梟雄の末路
1529年に宇喜多直家は生まれた。そして、1581年の3月18日に死ぬ。その間52年。日数にして、約19000日ぐらいだろうか。日が昇って、沈んでを19000回繰り返したということだろうか。その時間を宇喜多直家というこの人物は何をして、何を考え、どうしたのだろうか。それを考えてみたかった。
生誕
宇喜多直家。戦国時代の備前国の武将である。しかし、彼は数え6歳で武将ではなくなった。祖父、宇喜多能家と父、宇喜多興家など一家の者と暮らしていた砥石城(岡山県邑久町)が落城した。攻めたのは、嶋村盛実。祖父、能家と同じ、浦上氏に仕えていた一族であった。祖父、能家は自害。直家は父、興家と放浪の旅を送ることになる。
嶋村盛実は同じ浦上氏に仕える者ではあったが、宇喜多能家とは不仲だったという。
不信、裏切り、競争etc.直家の生まれたところの、すぐそこには、それらが充満していた。それが、直家の性格形成に影響を与えたのであろうか。もし、直家が現代の何不自由なく穏やかな家庭で生まれたならば、状況は変わっていたのだろうか。とは言っても、直家を哀れに思う必要はないだろう。
その後、興家、直家親子と家臣の面々は流浪の後、備前福岡の豪商、阿部善定の下で庇護されることになる。この頃、阿部善定の娘を娶った興家との間に直家の異母兄弟である宇喜多忠家が生まれたようである。後年、忠家は「兄と会うときは何をされるか分からないから、鎖帷子を着込んでいかなければならない。」と言っていたという。どこまで本当のことかは分からないが、それだけのことを直家の約19000日間の行いが物語っているのだろう。
父、興家は流浪のまま没した。
元服
直家は数え15歳の1543年に、主君を持った。主君の名は浦上宗景。当時、浦上氏は兄の政宗と弟の宗景に別れて争っていた。宗景が直家の美貌を目にして、配下にしたという話もあるようだが、おそらくは、兄、政宗と対立していた宗景が、流浪中の宇喜多家の跡取りを見つけて、宇喜多家の再興とともに一人でも多くを味方につけておきたい宗景の意向とが合致したというところではないだろうか。この頃、直家の家臣は30人足らずとも言われる。宗景としては、この流浪の亡家宇喜多家に、たいした期待もしていなかったと思われる。しかし、蓋を開けてみると、不気味なほどに宗景の忠誠と向上心を満たしてくれることに気づいた。それは不気味なほどではあった。
「宇喜多のせがれ。」
は初陣で見事な功を挙げた。それは彼の家臣たちの功でもあった。それにより、直家らは城主になった。宗景に仕えた翌年のことである。1544年のその年。直家は乙子城主になるとともに元服を果たした。
5年後の1549年には、砥石城主、浮田山和を討ち、祖父以来の城を取り戻した。そして、その功により、奈良部城を主君、宗景から与えられたという。直家、数え21の歳である。
宇喜多家臣
岡利勝、富川秀安、長船貞親。以上の三人が後に宇喜多三老と呼ばれることになる。この三人はいずれも直家と同じ年頃か、あるいは少し下であると思われる。宇喜多家臣の中には、相次ぐ戦の中で命を落としていった者たちもいただろうが、彼ら三人はいずれも後年まで、命を長らえ、また戦の中で戦功を挙げた者たちであった。そして、彼らは直家の覇道、あるいは梟雄と言われる所業を支えた者たちである。しかし、本当にそうなのだろうか。直家こそ彼らの所業や期待、相次ぐ進言の中に埋没し、自分を宇喜多家の当主という合理的で、実務的で、実利的なシステムの存在として在らしめたのではないだろうか。その意味では直家は戦国の被害者だったのだろうか。宇喜多家当主である成果を示すのに、そのシステムたる直家が取った最も効率的で合理的な選択行動が暗殺であり、謀殺であった。
