第十話 タッチタイピング
ガチャン。
部屋のドアが開く音がする。
どうやら、シズネが帰ってきたようだ。
「ふあああー、疲れた〜」
シズネは欠伸をしながら、私とアミーダの部屋に入ってきたが、びっくりして立ち止まった。なぜなら。
時刻はもう夜の十九時。
それにも関わらず、部屋は真っ暗で私が何時間もいじっている、パソコンの画面が光っているに過ぎなかったからだろう。
シズネは慌てて電気をつけると、私たちを見比べた。
私は相変わらずパソコンをいじっているし、アミーダは今だに呑気にいびきをかいて眠っている。
「あ、お帰りなさい」
私は振り向いて、シズネに挨拶した。ただし、タッピングはやめずに。
シズネは私を見てしばらく呆然としていると、急に大声を上げた。
「ええーー!?」
「え、どうしたんですか?」
何を驚いているのだろう。
まさか私がこんな時間まで、情報収集に明け暮れているとは思わなかったのだろうか。
「パソコン、見ないで打てるの?」
「?はい。それが何か」
「嘘でしょ……」
シズネは、膝から崩れ落ちた。
え?どうかしたの?
そんな感じで周囲が騒がしくなったせいか、長時間寝過ぎたせいか、隣でアミーダがむにゃむにゃと何かを呟きながら起き上がった。
そして伸びをしながら私たちを見回すと、ぽつりと当然の疑問を口にした。
「え?何この光景?」
「あの……。どうかしたんですか?」
私は、なんか心配になってきたので聞いてみた。
知らない間に、何かとんでもないことでもやらかしていたのだろうか。
「まさかこんな短時間で、タッチタイピングを習得しちゃうなんて……」
「タッチタイピング?」
「キーボードのキーを見ないで、文字を打つことよ」
「ああ、そういえば見なくても打てますね」
「私なんて、一年近くかかったのに……」
ああ、そういうことだったんだ。
タッチタイピングという技術は、本来ならそんなに習得に時間がかかるものだったとは。
「すごいわ、チャリオネちゃん!」
「え、そうですか?」
「すごいすごい!なかなか、こんな短時間でマスターできるものじゃないわよ!」
「いや、そんな……」
褒められて悪い気はしない。
というか、すごく嬉しい。
元の世界では何もできなかったから、当然褒められることは一つとしてなかった。
だから、余計に喜びが倍増したのかも。
「まあ、いわゆる勘ってやつですよ」
なので、すぐ調子に乗った。
「すごいわねー。どうやってできるようになったの?」
「感覚的な問題なんで、ちょっと説明が難しいんですけど」
「へー、箒から落ちた人の言い草とは思えないわ」
「ちょ、アミーダ!あれとこれとは違うの!」
「かもね〜」
「何よ、その言い方!」
アミーダは、本当に皮肉が上手い。
しかもなぜだか、言われても不快にならない。
「でも、確かに違うかもしれないわね」
シズネは、何やら納得したように頷いた。
「どういうことですか?」
「チャリオネちゃんは、魔法っていう分野は苦手だけど、他の分野が得意なのかもしれないわよ」
「それって、つまり……」
「この世界の人で例えるなら、そうね……。音楽の才能は全くないけど、美術の才能がある、みたいな」
「でもその理論でいくと私、魔法使いとして終わってませんか?」
「チャリオネちゃんは、そもそも何で魔法使いになろうと思ったの?」
「うーん……。それは、家が魔法使いの家で、いわゆるレールに乗っただけみたいな感じです」
「今ってね、色んなやり方があるのよ。昔はこの世界も、学生は学校が全てっていう考え方だったんだけど、最近は違ってきてるわ」
「え、そうなんですか?」
「うん。学校とは別に、芸術関係の仕事についてる子もいるくらいだもの。それも、チャリオネちゃんたちと同じくらいの歳で」
「そうですか……」
この世界の人々の価値観は、時代の流れとともに変化しているようだ。
昔はダメだと言われてきたことが、今になって良いとされること。
元の世界にも、いずれはそんな時代がやってくるのだろうか。
私からしてみれば、元の世界にそんな可能性があるようには、感じられないのだけれど。
「ま、この世界に来て良かったこともあるかもね」
アミーダは、またしてもぽつりと言う。
「前も言ったけど、元の世界は魔法が全てだったじゃん。けど、この世界には魔法がない。つまり、あたしたちは魔法という分野でも頂点に立ってるわけだし、他の分野でも色々と芽が出るかもね」
「なるほど……」
確かに、言われてみればその通りだ。
この世界に魔法を使える人がいないということは実質、私たちは魔法のスペシャリストを名乗ってもおかしくないということ。
なんか、すごくいい世界な気がしてきた。
「ところでシズネさん。今日の晩ご飯、何?」
「今日はね、肉じゃがよ」
「何それ?」
「あれ?アミーダちゃんは、情報収集しなかったの?」
「悪いけど、あたし今の今までずっと寝てたんだわ」
「そうだったの。まあ、作れば分かるわ」
シズネはそう言うと、エプロンをつけて台所に立った。
するとアミーダは何を思ったんだか、パソコンのキーボードをたたいて文字を打ち始めた。
「あ、確かにむずいわ」
私の口もとが、少し緩んだ。
本当は早く元の世界に帰らなければならないのに、今のこの楽しい時間がずっと続けばいいのに、と思ってしまったのだった。




