第十話 名前
姫様の部屋に声をかけると、すぐに返事が返ってきた。
襖を開けると、姫様はこちらに向いて出迎えてくれた。
「どうかされましたか?」
夕食には少し早い時間だ。
いつもならば夕食時間ギリギリまで修行している俺が姫様を訪ねるとあって、姫様も首をかしげている。
「ちょっと、お話したいことがあって」
そう言うと、姫様はきちんと座り直し、話を聞く姿勢になった。
もっと楽にしたらいいのに。生真面目だなぁ。
そんな様子も可愛らしく見えるのだから、我ながら重症だと思う。
机の上には読んでいたであろう書類の束。
姫様は微熱といえるくらい熱が下がってから、ずっとこうして寺の書類を読んでいる。
主に退魔に関する書類だ。
どんなモノと対峙したか。
どんな方法で対処したか。
寺には報告書が残されている。
それは別に秘匿するものではない。
現役退魔師に回覧することもあれば、退魔師見習いの教本になることもある。
世話役達との雑談でその書類の存在を知った姫様が「読ませてください」と頼み込み、起きている間はずっと読んでいる。
熱があるのに布団の中で読んでいた時はさすがに取り上げた。
必死と言える勢いで、時には書き留めながら、退魔に関する事柄を読んでいる姫様。
「寝てばかりで暇ですから」なんて最初は言っていたし、俺もそんなもんかと思っていたが、黒陽の話を聞いた今ならわかる。
少しでも『災禍』の手がかりになるものはないか。
少しでも役に立つ情報はないか。
あるかもわからないものを、ずっと探しているのだ。
熱が下がった今は「安倍家の迎えが来るまで暇だから」と、やはりずっと書類を読んでいる。
「つまらないでしょう?」と聞くと「楽しいですよ」と笑っていた。
「本を読むのが好きなのです」と話してくれた。
それは多分本当だろう。
だが、読み物と報告書は違うと、子供の俺でもわかる。
しかも、読んでいる姫様の顔は真剣だ。
「暇だから」ではないナニカがあると、薄々感じていた。
「今日もずっと書類を読んでいたのですか?」
俺の問いに、姫様は気まずそうに笑った。
「つい、夢中になってしまって」
肩をすくめる様子もかわいい。
ちがう。そうじゃない。
ダメだ。姫様の側にいると「かわいい」でいっぱいになる。
「部屋にいてばかりでは健康に良くないですよ?
少し、散歩でもしませんか?」
「え。でも、お話は…?」
「散歩しながらお話します。
たいしたことではないんです」
そう言って笑う俺に、不思議そうに首をかしげる姫様。かわいい。いやだからちがう!
「小僧の言うとおりですよ姫。
少し身体を動かさないと、また具合が悪くなりますよ」
肩に乗せたままの黒陽が援護してくれる。
姫様は「黒陽まで」なんて言ってぷうとふくれる。かわいい。
ああ、もうダメだ俺。
姫様が何してもかわいいしか出てこない。
ダメな自分を振り切るように、無理矢理立ち上がる。
「さ! 姫様。行きましょう!」
強引に出かけるよううながす。
差し出した俺の手に姫様は戸惑っていたが、俺の勢いに押されたのか「はい」と手を取ってくれた。
やわらかい手をぐいっと引っ張り、姫様を立たせる。
「行きますよ」
そのまま手を離すことなく歩き出す。
姫様は大人しくついてきてくれる。
甘っちょろい姫様は、多少強引に話を進めたほうが言うことを聞いてくれる。
騙されたり利用されたりしないかと心配になるくらいだ。
そのあたりはきっとこのウルサイ守り役がしっかり排除しているだろう。
……してる、よな?