中山信正
宇喜多直家といえば、生涯に暗殺、謀殺を繰り返し、領土を広げた戦国の梟雄と言われる。最終的にその暗殺を選択したのは、直家であろうが、その経過には、家臣や主君、浦上宗景の影がちらついている。
備前沼城主に中山信正という者がいた。彼は直家に謀叛の疑いがあると指摘される。そこで、中山信正は娘を人質として、直家に嫁がせることにした。
1559年。再び、中山信正に謀叛の疑いが掛けられる。今度は舅中山信正である。直家は数えで31歳である。
「中山信正を殺せ。」
命じたのは主君の浦上宗景のようではあるが、はっきりしない。当時、兄の浦上政宗は尼子氏と同盟を結び、対して、宗景は毛利氏と同盟を結び、お互いに対立していた。もともとは一族同士での争いではあったので、家臣がいつ裏切ってもおかしくはない状況だったと思われる。そうした一連の中で、中山信正の暗殺が命じられたのではないかだろうか。宗景は直家を信用して命じたのだろう。とは言っても、信正は舅である。
「それならば、お引き受けする代わりに、嶋村盛実を沼城に誘き寄せ下さい。」
そうしたやりとりがあったがどうかは分からない。舅を殺す代わりに祖父の敵を取る。対価交換だったのか。後世の作り話なのか。
ある夜、直家と信正が沼城で酒を飲んでいると、信正はいつもの如く、酔って眠ってしまった。直家は刀を抜き、眠っている舅中山信正を斬殺した。同じように、主君宗景により沼城に呼ばれていた嶋村盛実も家臣たちの手により斬殺された。直家の妻であり、中山信正の娘は離縁された後、行方は分からなかった。
「(敵を討った。)」
そう思ったのだろうか。流浪の後、30人足らずの家臣を率いた宇喜多家当主は、今は数ある城を持つ城主となった。しかし、主君である浦上氏は兄弟で争っている最中である。祖父能家は同じ浦上家臣の嶋村盛実に不意を討たれて死んだ。戦国の備前国は小規模な勢力が争い合い、安定した権力というものは存在しなかった。そうした不信と不安と競争と権力争いの中では終わりがなかった。
「(次はどうすれば良いか。)」
直家の頭は休むことはなかった。常に自己保存の欲求が働き、生まれるのは疑心、妄想、恨み、勝負、優劣、いかに相手に騙されないか、相手の先を読むか、いかに腹を隠すか、相手の心を読むかであった。それは、終わりがなく、幽霊や亡霊を相手に永遠に終わることのない戦いを繰り返しているようなものである。
「(私は修羅道の中にいるのか。)」
直家は眠られない寝所の中で、三度四度の反転の後にそう思ったことがある。それは的を射た気付きであったのかもしれない。
税所元常
「(平地が欲しい。)」
直家はそう思っていた。備前、美作は山間部が多い。従って、南の岡山平野に出ないと米作や商品流通に不便であった。
「龍ノ口城を攻める。」
岡山平野に出るにはその北方に位置する龍ノ口山上の山城を落とさなければならない。城主は税所元常であった。直家は異母弟の忠家に命じて、龍ノ口城を攻めさせた。しかし、天然の要害である龍ノ口城を落とすことは容易ではなかった。
「(我らが生き延びるにはどうすれば良い。)」
夜も眠らぬ日があるほどの直家の頭は極論に至る。戦国乱世の習いなのだろうか。
「直家殿。それならばこうしたらどうでしょうか。」
家臣たちの頭も同じであった。宇喜多三老の一人、長船貞親が提案した。
「そうしよう。」
すぐに準備がされた。美男子で有名な岡清四郎という少年が呼ばれた。
「龍ノ口城主税所元常と懇意の中になり殺せ。」
それが清四郎に命じられたことであった。税所元常は好色家で美男子好きであると言われていた。
「(清四郎はうまくやるだろうか。)」
直家は寝所で寝ていた。目は開いていた。
「(今は清四郎に任せるしかない。)」
