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日常的逃避行動

作者: ゆりる

 ぼくたちの故郷は災害の多い国だと言われて育ちました。ぼくたちは絶えず地震の脅威に怯え,嵐による農作物の破壊を耐え忍んできたのです。ところが近代の科学技術の目覚ましい発展の恩恵を受け続けてきたぼくたちは,少し前まではみんなが警戒していたはずのアレを忘れていたのです。そうです,疫病です。ぼくたちの未来を唐突に不透明なものにしてくれやがったアイツはほんの少し前まではそれこそ共存していた筈なのに,みんなそんなこと,とんと忘れていたのです。


 こんなことをつらつら書いているぼくは別にこの疫病で職を失ったわけでもないし,家族を失ったわけでもありません。むしろ最も影響の薄い立場にいる一人と言っていいでしょう。そうなのです,きっとぼくの今から語ろうとしていることは別に疫病なんて流行っていてもいなくてもノンキに抱えていたに違いないものなのです。それなのにこんな前置きをしていることがぼくがぼく以外の何者でもない証明かもしれません。


 ぼくはごくごく普通の,どこにでもいるかもしれない大学四年生です。留年したわけでもなく,予定通りに単位をとり,後は卒業論文を書いて提出してしまえばそのまま卒業出来る学部生活の最終学年を本来であれば謳歌していたであろうご身分です。ただ,周りの友人たちとは少しだけ違うところがありまして,何をどう血迷ったのやら大学生活を四年では飽き足らず,もう二年間大学院生として過ごそうと考えていたのです。そのためには当然のことながら大学院入試なるものが必要ですから,そのためにせっせと受験勉強をしなくちゃいけない。これがまた辛いこと。


 今もぼくは大の苦手な英語,(大学院生は英語で書かれた論文をたくさん読む必要がありますから,そのために必要な英語の読解力があるのか試験でキチンと確認されてしまうわけで,あぁ,グローバルスタンダードの国に生まれなかったものの宿命なのだ)の勉強をしていたわけですが,これがいっこうに出来るような気がしない。そもそもどのくらい出来れば受かるのか,本当は研究で使えることが目的なはずが結局試験に受かるという目先のことにとらわれている小物です。それでも試験に受かるように無心に机に向かっていればいいのに,こうしてぐだぐだあれこれ脇道にそれて考え事をしているわけです。

 

 さっきから一体なんの言い訳をしているのか,そろそろ説明しないとここまで辛抱強く呼んでくれた皆様に失礼でしょうからお話しますと,今目に映る机の上には,へたくそな筆記体が綴られたノート,英語のテキスト,奥には漬物がよく漬かりそうな英和辞典が鎮座しているごく普通の風景が。問題はその奥にある本棚です。そこに置かれている,昨年ゼミの先生に良い本だからとおすすめされてとりあえず買ってきただけの忘れ去られていたと表現しても全く差し支えのない本が,今になって強烈な意思をもったかのようにぼくの視線,思考の中に鎮座しているのです。


 ぼくは未だかつてないほどその本が読みたくてたまらない気持ちなのです。もちろんこれは勉強に飽きたがゆえの逃避に他ならず,理性はそんなことは忘れて今目の前に書き写した英文を訳せとささやいているのです。しかしもう一人の肥大してしまったぼくは勉強をしたくないという衝動をどうにか正当化し,先生に勧められた本なのだから読まなければならないと普段先生という生き物をちゃんちゃらばかにしていることを完全に忘れ去った理屈を展開し理性に大して挑戦状を叩きつけているのです。もちろんこの戦いの間,手は止まり,思考も勉強とはまるで関係のない所に行ってしまっているわけですから全くの無駄な時間です。私は一刻も早くこの戦いに決着をつけ,なんらかの行動を起こさなくてはならないのです。


 しかし困ったことになんとぼくはこの思考遊戯に夢中になっていました。いつの間にか本を読みたい衝動から,いかに本を読む行為を正当化し,理性を説き伏せることができるかという理屈を組み立てることに目的が変わってしまっていることに気がついてしまったのです。この二つは勉強からの逃避という点ではなんら変わることがありませんが,このことに気がついてしまったからにはもはや本を読むことをこれまでの理屈から正当化させることはできないのです。なにせ,本を読む理屈を組み上げることよりも勉強をすることの方に正当性があるのは明らかなのですから。


 そうしてぼくはしぶしぶ,どうしても直訳になってしまう日本語をいかに自然に訳すことができるかの戦いに戻ったのでした。

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