表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
IJN88 〜八八艦隊の栄光〜  作者: 扶桑かつみ
22/23

フェイズ20:「後日談」

 「第二次世界大戦」の戦闘状態は1945年8月15日に終わり、戦争自体は9月2日の日本の調印によって法的にも終了した。

 1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻で始まったので、丸六年の戦争が行われた事になる。

 


 敗者となった枢軸国のうち、ナチス・ドイツ、イタリア・ファッショ政権は滅亡し、ドイツは連合軍(アメリカ、イギリス、フランス)とロシア(ソ連邦)によって分割占領されることになった。

 東欧諸国は、ギリシア、ユーゴスラビア、アルバニアを除いた全てがソ連邦軍の占領下になった。

 ポーランド、オーストリア以東の全てがソ連の占領下で、バルト海諸国もソ連邦への編入を見越した占領が続いた。

 ヨーロッパには、チャーチルが言ったように「鉄のカーテン」が降りつつあった。

 

 枢軸国の中で、日本だけが少し例外だった。

 日本の場合、軍隊は降伏したが政府は停戦したからだ。

 

 日本の終戦は、「条件付き停戦」という建前の「条件付き降伏」だった。

 日本では単に終戦と言うことが多いが、「ベルサイユ宣言」に「停戦」の文字と「講和会議の開催」が盛り込まれているし、基本的には「停戦」となる。

 

 しかし「東京講和会議」の開催まで、問題がいくつか並んでいた。

 大きな問題のうち一つはソ連邦の扱い。

 もう一つは、講和会議の参加国とそれぞれの国の主張だった。

 

 ソ連邦については、ソ連邦は連合軍だが日本と交戦状態になかった以上、会議への参加はあり得なかった。

 またソ連邦軍が、日本が終戦まで保持していた場所に入ることも許されなかった。

 ソ連邦は極めて強く抗議したが、国際的には当然の事だった。

 

 ソ連邦は会議への参加を強く求め続けたが、連合軍側はこれを断固とした態度で断った。

 ヨーロッパでの問題もあるが、血を流していない国に分け前を与えないのは、古今東西戦争の鉄則だったからだ。

 連合軍が認めたのは連合軍全体としての問題に対してのみの参加で、日本との講和に関連する交渉では発言権が一切ないオブザーバーしか認められなかった。

 

 このためソ連邦は、極東に大軍を集めて日本や満州などの国境に並べ、日本や連合国各国を威圧すると共に、中華地域に対する工作を活発化させるようになっていた。

 日本軍を挑発したり、越境するそぶりすら見せたりもした。

 これに対してアメリカも、日本海などに艦隊を浮かべて事実上対抗した。

 ただしアメリカの行動は、日本軍にソ連邦と戦わせない為でもあった。

 満州国境などにも、いち早く米軍の「日本軍監視団」が送り込まれた。

 そしてソ連と戦闘になればどうなるかを理解できた満州の日本軍なども、アメリカを受け入れざるを得なかった。

 一部ではアメリカ軍への反発もあったが、今以上に悪い結果に向かう動きを実行に移すほどの愚か者も出なかった。

 ソ連邦という重すぎる重石が、大陸の日本軍の激発を防いだと言えるだろう。

 

 もう一つの問題の参加国だが、日本と直接交戦した国に基本的な権利があった。

 具体的にアメリカ、イギリス以外だと、連合国からフランス、中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、カナダ、南アフリカ、サウジアラビア、フィリピンの11ヶ国となる。

 これらの国以外に、オブザーバーとしてタイなど日本との戦争に関わった国々が代表を送り込んでいる。

 他にもインド洋に面する国や地域に参加する権利はあったが、多くの国はせいぜいオブザーバーで満足していた。

 アメリカ、イギリスも、ヘタをすれば日本の応援に回りかねない国や地域は、少しでも減らしたかった。

 


 そして講和会議参加国のうち問題となったのが、中華民国とオーストラリアだった。

 両国とも「ベルサイユ宣言」の条件そのものに大きな不満があった。

 

