16.影法師
ゆらり、と視界の端で何かが掠めて、私ははっと視線を足下に移した。気のせいかと思ったけれど、やっぱり違う。……私は動いていないのに、廊下に落ちる影が、揺らいでいる。──それに、形が。
この場所で影がこんなに伸びるはずはないのに、まるで私のシルエットをそのまま模ったような濃いその影は、信じられないことに持ち主に別れを告げるようにひらひらと手を振った。
息を呑んで言葉もなくそれを見つめていれば、まるでそれが当たり前であるかのように影が私から切り離され、一人でに走り出していく。
「な……っま、待って……!!」
訳がわからなくて青ざめたけれど、まさか自分の影を放っておくわけにもいかない。影は自分の分身であり、魔力的にも大きな意味を持つものだ。極端な話だけれど、呪いなんかに悪用されるなんてこともないとは言えない。
こんな異常事態、すぐにでも先生か誰かに助けを求めたいのに、折り悪く近くに誰もおらず、何より悠長なことをしていたら自分の影を見失ってしまいそうだった。
絡れそうになる足を叱咤して廊下を蹴りつつ、パニックになりそうな頭を必死で回してあの噂の詳細を思い出す。
影が逃げ出して、そうだ、その後は確か色々な話があった。……異世界や平行世界に迷い込む、はまだいい。いや、全然良くはないし勘弁願いたいけれど、まだ戻れるかもしれないという希望が持てる。ただ、死んでしまうなんて雑な説があったことを思い出して泣きたくなった。
まだ、来世に託すほど錬金薬の研究なんて全然できてないのに、こんなところで死んでしまうなんて絶対にいやだ。家族をどれほど悲しませるか想像もつかないし……彼にまだあの五文字だって貰えていないのに、成仏なんてとてもできっこない。
……そうだ、あとは、確かもう一つ。
驚愕と焦燥に飲み込まれて麻痺していた恐怖心が湧き上がってくると、それだけが唯一縋れるものというように彼の姿が鮮明に脳裏に浮かび上がった。
──……運命の、人に。
「……っ、レクス、せんぱい……っ」
普段授業以外でそうそう走ったりしないものだから、息も切れ切れになりながら、私は半泣きで恋人の名前を呼んだ。
今彼は騎士科の専用施設で鍛錬に励んでいるはずで、逆立ちしたってこんなところにいるはずがないと知っているのに。──でも。彼の方は分からないけれど、私の運命の人は間違いなくレクス先輩だ。
あの噂のどれかが本物だというのなら、彼のところに導かれていると信じていたかった。
まるで私を揶揄うように、もう少しで追いつけるというところでするりと躱していく影を躍起になって追いかけていれば、ただでさえこの時間帯は人の少ない別棟の、足を踏み入れたことのないような場所にまでどんどん誘導されていく。
走りながら大声でも上げてれば誰か来てくれたんじゃないか、と思い至った頃には、すっかり走り疲れて掠れた声しか出せない有様だった。
どれ程鬼ごっこを続けていたか分からないけれど、やがてもうとても走れない、と心が挫けかけたところで、影がするりと一つの締め切られた教室へと吸い込まれていく。
慌てて顔を上げてプレートを確認したけれど、そこには何も掛かっていなかった。ということは、恐らく空き教室か倉庫だ。全く馴染みのないその場所に躊躇いがなかったと言えば嘘になるけれど、ここまで来て尻尾を巻いて引き返すわけにもいかない。
私は荒い息を整える暇もないままに、震えそうになる指先を叱咤して、そっと扉に手を掛けた。
──力を込めればあっけなく、扉はガラ、と音を立てて開いていく。
露わになっていく内側はとても薄暗くて、まるでその一線を境界にした異世界みたいで、どくどくと鼓動が逸った。けれどカーテンが閉まっているせいかあまり光の届かない中でも、端に寄せられた机や浮遊魔法を解除し忘れた段ボールなんかがシルエットとして目に入って、じわりとした安堵を覚える。