不益な妄想に疲れた頭は思考を停止させて、やがて直家は眠りに着いた。
やがて、岡清四郎は税所元常にうまく取り入り、寝首を掻くことに成功した。
「龍ノ口城を滅ぼせ。」
直家は家臣たちにそう命じた。主君を謀殺された龍ノ口城はなだれ込む宇喜多の軍勢に破壊されていく。その中にはあの、岡清四郎の姿もあった。
三村家親
龍ノ口城を落城させた翌年の1562年。税所元常の主家にあたる松田元輝と直家は和睦した。そして、元輝の子、元賢に娘を、元輝の家臣、伊賀久隆に妹を嫁がせることになった。
「(当面の相手は三村家親か。)」
三村家親は備中松山城主である。毛利氏と結んで、この頃は備中の大半を占める勢力となっていた。
翌、1563年。浦上政宗と宗景が和睦をした。政宗は尼子氏と結び、宗景は毛利氏と結んでいた。1560年には、宗景は同じく、毛利氏と結ぶ三村家親とともに、政宗と尼子氏の軍勢を敗っている。直家が龍ノ口城を落城させた1561年に、当主の尼子晴久が亡くなると、尼子氏の勢力は弱体化した。後ろ盾を失った政宗は宗景と和睦をせざるを得なかった。しかし、政宗は野望を捨てず、播磨の黒田職隆と結び、宗景に対抗しようとした。
1564年の1月。浦上政宗の居城、室山城で、政宗の子、清宗と黒田職隆の娘との婚礼が行われていた。そこを赤松政秀が襲い、政宗親子と職隆の娘は命を落とした。
「(良かった。)」
その報を聞いたとき、直家の中には安堵を感じる自分がいた。赤松政秀は浦上政宗や黒田職隆の主家、小寺氏と争っていた。政秀が浦上政宗親子を襲っていなかったとしても、いずれは直家が主君、浦上宗景の命令により手を下していただろう。
この頃、直家は一人の女性に出会った。名はおふく。芳名、円融院。
「(似ている。)」
おふくに会った直家はそのような印象を受けた。おふくは美作高田城主、三浦貞勝の妻であったが、貞勝が三村家親に滅ぼされてからは、子の桃寿丸と流浪していた。このときおふくは数えで16歳であった。沼城でおふくと桃寿丸母子に対面した直家は、いつか、己が殺した舅中山信正の娘のことを思い出していた。
「(顔が似ているのだろうか…?)」
そうは言っても、既に、かつての妻であった信正の娘の顔は忘れていた。そこだけ記憶から抜け落ちたようではあった。直家は主君、浦上宗景の命により、舅を殺した。そのとき妻も離縁した。今も生きているのか、尼となったのかは知らない。妻の顔も姿形も覚えてはいない。かろうじて直家の記憶の中の信正の娘とおふくが似ていることと言えば、年齢ぐらいであっただろうか。
「母子ともに仕えると良い。」
おふくと桃寿丸は宇喜多家に留まった。
1566年。三村家親が軍勢を伴い美作国へ侵攻した。
「三村家親を始末せよ。」
宗景は直家に命じた。直家はシステマティックに三村家親の暗殺計画を立てた。このとき直家の食客に遠藤俊通、秀清という兄弟がいた。もとは阿波細川家の浪人といい、鉄砲の扱い方がうまかった。
「この短筒で三村家親を殺せ。」
直家は二人の遠藤にそう命じた。2月5日。三村家親は興善寺にて評議の最中、遠藤兄弟の撃った短筒の玉により命を落とした。三村家の軍勢は備中へ退却。後、直家は褒美として遠藤兄弟を召し抱え領地を与えたという。同じ頃、浦上宗景は兄政宗の遺児、誠宗をその家臣を裏切らせて殺している。
明善寺合戦
三村家親暗殺の翌年、跡を継いだ子の元親は、父の弔い合戦を目論んでいた。1567年。7月。三村元親の先駆けに夜襲を掛けられて明善寺城は落城。明善寺城には三浦勢150騎が籠もった。残る三村元親は2万の軍勢を率いて備中沼城を目指した。対して、宇喜多家は5千の軍勢を率いて沼城前方の古都宿に本陣を置いた。
「(三村元親は何を考えている…。)」