 中華民国は、過去日本に「奪われた」「全ての権益と領土」の無条件返還と多額の賠償金請求権を会議の前提条件だとして譲らなかった。

 オーストラリアは、日本とはあまり直接の戦闘をしていないにも関わらず、日本政府の無条件降伏、独立の剥奪、国家の解体、連合軍による日本の全面占領、日本軍の完全解体、天皇制の廃止、天皇に対する軍事裁判など各国の中でも強硬な条件を求めていた。

 

 だがアメリカ、イギリス共に、両国の意見をほとんど採り上げなかった。

 なぜなら、日本との戦争における貢献度において両国は共に低すぎるので、勝者としての発言権が殆ど無いと判断されていたからだ。

 この事に関して両国は何度も猛抗議したが、冷静に判断してみても両国が対日戦で果たした役割は極めて限られていた。

 

 中華民国は、日本を戦争に引きずり込む原因になったが、戦争全般において日本陸軍の一部を引きつけていたに過ぎない。

 中華民国領内のうち北京、上海、広東方面だけを占領していた日本軍も、ほとんど中華民国軍を相手をしなかった。

 日本軍は、インドから補給ルートを締め上げれば十分と考えていたからだ。

 

 1945年になってインドからの補給路(支援ルート)が再開しても、中華民国政府は多くの援助ばかりを求め具体的には飛行場建設をした以外で殆ど何もしていなかった。

 多くの努力を、国内の共産党との対立に注いでいた。

 また共産党は一応国民党と和解して中華民国軍として活動したが、北京方面で限定的なゲリラ戦をしたに止まり、同じく国民党との戦いに終始した。

 あまつさえ、アメリカの支援の多くは国民党幹部の懐に消えていた。

 

 オーストラリアは、基本的に名目上であってもイギリスの自治領で、いちおう辺境部(北西部のポートダーウィンなど)が日本軍の空襲を受けていた。

 東南アジアやインドにも兵力を派遣したし、日本海軍からの通商破壊戦も受けた。

 インド洋では艦艇の損害も受けた。

 しかし、それだけだった。

 宗主国(イギリス本国)以上に何かを強く求めて良いとは、少なくとも主要戦勝国は考えなかった。

 

 両国が求めた日本全土の軍事占領や国家の解体など、既に「ベルサイユ宣言」を出している以上、国際的には戯言でしかなかった。

 

 加えて言えば、この両国は国際情勢というものを何も理解していなかったか、知っていて無視しているからこそ、米英から半ば相手にされなかった。

 

 そして両国は文句を言うだけ言って何も採用されなかったのだが、その事に不服を言うだけで会議から外れることなく、その後も半ば外野で会議を妨害するような存在となっていた。

 このため日本ばかりか、アメリカ、イギリスからも会議中は疎まれた。

 


 講和会議自体は、会議や交渉というより「被告」状態の日本と勝者にして「審判者」であるアメリカ、イギリス主導で進んでいった。

 この点は、ドイツに対して行われた「ニュルンベルグ国際裁判」に似ていた。

 

 「東京講和会議」は、連合軍が政治的な勝者としての地位を確立するため、連合軍の戦争目的である日本から軍国主義を追い出し民主化を行う事を第一の目的としていた。

 日本側の抵抗も強かったが、極端に滞る事はなかった。

 

 日本は、戦闘には負けなかったが戦争に負けたことは理解していたし、連合軍としては自らの戦争の大儀を貫くため、日本に対して押しつけなければならなかったからだ。

 

 そして会議上で問題となったのが、日本の領土についてだった。

 「ベルサイユ宣言」では朝鮮の独立だけが明記され、他は「各植民地の連合軍による占領統治」とだけ記されていた。

 今後の主権や帰属については、あえて具体的に触れられていなかったのだ。

 日本の基本的な領土についても同様だった。

 

 このため連合軍は、日本に全ての植民地の放棄、日清戦争以前の領土の保全を交渉の初期で持ち出した。

 当然、日本との間に大きな溝があり、日本(政府)が無条件降伏したのではないし、ベルサイユ宣言に明記されていない過度の要求は受け入れられないと論陣を張った。

 

