第一話 亀を助けたら
新連載です。
『助けた亀がくれた妻』『紅蘭燃ゆ』の続きのお話になります。
読まなくてもわかるとは思いますがお読みいただけるとうれしいです。
黎明があたりを支配している。
山の濃い気配が霧となって漂っている。
薄暗い中をいつものように川原を目指して歩いていく。
手には木刀。
うるさい連中が起き出す前の、秘密の修行だ。
ここは京都の西の端、山奥の寺。
応仁の乱から始まった戦乱の世の中は、織田軍が京都に入ったことを受けまもなく収まるだろうと目下の噂だ。
戦ばかりのこの世の中。
武士の子息ともなれば、勉強も鍛錬も当たり前。
戦に出るのも当たり前。
人質になるのも当たり前。
家督争いの挙げ句、自分のように寺に預けられるのも当たり前。
全く面倒な世の中の、面倒な家に生まれたものだと思う。
知らない間に祭り上げられて、知らない間に敗者にされて、五歳でこの寺にきた。
殺されないだけマシだったと思う。
もうすぐ五年。自分は十歳になった。
寺での暮らしは悪くはない。
この寺は自分のように家督争いに破れた人間が多い。
そのため、教育機関としての側面が強い。
もしも還俗したときのための武士として必要な学問、基本的な武術だけでなく、身を立てる方法になればと医術や薬術も教えてくれる。
もちろん寺だから、経もよむし座禅やらなにやらの修行もする。
しかし、本職の僧達ほどは時間が割かれず、寺にいるものの、元の武家にいたころとさしてかわらぬ毎日を送っていた。
そんな中でひとつだけ、武家にいた頃には教わらなかったことがある。
霊力の使い方だ。
この世には『霊力』がある。
霊力は万物に含まれており、人間も、獣も霊力を持つ。
その霊力をためる『器』の大きさによって霊力の量が変わる。
大きな『器』を持ち、多くの霊力を持つモノは、人間は『能力者』と呼ばれ、獣は『霊獣』と呼ばれる。
そして、この世には『ヒトならざるモノ』もいる。
神、主、妖魔、幽霊。いろいろなモノがいろいろに呼ばれ存在する。
ヒトにとって善いモノ、悪いモノがおり、悪いモノはそのまま『悪しきモノ』と呼ばれる。
この寺の僧は、そんな『悪しきモノ』と戦うこともある。
そのため、寺に入るときに霊力の有無を調べられる。
その霊力に合わせて修行方法を決めていくのだ。
自分の霊力は、かなり多いらしい。
しかも、特化した属性があるという。
「このまま寺に残って退魔師になれ」と、昔からよく言われている。
別に武士にこだわっているわけではない。
あんな家も家臣もどうでもいい。
ただ、昔から、胸の奥に何かがある。
学ばなければ。
チカラをつけなければ。
何かが俺を急かしてくる。
じっとしていられなくて、修行に明け暮れる。
何になるかは、今は考えていない。
ただ、チカラが欲しい。
それが何のためのチカラかはわからないが、チカラを求めて毎日修行に励んでいる。
剣術と霊力訓練を特にやりたいのだが、他のことも学ぶべきだと理解している。
なので、「子供はちゃんと寝ろ!」とうるさい連中が起き出す前に、こうしてこっそり寺を抜け出して修行している。
修行して、こっそり布団に戻れば問題ない。はずだ。
最初は坊の庭で素振りしていたのだが、気配に聡い連中にすぐ気付かれて布団に戻された。
色々試した結果、少し離れたこの川原に落ち着いた。
ざあざあという水の流れる音を聞きながら、いつもの素振り場所を目指していると。
ちゃぷ。
常にない音に気付いた。
ふと気になり、音の方へ向かうと、何かが何かを引っ張り上げている。
黒々とした四足の生き物。
熊か? と警戒するが、どうやら違うらしい。
ずるり、ずるり、と何かを川原に引き上げた黒い四足は、やがて、パタリと動かなくなった。
動かないことを確認して、おそるおそる近づいてみた。
亀だった。
大きな、自分の背丈ほどもある甲羅の亀。
甲羅は黒々と艷やかに光り、まるで黒曜石のよう。
ぐったりとした黒い頭部の額部分には、日輪のような白い模様がある。
こんな大きな亀、初めて見た。
何でこんなところに?