何だか急に心配になった。
なんだかんだでこの主従は抜けているところがある。
俺が『智明』だから気がゆるんで『そう』なのか、元々『そう』なのか、俺には判断がつかない。
今度黒陽にじっくり聞いてみよう。
寺の境内を抜けて川の側まで歩く。
六月も半ばを過ぎて日中はかなり暑くなってきた。
だが、川のそばは風が渡ればまだ涼しい。
姫様も歩きやすいだろう。
「最近は暑くなってきましたね」
「寺の暮らしはどうですか?」
などど、たいしたこともない話をしながら歩く。
手はずっと握っている。
姫様が寝込んでいるとき、黒陽に手を握って霊力を送るよう指示された。
そのためか、姫様は俺が手を握っても嫌がらない。
俺としては気恥ずかしい気持ちもあるのだが、それ以上に心配がまさり手を握っている。
なにせこの姫様は、かなりどんくさい。
何もないところでこけそうになる。
ぼーっと歩いて木にぶつかりそうになる。
よそ見をして足を踏み外しそうになる。
そのたびに俺が助け、結果歩くときは手を握るようになった。
ホントに年上か?! と、何度も思う。
本人はしっかりしているつもりらしい。
だが俺から見た姫様は、どんくさくて、おっちょこちょいで、抜けてて、甘っちょろくて、ただひたすらにかわいらしいひとだ。
世話をやいてやりたくて甘やかしたくて仕方がない。
だから俺が多少気恥ずかしいくらいは放っといて、姫様の手を握る。
手をつないで歩く。
そうするといつも胸が『きゅっ』てなる。
この『きゅっ』が何かよくわからないが、苦しいが嫌ではないので放置している。
ついでに顔に熱が集まったり、突然叫びだしたい衝動に襲われることもあるが、これもまぁ、おさえられているので、放置でいいだろう。
頭ひとつ背の高い姫様の横を歩く。
あと数年したらきっと俺のほうが背が高くなるはずだ。
そうなるようにしっかり飯を食おうと誓う。
サアッと川風が渡る。
髪を揺らす心地よさに、二人共言葉を忘れ、足を止めた。
その風に押されるように、ぽろりと言葉が出た。
「俺、進む道を決めました」
姫様が俺の顔を見る。
俺もまっすぐに姫様の目を見て、言う。
「退魔師になります」
姫様は驚いたように目を見開いた。
が、すぐに何か考えたのだろう。
ちょっと眉をよせた。
きっと自分のために俺が「退魔師になる」と言いだしたと考えている。
そのとおりなのだが、それは姫様には言わなくていいことだ。
甘っちょろいこの人は、自分のために俺が進路を決めることを良しとしないであろうことはわかりきっている。
だから、黒陽と話して決めた説明をする。
「寺に来た時から言われていたのです。
『退魔師になれ』って。
俺は霊力量が多いらしくて」
そう説明すると、姫様は明らかにホッとした。
そして、うんとうなずき、俺の話の先をうながしてきた。
「でも、すぐには決められなかった。
別に武士にこだわっているわけではなかったのてすが、進む道をひとつに決めるのが、こわかったというか、不安だったというか…」
思わず、つないだ手をぎゅっと握った。
不安だったのは本当。
胸の中にずっとあった『強くなりたい』という気持ちを第一に考えたかった。
そのためにどの道をとったらいいのか、わからなかった。
今の俺の第一は、姫様だ。
だから迷いなく退魔師の道を選べた。
でも、それは姫様にはナイショ。
そんなことが知れたら、この優しい人はすぐに俺から逃げ出すに違いないから。
「先日、本能寺で事件があったのをご存知ですか?」
姫様は突然変わった話題に、少し眉をよせながらもうなずいた。
「世話役達から聞いた」と答えてくれる。
「俺の実家は、織田のずっとずっと下の家臣でして。
織田の家臣で争いが起こるとなると、俺も進退を決めたほうがいいと、この前から青蓮に言われていたのです」
「そうだったのですか」
心痛を隠さず声をかけてくれる姫様。
俺の話に嘘はないからいいものの、この人騙そうと思ったら簡単に騙せるぞ。大丈夫か?
姫様を心配する気持ちはとりあえず脇においといて、話を進めていく。
「黒陽に修行をつけてもらって、色々話を聞いてもらっているうちに、やっと心が定まりました」
そうして呼吸を整えて、姫様に告げる。
「俺は、退魔師になります」
少しは男らしい顔で言えているだろうか?