 両者の議論はかなりの部分で平行線となり、結論はなかなか出そうになく、連合軍側が軍事力と国力を笠に着た行動に出るそぶりを見せ始め、一時会議は険悪なものとなった。

 

 そこでと言うわけではないだろうか、日本側は全地域で帰属を決めるための「国民投票」を逆に提案した。

 これは第一次世界大戦後のドイツでも行われた事だったので、連合軍でも提案が出された段階から肯定的な意見が出た。

 そして民意に否定されるのなら、日本の側からの植民地や領土の放棄もやむを得ないとした。

 この場合「満州国」が問題となるが、基本的に日本の「植民地」扱いとする事とされ、中華民国が主張した無条件での中華民国復帰は認められなかった。

 

 日本側から会議の場で民意を問えと言ってきた以上、自由の国アメリカとしては正面から受けて立たざるを得なかったからだ。

 それにデューイ政権は、中華民国の事を「たまたま」連合軍に属していただけの蒋介石を中心としたファッショ(全体主義)だと考えていたので、冷淡な対応に終始していた。

 また1944年の大統領選挙では、アメリカが援助した資金を民主党に寄付するなどしており、政権与党となった共和党から好意的に見られる理由が無かった。

 加えて民主党と違い、共和党自体には根拠のないチャイナ・シンドロームは少なかった。

 アメリカが中華民国対策で考慮したのは、中華共産党の存在と国民党がソ連邦側になびかないか、という点だけだった。

 


 国民投票は非常に急がれ、1946年2月11日とされた。

 

 この日は「紀元節」つまり古代日本が建国された記念日とされており、連合軍としては「日本軍国主義」の最も重要な記念日の一つに行うことで、日本に対する支持を少しでも下げようと言う意図があった。

 

 ここでは先に結果を書いてしまうが、投票の結果は圧倒的に日本残留となった。

 満州国では、「中華民国への復帰 / 日本への帰属 / 旧来の満州国の存続 / 連合軍主導の完全民主化と自主独立」と4つの選択肢が用意され、文字が読めない者の為にそれぞれの国旗や絵が記されていたが、中華民国側に印を付ける者は皆無と言えるほどいなかった。

 満州国の存続についても、満州族や関東軍(日本軍)を支持しようと言う者は少なかった。

 住民の多くが、他の地域から流れてきた漢族だったからだ。

 多くの者が、新たな支配者を選んだ。

 

 台湾や南洋諸島では、圧倒的に日本残留が多かった。

 台湾では、中華民国に「併合」されるぐらいならという点で、日本残留を求める大規模なデモが実施された程だった。

 台湾で最も求められた声も、日本からの自主独立や完全民主化ではなく、日本に属しつつの大幅な権利と自治の拡大だった。

 アメリカの占領統治とアメリカ主導の独立の賛成票も多かった。

 

 この結果、満州は連合軍の占領統治と民主化事業を経た上で、もう一度民意を問う事に決まった。

 民意が中華民国への復帰を拒むので、日本の支配を薄れさせた後でもう一度国民投票を行うという建前で、問題を先延ばしにした形だった。

 台湾は、半ば住民の反対を押し切る形で連合軍と日本の間に条約が結ばれ、自主独立を目指した連合軍による占領統治とされた。

 だが、ごく少数のスタッフを除いて、中華民国の介入は認められなかった。

 台湾問題は、歴史的に中華民国の問題ではなく日本と連合国の問題とされたからだ。

 ヨーロッパ世界のルールから見れば、停戦した国家相手に半世紀前の問題を持ち出せなかったという事だった。

 

 ただしアメリカは、中華中央部進出のために台湾や満州を占領統治の間に橋頭堡に仕立て直す積もりだった。

 このため非常に力の入った占領統治と支援、援助を実施する事になる。

 アメリカは戦争によって、遂に念願だったチャイナ世界への橋頭堡を手にしたのだ。

 満州のGHQ総司令官には、インド戦線で活躍したダクラス・マッカーサー将軍が就任した。

 