そーっと顔をのぞいていると、亀の目がゆっくりと開いた。
生きてる!
驚く俺の気配に気付いたのか、亀が俺を見た。
その途端。
亀の目が驚愕に開かれた。
そのまま亀は穏やかな笑みを浮かべ、安心したように力を抜いた。
「――また、助けに来てくれたのか……」
しゃべった!
亀が人の言葉をしゃべるなんて。
しかも、父くらいの年齢の男性の声。
一体この亀は何だろうと警戒しながらさらに近づく。
「スマン…。姫を、頼む…」
亀はそう言うと、見る見る小さくなっていった。
あっという間に自分のてのひらと同じくらい――普通の亀の大きさにまでなった。
信じられない気持ちで亀を見た。
しばらく呆然としていたが、ふと思い出した。
そういえば、姫がどうとか言っていた。
何のことだろうと辺りを見回し、驚いた。
女の人が倒れていた。
身体を半分水に沈め、うつ伏せている。
大きな亀の影にかくれて見えていなかった。
女房装束をまとった女の人だった。
何でこんな川原に? と疑問は湧いたが、とりあえず近寄って顔をのぞき込んだ。
その途端。
心臓を、わしづかみにされた。
――この人だ。
何故か、そう思った。
何が『この人』なのかはわからない。
ただ、『この人だ』とわかった。
魂が叫んでいる。
この人だ。この人だ。やっと会えた!
身体が震える。
腹の底からナニカが湧きあがってくる。
おそるおそる手をのばし、そっとその人の頬に触れる。
やわらかさに一瞬手を引っ込めたが、もう一度そっと触れる。
まるで氷のように冷たかった。
――冷たい
――冷たい?
ハッと気付いた。
冷たい!
助けなければ!
あわてて亀を懐に押し込み、木刀を袴の紐に差し込む。
女性の身体を少し持ち上げ、隙間に自分の身体をねじ込む。
普段の修行の賜物か、十歳の自分でもなんとか背負えた。
びしょびしょの着物が自分の着物も濡らすが、構わなかった。
女性はぐったりとして動かない。意識がない。
早く着物を脱がせて、温めなくては。
大急ぎで坊に戻り、世話役達を起こして女性の手当をした。
早起きして抜け出したことがバレて、こっぴどく叱られた。くそう。
布団で横になる女性を横で看病する。
熱が上がってきたので、こまめに額の布を冷やす。
亀は浅く水を張った桶に入れて、女性の横に置いておいた。
不思議なことに、女性には俺しか触れることができなかった。
世話役達が言うには、女性は強い結界をまとっているらしい。
何故俺だけ触れられるのか。
きっと俺の特殊能力のためだろう。
俺には昔から特殊能力がある。
『境界無効』。
結界でも、異界でも、関係なくすり抜けてしまう。
この能力があるから、数え切れないほどの面倒事に巻き込まれた。
この能力があるから、退魔師の多いこの寺に預けられた。
この能力があるから、女性の纏う結界も効かないのだろう。
初めてこの能力に感謝した。
何歳くらいだろう。
十歳の自分よりは年上に見える。
着替えを手伝ってくれた大人の世話役達が彼女の裸を見て「十三、四てとこか」と話していた。
医療従事者でもあり葬送者でもある彼らは、老若男女問わず裸を見ている。
見れば大体の年齢がわかるらしい。
俺は見ていない。
世話役達はすぐに女性の身体に布をかけてくれたし、「手を上げて」「右に向けて」と指示されるとおりに女性の身体を動かす間、ずっと目を閉じていた。
肌に触れているだけでも脳味噌が沸騰しているようだった。
彼女は一体何なんだろう。
何であんなところで倒れていたんだろう。
あの亀は何なんだろう。
何でこんなに落ち着かないんだろう。
わからないことだらけで、それでも彼女の側にいたくて、ずっと横で看病していた。