第三話 黒陽
世話役達は置いていた桶を冷たい水の入った桶と交換し、女性の様子を見、俺の朝飯だと握り飯を置いて行った。
もう陽もしっかり顔を出した。
寺の朝食の時間は過ぎたようだ。
確かに腹も減っているが、この手を離すのもためらわれる。
まあ、一食くらい抜いても大丈夫だ。
それより彼女の手を握っていないと。
看病。そう、これは看病だ。
彼女が心細くならないように。
決して俺が握っていたいからではない。
うん、そうだ。
看病なのだから、仕方ないのだ。
俺が誰ともなく言い訳をしていると。
ちゃぷ。
水音に気付いた。
名残惜しいが彼女の手を離して、亀を入れた桶をのぞく。
亀が首を伸ばしていた。
うーん、というように伸びをして、だらんと力を抜いた。
そこで、覗き込んでいる俺と目があった。
「――久しぶりだな。智明」
うれしそうに亀が言う。
やっぱり喋るんだな。
というか、ともあき?
「いえ。俺は『智也』と申します。
お人違いでは?」
俺がそう言うと、亀はハッとした表情をして黙った。
亀って、表情読めるんだな。初めて知った。
「――そうか。スマン。勘違いだ」
亀はごまかすようにそう言って笑った。
どこかかなしそうな、そのくせ安心したような顔だ。
桶から顔を出して女性の姿を確認すると、亀はホッと息をついた。
「助けてくれて感謝する。ありがとう」
「とんでもございません」
声からして年上のようなので敬語で対する。
おまけに、対峙しているとわかる。
とんでもない霊力量だ。
おそらく、名のある亀だろう。
『主』とか『神使』とか、そういうモノかもしれない。
「ところで、ここはどこだ?」
問われるままに現状を話す。
京都の山奥の寺であること。
助けた日の翌日であること。
世話役が安倍家に連絡を取ると話していることも説明した。
「いや。連絡の必要ない」
亀はそう言って説明する。
「あの石は、位置を知らせるものだ。
ニ日経っているなら、もう数日もすれば向こうから連絡してくるだろう」
「では、本当に安倍家の方ですか?」
「いや、違う。
安倍で主座をしている男の知り合いだ」
説明が足りないと思ったのか、亀はさらに話す。
「昔ちょっと助けたことがあって。
それをいまだに恩義に感じて、なにくれと世話をしてくれている。
ありがたいことだ」
うむうむ。と、人間であれば腕でも組みそうな顔でうなずく亀。
亀って表情豊かなんだな。初めて知った。
「安倍家の方でないとすると、どちらの家の方ですか? ご家族は?」
俺の問いに、亀はさらりと言った
「姫の今生の家族はもういない。
それもあって、安倍家で世話になっているのだ」
天涯孤独、ということか。
この時代にはよくある話だとはいえ、彼女の顔を見ていると「お気の毒に」と思ってしまう。
なんにしても、安倍家の関係者というのは間違いないようだ。
「どちらにしても、ニ日も連絡がないとなると、先方もご心配では?」
そう言うと亀も「そうかもしれぬ」とうなずいた。
「やはりこちらから連絡させます」
「何。問題ない」
あの濡れて読めない紙を持ってこいと指示され、亀に渡す。
一枚に手を当てた亀は、そのまま話し始めた。
「晴明。黒陽だ。
姫も無事だ。心配するな」
亀がふっと紙に息を吹きかけると、紙はふわりと舞い上がった。
そのままくるりと丸くなり、白い小鳥に变化した。
そしてそのまま窓から飛んでいってしまった。
驚くしかできない俺に対して、亀は「これでよし」と満足そうだ。
そして亀は俺に向き直った。
なんとなく俺も背筋をぴっとのばして座りなおす。
「改めて。私は黒陽と申す。
こちらの姫の守り役だ」
「ご丁寧にありがとうございます。
私はこの寺に厄介になっております、智也と申します」
そして問われるままに俺の話をした。
五歳で寺に来たこととその事情、今十歳であること。
亀が「なるほど」「それは大変だったな」と熱心に聞いてくれたので、ついつい喋り過ぎた気がする。
「ところで」
話が途切れたところで、聞きたかったことを思い切ってたずねてみた。
「この女性の、お名前は」
「姫か?」
こくりとうなずく。
顔が赤くなっている気がするが、どうにもできない。
「竹様だ」
「竹様…」
なぜだろう。胸が熱い。
じんわりと染み込んでくるような、押さえていないとおちつかないような。
「竹様は、おいくつでいらっしゃいますか?」
「十三だ」
青秀の読みどおり。すごいな青秀。
俺より少しお姉さんか。でも、姉さん女房て言葉も聞いたことがあるし、問題ないだろう。
そこまで考えてハッとした。
な、何考えている俺!