 日本の委任統治領だった南洋の多くは、いったん国連委任統治領とされるも、第一次世界大戦後に確定した日本の領土はほぼ保全されることになった。

 現地での日本を「悪」としたアメリカによるスクラップ&ビルドも、実施自体が否定された。

 これは、政治的に日本が守りきった事への報償的意味合いがあったが、アメリカやイギリスの関心が薄かった現れでもあった。

 

 南樺太(南サハリン)については、ソ連邦の問題もあるので特に何事も問われず、そのまま日本領とされた。

 

 また、それぞれの地域に住む日本人には、公平な審査を経た上で財産を認めた上での各地域への帰属か、日本への帰国の選択が行われた。

 

 中華民国に即時返還されたのは、占領地以外では上海など中華各地の租界ぐらいで、この決定に中華民国(代表)は激怒して会議を退席する事になる。

 

 そしてその後も日本は、「ベルサイユ宣言」と「東京講和条約」に従って大幅な改革と変革を余儀なくされていくが、概ね問題なく進んでいった。

 軍備についても同様で、既に国家が実質的に財政破産している状況で大量の軍備が保持できない事もあり、ほぼ全て連合軍の言葉を受け入れることになる。

 日本軍のあまりの唯々諾々ぶりに、連合軍代表達が首を傾げたほどだった。

 


 会議の後、軍備の廃棄と縮小は連合軍の監視のもと条約発効から半年以内とされ、日本軍自身の動員解除(=復員)と共につつがなく進められた。

 警戒した連合軍が拍子抜けするほどだった。

 あれほど荒れ狂った日本の軍艦達は、武装を降ろして各地の復員事業に従事した。

 復員事業は、多くの艦艇にとって日本国から与えられた最後の任務だった。

 

 だが、日本の軍縮には後日談があった。

 

 ファーイースト(極東)でソビエト連邦ロシアの膨張を低コストかつ効率よく抑えるためには、アメリカとしても日本を利用する方がはるかに得策であり、スターリンは日本の海軍を殊の外恐れていたからだった。

 アメリカ人は、日本はロシア人に対する「蓋」だった事を、その場に立って初めて気付いたのだ。

 この事は、満州に踏み込んだマッカーサー元帥からの報告でも、強く指摘されていた。

 

 またコントロールが難しい中華民国に対しても、アメリカがコントロールする日本軍には利用価値があると考えられた。

 加えて言えば、アメリカ国内で自国の海軍は頼りにならないという評価が多く、それならば凶暴な日本人を替わりに使えばよいだろうと考えられていた節が強い。

 

 このため終戦直後は「一方的軍縮」に従って殆どが廃棄予定だった日本海軍の大型艦艇、つまり「八八艦隊」の退役・解体は連合軍による調査などを名目にしてすぐにも待ったがかかり、その他生き残った艦艇と共にかなりの数が生き延びる事となる。

 兵器での賠償についても、他国の大型艦を運用するのが難しい事もあってほとんどが中止された。

 そしてその後の日本軍は、以前よりも大きく縮小こそするも、海上戦力を中心として再編成と呼ぶべき変化を経験していく。

 

 とはいえ、これはあくまで後日談の話しだ。

 


 なお、日本自体の戦争被害は、第二次世界大戦に参加した主要各国の中で少ない方だった。

 人的被害では、戦死者は50万人を少し越える程度だった。

 死者(戦死者)のほとんどはインドで発生し、次が原爆、そして艦船での死亡者(民間人含む)の順となり、後は中華戦線、戦争初期の東南アジア地域、戦争終盤の空襲と続く。

 つまり日本軍は、陸ではほとんど戦わず、海での戦いが中心だったことを現している。

 