直家は強風の中、床几に腰掛けていた。直家の頭の中では、直家が元親のことを考え、その元親が考えたことをさらに直家が考える。永遠に循環を繰り返すかのような考えはさらに、元親の家臣や直家の家臣のことへも巡っていく。不安、不信、疑心を苗代にした思考の中で、直家はただ、辺りを吹く風の音を聞いていた。
「(おふく。)」
突然、直家の思考におふくが現れたとき物見から報告があった。三村勢は三方に別れて進軍中だという。
「来た。」
直家は全軍に命じた。向かうは明善寺城であった。本拠沼城の守りを捨てて、本陣自ら明善寺城攻めに参加した。僅かの間に城は落ち、火の手が上がった。
「明善寺城が落ちた。」
城から逃げて来た兵に、三村勢先陣の荘元祐がそう聞いたとき、既に直家たちは行動を起こしていた。宇喜多忠家、富川秀安、長船貞親らが鉄砲を打ち掛けながら攻めるに攻めた。混乱の最中、荘元祐の軍は敗走。同じく、三村勢中軍の石川久智の軍勢も荘元祐の軍勢が壊滅したのを聞くや否や宇喜多勢の攻撃を受けて四散した。
「明善寺城に火の手が上がっている。」
本隊の三村元親は遠くに上がる煙を視認した。次に、他の三村勢二軍ともが退却したという報せを受けた。
「宇喜多のクソタレめが!」
元親は残りの部隊で父の敵である宇喜多との決戦を決めた。
「(敵がこう来て、ああ来る…。)」
直家は本陣を高屋村に移していた。直家も元親と決戦する覚悟であった。
「ふふ…。」
一通り布陣を終えたとき、直家は微かな笑い声を上げた。隣にいた異母弟の忠家だけがそれを聞いた。直家は、岡利勝と忠家を前衛に配した。そして残りの部隊を密かに元親の左右に回り込ませた。
「いざ弔い合戦ぞ!」
元親の軍勢は一丸となって、直家率いる本陣に向かって突撃してきた。しかし、前衛の部隊が手強くなかなか打ち破ることができない。そうこうしているうちに、いつのまにか宇喜多の部隊に左右に回り込まれて包囲された。奇しくも、もともと三村勢が宇喜多勢に仕掛けようとしていた三方からの攻撃作戦を元親は直家に仕掛けられてしまった。
「もはやこれまで!」
壊滅に陥った本陣の中で討ち死にを覚悟した元親であったが、家臣にたしなめられて退却を開始した。
「(ようやく終わったか…。)」
兵のざわめきの中、直家は床几に腰掛けた。辺りは強風と喧騒に囲まれている。合戦が終わってしばらくしてからも、余韻が冷めることはなく直家の頭の中で千々に乱れていた。
松田元輝
明善寺合戦のとき、直家の義兄弟である松田元輝は援軍を出さなかった。宇喜多家と松田家の関係は悪化した。
1568年。宇喜多家と松田家の間で鷹狩りが催された。その中で、直家は松田家臣、宇垣与右衛門を弓で射殺した。
「鹿と間違えた。」
直家は一言そう言ったのみだった。松田元輝は直家に何も言うことができなかった。
「このままでは我らも殺されてしまうだろう。」
元輝の家臣らはそう思った。義弟であり、元輝の家臣である伊賀久隆は直家に寝返ることにした。元輝の居城、金川城を久隆は包囲した。
城が包囲されたとの報せを受けた元輝は自ら櫓に登り相手が誰であるかを認めた。
「奸臣、伊賀久隆!」
元輝がそう叫んだとき、彼の体を銃弾が貫き、そのまま櫓から落下した。元輝の子の元賢は城から脱出したが、途中で久隆の軍勢に見つかり討ち死にした。元賢討ち死にの報せを聞き、元賢の妻である直家の娘も自害した。金川城は直家のものになった。それから直家は無口になった。
謀叛
浦上家臣の中で直家は大きな勢力を誇るようになった。
「(ここら辺が潮時か…。)」
直家は、今まで主君宗景や自分がやってきたように、いつ自分が刃を向けられることになるだろうかということを常に計算していた。
1569年。播磨の赤松政秀と結び、主君、浦上宗景に反旗を翻した。