少なくともその備品はこの教室が日常の延長線にあることを示している訳で、ここは異世界でも平行世界でもなさそうだ。この様子だと、やっぱり今は倉庫として使われている教室なのだろう。
そうあたりをつけ、躊躇いがちに足を踏み入れようとした私は、少し、いやかなり気が緩んでいた。
……だって、こんな辺鄙な場所にある薄暗い空き教室に、自分以外の誰かがいるだなんてどうしたら予想できるだろう。
ちら、と視界の端を掠めた、薄暗い教室の中で異彩を放つ輝きに、私は足を止めて何気なく視線を向けた。てっきり置いてある金属製の資材か何かが反射しただけだと、思ったのに。
──さら、と揺れた、暗闇の中でも月の光を封じ込めたかのようなその銀髪に、よく悲鳴を上げなかったものだと思う。けれど少なくとも、体感三秒くらいは間違いなく心臓が止まっていた。
何故か並べられた机の上に寝そべっているその人は、瞼を伏せてぴくりとも動かなかった。肩が少しばかり上下していなかったら、それこそ死んでいると勘違いしてしまってもおかしくない。
それは状況の特異さのせいもあるけれど、何よりも、精巧に作られた人形と言われても信じてしまえそうなほどに端麗な容姿と、浮世離れしたその雰囲気のせいだ。
普段アメジストのような輝きを見せる紫の瞳が今は下ろされた瞼に隠されていて、あどけないその寝顔にはやっぱり、少しだけ私の恋しい人の面影がある。
しかし今はそんなことはどうでもよくて、何故彼がこんなところで、こんなにも無防備に眠っているのかということが最大の疑問だった。
ラン・ソルシエル──学園創設以来の魔法科の天才であり、世界に名を轟かせ歴史に名を刻む魔法使いであり、私の恋人のお兄さんでもある。どの肩書きを取っても変わらないのは、こんなところで寝かせておいていい人ではないということだ。
薄暗く人気のない教室で一人寝ていても違和感がないくらい彼が不思議な空気を纏っているのは否定しないけれど、彼は一応血が通った人間なので、間違いなく剥き出しの机の上は寝心地が良くないはず。
あまりの驚きに何のためにここへ来たのかも半ば頭から吹っ飛び、私は恐る恐る彼に近づいて声を掛けた。
「ら、ラン先輩……? ですよね? あの、お、起きてください」
「……ん、」
控えめに声を掛ければ、むずがるようにその柳眉が顰められ、覚醒を拒むようにその身体が丸まっていく。
最高学年の首席生徒である彼に与えられた部屋はとても豪奢だと聞くので、その部屋の大きいベッドだったら多分それでも問題なかったのだろうけれど──雑に並べて置かれた机の上で上背のある男性がそんなことをすればどうなるかは、火を見るよりも明らかで。
私が慌てて手を伸ばすも、それは一歩遅かった。
ぐらりと傾いだ体は簡単にバランスを崩して、無防備にその体躯が宙へと投げ出される。頭から落ちそうだったものだから、血の気が引いて思わず短い悲鳴を上げたけれど……相手が誰なのか、私はもっと考えるべきだった。
「……シェルタ? あれ、もしかして夢かな」
震えた長い睫毛がゆっくりと持ち上がって、アメジストの瞳と視線がぶつかった。私はといえば、腰が抜けそうな安堵に襲われてまともに口をきくことさえできやしない。薄紫の淡い光を帯びた彼の身体は、床にぶつかる寸前でふわりと浮遊していた。
彼の背中に現れた大きな魔法陣は驚くほどに精緻に描かれていて、魔法に関しては専門外の私ですら長いこと見ていたら目眩がしてしまいそうだ。
普通の魔法使いであれば描くだけで数週間は過ぎてしまいそうなこの陣を、彼は瞬く間に正確に描き出してしまう。本当に、ソルシエル家の異端児と呼ばれるのも納得の所業だった。