 戦争被害が少ないのも、本国がほとんど戦場とならなかった影響が極めて大きい。

 本国の被害も限定された地域(九州北部)が空爆を受けただけで、原爆投下さえなければ民間人の死者はほとんど船舶乗り組みだけとなる。

 マリアナ諸島ですら、民間人の死者は無かったほどだ。

 このため日本国内では、いっそう原爆被害が戦後強調される事となってしまった。

 

 日本軍の戦闘の主軸はあくまで海軍であり、200万人以上動員された陸軍は、初期の東南アジア侵攻を除けば、インドと南洋の一部以外では激しく戦う事がないまま戦争を過ごした。

 中華戦線も数カ所の大都市近辺で防備を固めていただけで、占領以後は戦闘らしい戦闘はほとんど無かった。

 中華民国を軍事力で直接屈服させる動きに出なかったのは、日本陸軍にそれだけの軍事力が無かった事と、インドからの補給路を封じて戦略的に兵糧攻めをして降伏するのを待っているうちに戦争自体が終わってしまったという理由が大きい。

 

 太平洋方面では、規定の方針に従って自国領のマリアナ、パラオ、トラックから前に進むことは無く、ニューギニア近辺のビアク島を占領した程度でしかなかった為、連合軍の方が反攻作戦では大きな苦労を強いられる事となった。

 

 日本の戦争は、インドで攻めて太平洋で守る戦争だった。

 


 また戦後よく言われる日米(+英)との損害の差だが、基本的に日本海軍が制空権、制海権のある場所で大規模な戦闘をする事が多く、さらに戦場でも敵を各個撃破できる状態が多かったため、日本側の戦果が多く、そして残存率も高くなった。

 

 日本海軍は27隻の戦艦を投入し、その全てが残存した。

 大型空母も4隻(+改装空母2隻)のうち、戦没艦は2隻に止まっている。

 しかも軽空母も含めた空母の喪失は、護衛空母を除くと実質的な最後の戦闘だけだった。

 

 対して連合軍は、アメリカ海軍はダニエルズ・プランの戦艦群のうち、戦争を乗り切ったのは僅かに2隻なので14隻が戦没した。

 それ以前に就役した旧式戦艦も9隻が沈んでいる。

 ほぼ全滅という有様だ。

 戦争中に新たに投入した4種類12隻の新造戦艦も3隻が失われた。

 合計して26隻という、日本海軍の総数に匹敵する数を失っている。

 イギリスも、日本海軍との戦闘で8隻の戦艦を喪失している。

 アメリカ海軍は空母も多く喪失しており、戦没艦は空母7隻、軽空母5隻になる(※護衛空母は割愛)。

 

 巡洋艦は開戦時に重巡洋艦18隻、大型軽巡洋艦9隻あったが、約半数がインド洋での戦いの序盤までに戦没し、新型が就役する1944年下半期に入るまでやり繰りに非常に苦労することとなった。

 大型の巡洋艦は日本海軍もちょうど半数を喪失しているが、大量喪失がほぼ最後の戦闘だったのでアメリカの不利の方が大きかった。

 

 戦術的には、日本海軍が勝者なのは間違いないだろう。

 

 一方戦略的な戦闘面だが、これも洋上だと日本軍の判定勝利といえる。

 日本海軍は、島で囲まれた東南アジア地域の各海峡を機雷で封鎖することで連合軍の潜水艦を締め出し、アメリカ海軍の潜水艦の実に30%は機雷によって沈められたと考えられている。

 その数は、実に60隻にも及ぶ。

 旧式の敷設機雷だったが、アメリカ海軍の潜水艦は新型も旧型も関係なく人知れず沈んでいった。

 日本側が仕掛けた通商破壊戦も、インド洋の一時的な封鎖とインド洋での大規模な通商破壊戦によって、戦略的にも大きな成果を挙げて戦況にすら影響を及ぼしたので、こちらも成功と判定してよいだろう。

 対して連合軍は、戦争中盤以後のインド洋でこそ物量で押しつぶす形で成功させたが、日本海軍が最初から守りを固めた西部太平洋、東南アジア地域では限定された成果しか得られなかった。

 

