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004.「奥様、どうしよう。着ていく服がないんです」

 サリタの朝は早い。夜が明けきらぬうちから起きて、パンや菓子を焼く窯の準備を始める。吐く息が白くなるものの、作業中は歌っていても誰も聞いていないため、気が楽だ。

 聖女宮で祈りを捧げるとき、サリタはよく歌っていた。賛美歌、故郷の歌、適当に作った歌、何でも歌った。あまり上手ではないため、人に聞かせられるものではないと自覚している。だから、一人きりのときだけ歌うのだ。


 サリタがこの街にやってきたのは、三ヶ月前。髪を黒く染めて、住み込みで働けるところを探した。パン屋の老夫婦は、雇った女が先代聖女であることには気づいていない。聖女の顔を知っている国民はわずかであることが幸いした。ワケありの女だとは思われているが、事情は聞いてこない優しい夫婦だ。

 サリタは上機嫌で窯の様子を見る。

 菓子作りが好きなサリタは、最初、パン屋の大きな窯を見て歓喜した。趣味が続けられることを心底喜んだのだ。焼き菓子を一緒に売ってもいいか老夫婦に掛け合ったのが、つい最近のことのように思える。


「おはよう、サリタちゃん」

「おはようございます。今日は少し寒いですね」

「そうだねぇ」

「昨日の残りはこれだけです」

「じゃあこっちはソーセージを挟んで、こっちは厚焼きベーコンを挟みましょう」


 パン屋の夫婦と他愛ない話をすませたら、早速パン作り。昨日売れ残ったパンに、味を付けた肉や具を入れて惣菜パンを作っていく。街では日雇いの労働者が多いため、朝は腹持ちするようなパンがよく売れるのだ。

 主人は成形したパンを手際よく窯の中に入れ、夫人が頃合いを見計らってそれを取り出す。カゴの中に入れ、店に陳列するのはサリタの仕事だ。

 開店と同時に労働者たちがやって来て、一パン一ペタルを支払っていく。店から出た瞬間に彼らがパンを頬張っている姿を見て、サリタは幸せな気持ちになる。


 そう、サリタは幸せだ。

 朝早く夜も遅い仕事ではあるが、寝る場所にも食べるものにも困らない、充実した日々を送っている。街の近くには『瘴気の澱』がほとんど出現しないため、勇者に出くわすことはない。人口が多いほうが身を隠しやすい上、サリタ好みの筋肉質な自警団員も多く目の保養になる。

 素晴らしい環境である。田舎を転々とせず、最初から大きめの街に転居すればよかったのだ。サリタは一つ賢くなった。


「サリタ、おはよう」

「あ、おはようございます、マルコスさん」


 屈強な体のマルコスは、街の自警団員。毎朝惣菜パンを二つ買って行ってくれる、自警団西支部の常連客だ。結婚適齢期を大幅に過ぎて、白いものが頭髪に混じり始めてはいるが、屈強な体躯を維持している独身者だ。今日も二ペタルを支払っていく。


「明日、定休日だろう? 俺も久々に非番なんだ。一緒にどこかへ出かけないか?」


 サリタは目を丸くする。「デートしよう」などと言ってくる自警団の客は今まで何人もいたが、具体的な話をしてきたのはマルコスが初めてだったのだ。


「サリタちゃん、行っておいでなさい。仕込みのことは気にしなくてもいいから」


 夫人からそんなふうに後押しされ、サリタは恐る恐る頷く。マルコスは大喜びでサリタの手をぎゅっと握り、「明日の朝迎えに来る」と言い置いて仕事へと向かった。


「奥様、どうしよう。着ていく服がないんです」

「あらあら。じゃあ、店が空く昼過ぎにでも買いに行っていらっしゃい」


 サリタは、幸せだった。鼻歌まで歌いながら、こんな日がずっと続けばいいと思っていた。




 自分のために服を買うのは、サリタにとっては久しぶりのことだ。聖女宮で過ごしていたときは決められた服しか着られなかったし、結婚してからは夫が服を与えてくれたからだ。未亡人になってから、サリタは自分のためにお金を使うことができるようになったのだ。

 街には仕立て屋と、既製服を売る店がある。三ヶ月で貯めたお金では既製服を買うくらいしかできない。それでも、サリタは笑顔で店を見て回る。


「わ、あ……可愛い」


 目に入ったのは、濃い紫色のワンピースだ。白い襟が可愛らしく、裾に同じ白で蔦の刺繍がしてある。このワンピースを着た自分を想像して、サリタは「悪くない」と笑う。

 しかし、試着させてもらうと、黒い髪が思いの外ずっしりと重い雰囲気になってしまう。店員も「淡い色のほうがいいかも」と言って、藤色のワンピースを持ってきてくれるほど、今の黒髪のサリタには似合わなかった。

 銀色の髪なら――そう考えて、サリタは首を振る。髪の色を地毛に戻す勇気はまだない。パン屋の夫婦にもマルコスにもまだ見せられない。

 サリタは溜め息をつきながら、藤色のワンピースを買う。ついでに予備の染粉を買おうとして、黒色の染粉がないことに気づく。


「あの、黒色の染粉はありますか?」

「あぁ……欲しい? あなた、それ、染めているの? 黒はやめておいたほうがいいわよ」


 店員は声を潜めて、サリタに忠告する。


「最近、このあたりで黒髪の女の子が立て続けに行方不明になっているの。だから、黒の染粉を売りたくないのよ。悪いことは言わないから、こっちの茶色にしておきなさい」

「じゃあ、黒と茶色を」

「あなたも頑固ねぇ。黒も一応、あるけどさぁ」


 店員は渋々店の奥から黒色の染粉を持ってきて、「本当に気をつけるのよ」と散々念押ししてくる。「どうしても黒がいいなら茶色と混ぜて使いなさい」という助言を念頭に入れて、サリタはパン屋へと向かう。

 マルコスも「久々の非番」だと言っていた。自警団員たちは休みも取らず、黒髪の女の子を探していたのかもしれない。


「早く見つかるといいんだけど」


 村だけでなく、街も物騒なことに変わりないのだろう。特に女子どもにとっては、どこにいても常に危険がつきまとう。

 聖女宮でぬくぬくと過ごしていたサリタは、聖女を引退したあとで初めて、国内における女の立場の弱さを知ることとなった。夫を失って初めて、後ろ盾がないことを恐ろしく感じるようになった。

 けれども、一人で生きていかなければならないのだ。サリタ自身の幸せのために。




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