「(死ぬ前に生きなければならない。)」
直家の頭は妄想に取り憑かれていた。それは本当に妄想だったのだろうか。それとも起こりうる予測だったのだろうか。結局、この謀叛は赤松政秀が、黒田職隆、官兵衛父子らに敗北し、宗景に降伏することで失敗する。孤立した直家は宗景に謝罪し降伏した。
「(生きるも死ぬも必定。)」
死を覚悟した直家であったが、その反面、外皮の直家は宗景に心に真に謝罪をし、忠誠を誓い、許しを請うた。
「(おそらく許してはくれるだろう。)」
直家の人格は二重、三重に重なり合い宗景の前面に存在していた。
「許す。」
宗景はそう言った。
「有難うございます。(甘いやつだ。)この直家、今後は宗景様に忠誠を誓いお仕え致しまする。(助かった。)」
直家の思考と言動は一致していなかった。直家の頭には、思ってもいないのに勝手に言葉が浮かんでくる。それは他の誰か、あるいは神仏悪鬼の類が直家に語っているかのようであった。
直家の娘が宗景の子、宗辰に嫁ぐことになった。
「(婚姻など何の意味があるのだろうか。)」
宗景も直家も、もしものときには人質など構うことはない。それは金川城で証明されたことであった。
「(そういえば、以前にも、何かあったような気がするが…。)」
それは、宗景の命で舅中山信正を手にかけたときのことであった。しかし、なぜか直家はそのことを思い出せないでいた。
1570年。家臣となっていた岡山城主、金光宗高を謀叛の疑いで切腹に追い込んだ。
「自害すれば子には所領を安堵する。」
そうして直家は念願の岡山城と平野を手に入れた。
おふく
1572年。ときに直家は自分というものを失っていた。時折、本当の自分自身とは何なのだろうかと思った。それだけ、直家の思考は多様性を見せて、収束することがない。策謀は相手の裏を掻き、己の裏を掻く。寝所に入り一人になったときなどには、自分が今、ここにあるという感覚がなくなり、自分の体が自分のものではないかのように感じることもあった。
「(何という名前だっただろうか…。)」
直家が寝所で考えていたそれは、中山信正の娘のことであった。しかし、その消えた記憶は、現在のことと混同し、かつての舅、中山信正の娘は今、隣にいるこの、自分と20歳年の離れた女性と同一の存在となった。おふくは直家の継室となっていた。直家数え44歳。おふく数え24歳である。
「おふく。」
「はい。」
「すまぬことをした。」
直家の謝罪が何の意味を持っているのかおふくには分からなかったし、どうでもよかった。幼い頃、戦により夫を失い、その敵とも言える三村家親は、今、目の前にいる男の命によって殺された。子の桃寿丸は、今年で12歳になった。
「(詮無いこと。)」
それは何に対してであっただろうか。おふくには、この目の前にいる男の命運が分かっていた。容易に予測はついた。この男はこの戦国乱世のシステムの中で、そこから抜け出すこともできず、一生を終える。それは自分も同じことなのかもしれない。後世、平和な世の中が来たら、この男は悪人として世に流布されるだろう。それが、定めであり、役割であり、システムの一部であった。
「(詮無いこと…。)」
すべてを諦めるかの如く、おふくはもう一度、その言葉を呟いた。
その年、直家とおふくの間に子が生まれた。宇喜多家二代目当主、宇喜多秀家である。
独立
1573年。この年の夏、畿内では織田信長が室町幕府15代将軍、足利義昭を追放。約200年続いた室町幕府は滅びた。また信長は近江、越前の大名浅井、朝倉を滅ぼして、畿内の政権を安定させた。
12月。織田信長の仲介で浦上宗景は播磨の大名別所長治と和睦。信長により、宗景は備前、播磨、美作3ヶ国の支配を承認された。
