかもしれない。魔力の痕跡がないか、僕が個人的に調べておくよ」
「えっ、そんな、ラン先輩にそこまでご迷惑をお掛けするわけにはっ」
「あれ、僕じゃ信用ならない?」
そんな風に言われてしまえば、固辞し続けるわけにもいかない。だってこと魔法において彼が信用ならなかったら、この世界で信じられる人なんていなくなってしまう。迷いに迷い、躊躇いつつも笑顔の圧に負けてお願いします、と呟けば、私の複雑な表情が余程面白かったのか、ラン先輩は口元に手を当てておかしそうに笑い声を上げた。
……レクス先輩と彼は面立ちは少し似ているけれど、やっぱり笑い方は全然違うんだな、と思いながらそれを見つめていれば、彼がふと目を細めて。
「……おや、影の件以外にも、お姫様の表情を曇らせるものがあるみたいだ」