10.贈り物
足が震えて立っているのもやっとの、真っ青なクラスの女子たちに、女性だったはずのその泥ガエルはガパリと脅かすように大きく口を開いて、怒鳴るように声を張り上げた。
『いいかい、次、どこだろうと似たようなみっともないことをしてみな。……世界中の泥ガエルが、絶対にお前たちを見つけ出して、頭から丸呑みにして腹の肥やしにしてやるからね!!』
『……き、き、きゃあああああああああ!!!』
泣き叫び、震える足のせいで何度も転んで私よりも泥まみれになりながら、縺れ合うようにしてクラスの女子たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
それをぽかんと見つめながらも、あんなに大きくて恐ろしい存在に思えていたその背中が、遠目にもひどくちっぽけに感じたことに、私はとても驚いていた。
それにフン、と鼻を鳴らす動作をした泥ガエルは、ふと足元に一人残った私に気がついて面倒臭そうな雰囲気を出した。
『あーほら、これであいつらも大人しくなるだろうさ。面倒だしあんたももうお行き、あたしゃ子供の世話なんか分かんないよ。ゲコゲコ、ほら、巨大泥ガエルだよ、恐いだろう。……ちょっと、なんだいその目は』
たじろいだような声で何か言われていたけれど、私の耳には入っていなかった。多分その時、幼い私の目は何よりもキラキラと輝いていたと思う。……すごい。こんなにすごいことは見たことがない。そんなうまく言葉にできないほどに強い感情で、私の心は埋め尽くされていた。
両の拳を固く握りしめながら、私はじりじりと巨大泥ガエルに近づいた。水かきのついたその前肢が戸惑ったように同じだけ逃げていくのも目に入らない。
『あの、あのっありがとうございます!』
『ああはいはい、礼はいいから……』
『お、おねえさんは、本当はカエルの女王さまだったんですか?』
『はあ? 馬鹿だねぇ、そんなばけもんがいたら討伐対象だよ。さっきのは錬金薬を飲んだだけさ』
カエルの時間はもうおしまい、と女性の声が呟くと、みるみるうちに巨大なシルエットが人間のものへと変わっていって、私はわぁっと歓声を上げた。幾許もしないうちに、目の前にいた巨大な泥ガエルは微妙な表情を浮かべた美しい女性へと戻っていて。
頬を真っ赤にしながら必死に拍手を送れば、女性は呆れたようなため息を吐いた。
『妙な子だね。化け物みたいなカエルを怖がらないなんて、危機感はどうなってんだい』
『? えっと、本当のおっきいカエルだったら、こわいし逃げます。でも、おねえさんはカエルでも人でもきれいです。なんか、優しいかんじがするから』
『、……』
興奮に浮かれたまま脳を介さず口に出せば、美しい女性はほんの少しだけ目を見開いて、それからどこか、寂しそうな笑みを浮かべた。憂いの浮かんだ表情はそれでも美しかったけれど、でもこの女性にはなんだか似合わない。
『口説いてんのかい、あんた。……まさか、その浮かれたセリフをまた聞くことがあるとはね。バカな旦那が昔よくそんなようなことを言ってたよ。からかってやろうと色んな動物に変化して会いに行ったけどね、何回やろうがあたしだって気がつくからムキになったもんだ……』
だんなさん、とおうむ返ししそうになって、でもその声が穏やかであんまり優しかったから、それはこの女性だけの宝物で、軽率に触れてはいけないことなんだなと何となく悟った私は口を噤んだ。
代わりに、れんきんやくって私にも作れますか、と声を上げれば、不意を突かれた様子だった女性は、次いで呆れたような表情を浮かべた。
『あんた、錬金術師になりたいのかい。曲者と変人ばっかで、実験実験の篭り切り、命に関わるほど危険なことだってザラにある。どれほど努力したって大した結果が出ないまま生涯を終えるやつもごろごろいるような世界だ、いじめっ子にやられているようなやつじゃ無理さ。悪いこと言わないからやめときな』
ひらひらと手を振って女性が軽く言ったそれは、成長した今でこそ実感を伴って深く頷けるもので、少なくとも錬金術師が子供においそれと勧められるような職じゃないというのは、錬金科の誰に聞いても同意してくれることだと思う。
でも子供の憧れなんて適当に肯定しておいたって誰も責めることはしないのに、いち錬金術師としてきちんと忠告してくれた女性は今思い返しても誠実だった。……ただ、それに耳を傾けて素直に諦められるほど、幼い私は聞き分けが良くなかったけれど。
『えっ、や、やだあ! えっとえっと……じゃあ私もくせものになります! 家に篭るのはすきだし、危ないのはやだけどがまんしますっ、いじめっこは、あ、明日皆ひとりでぼこぼこにするし、もしも一生を使っても結果が出なかったら、来世も使って、それで良い結果がでたら、再来世はもっとすごいれんきんやく、作ります!』
今になって思い返せば頭を抱えて布団に潜って転がり回りたくなるようなことを、けれど幼い私は大真面目に、ない頭を絞って高らかに宣言していた。
ぜいぜいと息を切らせて言い切った私に、その女性はしばらくぽかんと口を開けて、目をまんまるにして。……それからほんの微かに、その美しい黄金の瞳を揺らめかせた。
けれどそれが何の感情に起因するのか読み取る前に、彼女は少しずつ肩を震わせたと思えば、数瞬おいてそれはもう勢いよく吹き出して笑い始めて。
『はははは! あははははははは、ひーっ! そうかいそうかい! この歳までいろんなやつを見てきたけどね、あんたほど貪欲なやつはいないよ! 見目はおひいさんみたいなのに豪胆なこった、いいねぇ、あんた名前は?』
『シ、シェルタですっ』
『シェルタ……あんた気に入ったよ』
そう言ってにやりと口角を上げた女性の顔が何かに似ていると思ったら、この間読んだ小説の挿絵に出てきた「あくだいかん」だ。でも吹っ切れたようなその表情は、憂いの滲む美しい笑みなんかよりよっぽどこの女性に似合っていると思った。
ごそごそとローブの袖に手を突っ込んで漁っていた女性は、その中から引っ張り出したものを前触れもなく私に放るようにして渡した。
『ほら、特別だ。本当に錬金術師を志すってんならこれを持っておいき』
『え、わ、わっ』
ずっしりと重く感じるそれを見下ろせば、子供の手には少し大きい、美しい雫型の魔石がそこに収まって、深い輝きを放っていて。子供らしく宝石に憧れがあった私は、その美しさに思わず口を開いて見惚れてしまった。
でも、物知らずな幼い私にすら、それはとても簡単に人にあげていいようなものには思えなくて。戸惑いの表情を浮かべて女性を見上げれば、子供が変な遠慮するんじゃないよ、と彼女は呆れた表情を浮かべた。
『魔石は分かるかい? 錬金薬の素材として広く親しまれているものさ。素材として使ってもいいし、お守りとしての意味もあるから装飾品として持っていても構わない。まあ成長するまでは両親に預けるとかどうにかして、大事にしときなさい。不思議な縁の餞別だ、きっといつかあんたの役に立ってくれるだろうさ』
本当に気軽に女性はそう言ったけれど、私の手に収まるそれに向ける視線は温かくて優しくて、とても懐かしそうで。私はその女性と手のひらの中の美しい魔石を見比べて、少しだけ悩んでから、おそるおそる口を開いた。