「(播磨の別所長治や小寺政職が宗景の被官…?)」宗景と信長の約定にはそう明示されていた。
「(ふむ…。)」
直家は少しの間、考えた。隣にはおふくがいた。
「少し出掛けてくる。」
突然、直家は気配もなく、部屋を出ていった。播磨の小寺政職のもとには、宗景の兄、政宗の孫である久松丸が預けられていた。直家は政職に連絡を取り、密かに久松丸を備前国に引き入れた。
1574年。3月。宇喜多直家は9歳の久松丸を浦上家の正統な世継ぎとして擁立し、再び浦上宗景に謀叛を起こした。以前の謀叛から5年後のことである。
「(二の舞は取らぬ。)」
今度は、備前や美作の豪族たちも事前に引き入れた上での謀叛であった。さらには、直家は毛利家の支援も受けることに成功した。
「宇喜多のクソタレなどと協同などできるか!」
父、家親を殺され、明善寺城合戦で大敗した備中松山城主、三村元親は協力を拒んだ。彼は毛利家を離反し、信長や宗景と通じた。
1575年6月。毛利家の大軍に攻められて、三村元親は松山城に自刃した。9月には、家臣の内応により宗景は天神山城を捨てて播磨に逃れた。
「宗景は逃げたか。」
晴れて宇喜多家は備前国を支配し独立を果たした。
「(主がないとは不思議なことだ。)」
従属関係が切れた。毛利家とは主従関係ではなく、同盟関係である。久松丸は名目に過ぎない。直家は頭の上の何かが外れた気がした。心持ち体も軽いようである。
従属
独立後、直家は備前、美作、備中などの反勢力と小競り合いに及んだ。1578年に、浦上宗景が信長の支援をなくして、独自に反宇喜多勢力をまとめて、反乱を起こし、天神山城の奪還に成功したことがあったが、ほどなく、鎮圧されて、再び城も落とされた。その後、浦上宗景の行方は分からなかった。
1579年。天下の形勢は着実に決まりつつあった。織田信長である。
「織田に降る。」
抗うことの不可を悟った直家は毛利家と手を切り、織田に臣従した。今度は織田家配下として毛利家との戦いに参加した。
「(4年ほどだったか。)」
直家が独立大名として君臨したのはその程度の年月であった。彼の人生の大半は浦上宗景の家臣であり、数々の謀殺を命じられて、彼自身も謀殺を命じた。しかし、天下は最早、謀殺などが罷り通るほどもなく、強大な権力という物が出来上がっていた。そのような中でかつての主君宗景のような手段を取れば、宇喜多家など、たちまちに潰されてしまうだろう。世の中は謀の必要ない世の中へとなりつつあった。
「(空虚…?)」
備中岡山城から瀬戸内海を眺めながら、直家は思った。織田家という強大な権力に臣従してから直家は夜、寝所に入ると若干眠るのが楽になったような気がした。
死
直家の死の前年の1581年。彼は病を患いつつあった。『尻はす』と言われていた。腫瘍が出来て膿や血が流れるらしい。
「伊賀久隆を呼んでくれ。」
久隆は元、松田元輝の家臣で、直家の義弟にあたる。今では宇喜多家中で、最大の勢力と領地を誇っていた。
「わしが死んだら秀家を頼む。」
直家とおふくとの子である宇喜多秀家はこのとき数え10歳であった。その後、河原四郎右衛門の屋敷にて酒盛りの最中、伊賀久隆は毒殺された。直家の命令であったという。直家は最大勢力の久隆を危険人物と感じ、自分の死後、久隆に宇喜多家が乗っ取られないように、幼い秀家を守ろうと河原四郎右衛門に命じた。これが直家最後の謀殺であった。
1582年1月。宇喜多直家は亡くなった。死期が近づきつつあった直家は、ある日、家臣を集めてこう言ったことがあった。
「わしが死んだら誰が殉死してくれるのか教えてほしい…。」