わからないが、姫様がまぶしそうな、うれしそうな顔で微笑んでくれているから、まあ合格だろう。
「今日から退魔師見習いになります。
名も『青羽』と改めることになりました」
姫様はきょとんとしている。
この寺では、房によって名前につく字がある。
ひとつの房にはひとりの師匠が責任者として存在し、共に暮らしながら弟子達を指導しているのだ。
俺のいる房は青蓮が責任者なので、共に暮らす弟子達は皆『青』の字をつけている。
俺も今日からは青蓮の弟子になる。
『青』の字のついた名前になる。
「青羽、様?」
小首をかしげ、姫様が呼んでくれる。
かわいいなぁくそう。
「青羽でいいですよ」
そう言うと「青羽さん」と呼び直してくれた。
「素敵なお名前ですね」
「ありがとうございます」
くすぐったくて笑みがこぼれる。
姫様に『素敵』なんて言われるとは思ってもいなかった。うれしい。
つい浮かれて、以前から言ってみたかった望みがむくむくとでてきた。
「姫様」
「はい」
ごくりとつばを飲み込む。
嫌がられるかな。でも、今なら言えそうだ。
むしろ、今を逃すともう言えないかもしれない。
そんな気持ちに急き立てられるように、望みを口に出した。
「俺も姫様を、名前で呼んでもいいですか?」
姫様の手を握る俺の手の汗がすごいことになっている気がする。
だが、いまさら手を離すことはできない。
言葉を取り消すこともできない。
間違いなく赤くなっているであろう顔で姫様をじっと見つめ、答えを待っていると。
「――はい」
姫様が、うなずいた。
少し恥ずかしそうに。
微笑みを浮かべて。
かわいい。
かわいい。
どうしよう。胸が張り裂けそうだ。
とりあえず、許可が出たので名を呼ぼう。
「――竹様」
「…『様』なんて、つけなくていいですよ?」
すぐに訂正される。
口をとがらせて言うのもかわいい。
『姫様』と初めて呼んだときも同じように「『様』はいらない」と言われた。
あのときは安倍家の関係者だということもあり俺が押しきったが、今回は希望どおりにしてもいいだろう。
「じゃあ、竹さん」
「――はい」
名を呼んで、返事が返ってきた。
それだけ。
それだけなのに。
何だこの多幸感は!
さっきは張り裂けそうだった胸がなんだかあたたかい風が吹きわたってふくらんでいるようだ。
うれしい。うれしい。しあわせだ。
たまらないしあわせをかみしめていたら、姫様――いや、竹さんが、更にしあわせをぶち込んできた。
「青羽さん」
俺の目を見て、俺の名を呼んでくれる。
―――か―――
かわいい!! 愛おしい!! 大好きだ!!
ああ、しあわせだ!!
退魔師になるって決めてよかった!!
爆発しそうな気持ちをなんとか押し込め、にっこりと笑顔で返事をする。
「はい」
竹さんは恥ずかしそうに「うふふ」と笑い、落ち着かないのか俺の手を離そうとした。
反射的にぎゅっと握って離そうとするのを阻止すると、諦めたのかそのまま力を抜いた。
「――なんだか、へんな感じですね」
そう言う彼女がかわいい。
彼女には名を呼ぶのは『へんな感じ』らしい。
俺には『しあわせで爆発しそうな感じ』なのだが。
まあお互い呼び慣れていないから仕方ないな。
「慣れるまで練習が必要ですね」
「練習、ですか?」
「そうです。何事も練習あるのみです」
大真面目に言う俺に、竹さんはクスクスと笑う。
「竹さん」
目線で俺を呼ぶように催促すると、彼女は恥ずかしそうにしながらも、にっこりと笑った。
「青羽さん」
「そうそう」
上手上手。と笑顔でうなずくと、彼女もくすぐったそうに笑った。
「竹さん」
「青羽さん」
「竹さん」
「青羽さん」
お互いに口が慣れるまで、何度も何度も呼び合った。
胸が『ぎゅううぅっ!』てなったが、それよりも名を呼んでもらえる喜びが勝り、手をつないで歩きながらずっと名を呼び合った。
ずっと肩にいた黒陽があとで「甘すぎて胸やけがする」と言っていたが何か拾い食いでもしたのだろうか。
「意地汚いなぁ」と言ったら何故か殴られた。