姫様にも失礼だろう!!
だめだ。
姫様のことを考えると、頭がまわらない。
ちょっと落ち着こう。
「黒陽様、とお呼びしても?」
そうたずねると、亀は嫌そうな顔をした。
「お前に『様』付けで呼ばれるなど気味が悪い。
『黒陽』でいい。それか『亀』で」
「『亀』て」
いくらなんでもそれはないだろう。
「では、亀様」
「『様』ヤメロ」
「………黒陽」
「なんだ」
やれやれ。やっと話が進められる。
「何で黒陽と姫様はあんなところにいたんですか?」
基本的な質問をしてみた。
黒陽は一瞬沈鬱な表情になったが、それを隠すように「うーん」と目を閉じてうなった。
「……どう、説明すればよいのか……」
しばし無言の時間が流れる。
やがて黒陽が目を開け、俺にたずねた。
「『悪しきモノ』はわかるか?」
「わかります」
霊力が高い上に『境界無効』なんて特殊能力のある俺は、寺に入る前はしょっちゅういろんなモノにちょっかいをかけられていた。
それもあって家臣から特別視され、いつの間にか祭り上げられ、いつの間にか敗者にされていたのだ。
討伐こそ行っていないが『悪しきモノ』はわかる。
黒陽はざっくりと説明した。
「色々あって霊力が空っぽになった。
そこを『悪しきモノ』に狙われた。
で、うっかり崖から落ちた。
そのまま川に流された」
「…よく、ご無事で…」
「ホントにな」
アンタじゃないよ。姫様の話だよ。
アンタは甲羅があるから大丈夫だろう。
俺の微妙な顔に気づいているのかいないのか、黒陽は「それはそうと」と話を変えた。
「お前、霊力訓練をしていると言っていたな」
「はい」
こくりとうなずく。
「霊力を集められるか?」
「なんとか」
霊力操作は訓練の基本だ。
得意だといばって言えるほどではないが、まあ、それなりに、できる。
「じゃあ、霊力集めて姫に流せ。
金属性のお前なら、水属性の姫が受けやすい」
黒陽が簡単に言う。
「流せって、どうやって?」
「手をつないで」
ちょっとやってみろと言われ、姫様の手をとる。
柔らかい手。
庶民の働く手ではない。
貴族か武家の姫だろう。
手を重ねているだけで心臓がバクバクする。
そんな俺を気にも止めず、黒陽が指示を出す。
「自分に集めた霊力を、手から流し込むように」
「流し込む」
その言葉に、茶の湯の稽古が浮かんだ。
柄杓を使って茶碗に湯を流し入れる光景。
想像しながら霊力を操ると、自分の身体の中の霊力が、重ねた手を通じて姫様に入っていくのを感じた。
こういうことか?
「そうそう。やっぱり上手いなお前」
黒陽から合格が出た。
よかった。これで合っているようだ。
それにしても。
どうもこの亀は俺のことを知っているらしい。
先程から言葉の端々に知人に対する親しさが見える。
最初に挨拶したときに「久しぶり」と言っていたし、何かあるのだろうか?
俺の記憶にないくらい赤ん坊の頃に会った?
誰かから噂を聞いていた?
聞きたいけれど、聞いていいのかわからない。
黒陽が説明しないのならば、俺は知らないほうがいいことなのかもしれない。
俺の葛藤など全く意に介さず、黒陽は「ふわぁ」と大きなあくびをした。
亀でもあくびするんだな。
「じゃあ、あとは頼む。私はもう少し寝る」
突然そう言って首をひっこめる。
「え? 頼むって」
どういうことだ?
何をどうすれはいいんだ?!
焦る俺に、黒陽は再び顔を出し、片目だけを開けて指示した。
「姫に霊力流してくれ。
姫は熱もあるが霊力不足もあるから。
お前が集めて流してくれたら、早く回復する」
それは、つまり。
ずっと手を握っておく、ということか?
ずっと。
ずっと、この女性の、やわらかい手を。
顔に火がついたのがわかった。
はずかしい。照れくさい。でも、うれしい。
ついつい姫様の顔を見つめてしまい、また頭が沸騰する。
ぎゅっと手を握る。
うわ、俺、手汗がすごい。
どうしよう。姫様イヤじゃないかな。
真っ赤になってオタオタする俺に、黒陽がボソリとつぶやいた。
「えらく初心になったなお前…。
まあ十歳なら仕方ないか?」
どういう意味だ? と俺が口を開く前に、黒陽は桶の中にひっこんだ。
「お前の世話役が来たら起こせ」と言って、亀は本当に目を閉じてしまった。