直家の言葉に家臣らは驚いた。その内容もそうであるが、戦国乱世をシステムとして、効率良く、実利的に生きてきた主君にしてはらしくない言葉であった。その言葉には多少の人間味を含んでいた。もしかしたらそれが直家の本当の姿なのかもしれない。一同が黙っていると、一人の壮年の武士が口を開いた。花房職之である。このとき職之は数え33歳、おふくと同じ年であった。
「有能なる我ら宇喜多の臣は、殉死して命を無駄にするよりも、生きて、秀家様に忠節を尽くすことこそが本懐に存じます。」
職之は言った。その言葉通り、後、花房職之は秀家に仕え、豪勇の士として名を残した。さらに職之は続けた。
「我ら武士に死後の道案内は出来かねますゆえ、お望みならば、坊主たちを死後の道案内に捧げ奉りましょうや。」
「左様か…。わしが悪かった。殉死はしなくて良い。」
それは病による一時の弱気だったのだろうか。花房職之に言われたとき、直家は最期まで、自分は戦国乱世のシステムの一部として生きなければならないということを教えられた。
その数日後、直家は危篤に陥った。傍にはおふくや重臣たちが揃っていた。
「おふく。おふく。」
直家は妻を呼んだ。おふくが近寄って行くと、最期の力を振り絞るように、直家は必死になって言葉を発した。
「すまなかった。許してくれ…。」
それは、誰に言った言葉だったのだろうか。直家の中で、かつての妻である中山信正の娘とおふくは同一の存在となっていた。そして、その言葉は、直家が、かつて、主君、浦上宗景に言ったときのような面従腹背する謝罪の言葉ではなかった。それは宇喜多直家の贖罪の言葉であった。微かで小さなその声は家臣らには聞こえなかっただろう。
「すべて分かっていましたよ。ご安心下さい。」
おふくは答えた。後年、おふくは何故あのとき、直家の臨終に際して、直家にそのような言葉を自分は返したのか分からなかった。それは、和歌のやりとりのように自然に発せられた言葉であった。
「すべて分かっていましたよ。」
薄れ往く意識の中、微かに聞き取れたおふくのその言葉によって、今までの重く苦しかった気が晴れて、すべてが報われた気がした。世界が一変したように思えた。直家は元の宇喜多直家に戻った。責任感と罪悪感に狂しんだ直家の意識は、疑心と不信と権力争いという戦国乱世のシステムを越えて、かつて、彼が祖父、能家と父、興家とともに暮らしていた備前の砥石城へと、あの頃へと戻った。そして、そこにはおふくや娘たちの姿もあった。それが、死の間際の直家の妄想だったのかどうかは分からなかった。
累々の人々
直家の死後、家督は子の秀家に譲られた。秀家は幼かったので、執政は富川秀安や長船貞親が補佐した。
本能寺で信長が倒れた後は、秀吉に臣従した。おふくと桃寿丸は秀吉に謁見したともいうし、幼い秀家や子の桃寿丸を守るのに、天下人になった秀吉に接近するために、おふくは秀吉の側室になったとも言うが、定かではない。ただ、おふくと三浦貞勝の子桃寿丸は1584年。京都に滞在中、地震により命を落としたという。享年23歳。その後、直家とおふくの子の宇喜多秀家は成長し、豊臣秀吉のもとで五大老の一人にもなったが、関ヶ原の戦いで西軍につき、敗北。八丈島へ流刑となり、50年ほどの生活の後、83歳でこの世を去ったという。
「人鬼途を異とす。」
宇喜多直家に殉死のことを聞かれたとき、花房職之が言った言葉だという。「生者と死者はそれぞれ行く先が違う。」という意味らしい。
「詮無いこと。」
そう言ったおふくの晩年についてははっきりしない。彼女は関ヶ原の戦い前後までは、尼となり円融院という名前でどこかで暮らしていたようである。
戦国乱世のシステムの中で生かされた直家と戦国乱世のシステムの中で生きたおふく。二人は行き先はそれぞれ違ったかもしれないが、なぜか、どこかで繋がっている。そんな不思議な感覚が直家とおふくとの間にはあった。