 こうした戦争展開を、ドラゴン頭の巨大な亀に翻弄されるカウボーイという風刺画で表現したものがあったが、かなり的を得ていると言えるだろう。

 


 かくして日本の戦争は終わったが、世界は次の時代を目指して激しく動いていた。

 

 そして、日本が無条件降伏ではなく停戦で戦争を終えることが出来た世界情勢が、日本を否応なく混沌の渦に巻き込んでいった。

 

 まず問題だったのが、アメリカ、イギリス、フランスなどとソ連邦の関係が戦争中に対立状態となった事だった。

 戦争中ばかりでなく、戦後にも大きな影響が出ていた。

 

 最初に問題となったのが、新たな国際機関である「国際連合」の枠組みをどうするかだった。

 

 「国際連合」は戦争中に作られた組織で、基本的には「戦勝国」を中心とした組織だった。

 このため常任理事国には、主要戦勝国が選ばれることになる。

 だが、主要戦勝国選びが問題となった。

 アメリカ、イギリス、ソ連邦までは全く問題がなかった。

 だが、それ以外となると「主要」とは言い切れなかったからだ。

 とはいえ、常任理事国がたった3カ国では、世界中から組織の独占だと強い非難を受けてしまう。

 このため、戦争終盤でようやく祖国を奪回したフランスを、様々な問題を見なかったことにして入れるにしても、それでも4カ国で、しかも白人国家ばかりとなって国際組織として体裁が悪くなる。

 かといって、枢軸国のドイツ、イタリア、日本を入れるわけにもいかない。

 戦争中に作られた国連の条文内には、「敵国条項」というものもあったからだ。

 

 中華民国は、自らこそが常任理事国に相応しいと名乗りを上げ続けていたが、聞く耳を持つ国はほぼ無かった。

 戦争では、ほとんど何もしてないから当然だった。

 アメリカも、表面上のリップサービス以外では相手にしなかった。

 それに連合国各国は、我が儘すぎる国がこれ以上常任理事国になる事は避けたいとも考えていた。

 

 そうした中で選ばれたのが、まだ正式に独立していないインドだった。

 インドは戦争中盤以後主戦場の一つとなり、国内にも大きな損害を受けた。

 枢軸側に荷担した者も数多く出たが、最後まで連合軍として日本軍とねばり強く戦い続けた。

 開戦前にいくつかの大都市が占領された後、ほとんど何もしなかったどこかの国よりも、戦争貢献度はずっと大きいと考えられた。

 そして何より、インドは多民族による有色人種国家だった。

 

 かくして、インドが5つめの常任理事国に選ばれる事となった。

 

 しかし常任理事国には、もう一つの問題があった。

 ソ連邦が戦争中から主張していた、常任理事国の「拒否権」だ。

 ソ連邦は常任理事国が責務を果たすためには必須だと訴えたが、戦争終盤の連合軍とソ連邦の不和から、この事項を決めるための会議を開催することが叶わず、最後まで決まることが無かった。

 

 そして戦争終盤のこじれから、アメリカ、イギリスとしては常任理事国に拒否権を与えるという事案を承諾する事が出来なかった。

 このため、常任理事国には通常の会議と安全保障理事会双方で2票分の権利を与える事でまとまった。

 ソ連邦はなおも拒否権を求めたが、結局叶うことはなかった。

 しかし常任理事国に拒否権を与えなかった事は、その後世界中で賞賛される事となる。

 

 なお、国連における日本だが、降伏ではなく停戦とはいえ連合軍の「敵」だったため、常任理事国はおろか初期の参加すら認められなかった。

 自主独立を保っていたのだが、第二次世界大戦の全ての結果が出るまで国際政治への参画、つまり国連参加を認められなかったからだ。

 とはいえ、日本に対する仕打ちは、基本的に嫌がらせでしかなかった。

 「敵国条項」も長らくそのままだったし、諸外国の日本を見る目は非常に厳しかった。

 

 だが、それでも日本は、ソ連邦に対する極東の防壁、中華民国に対する重石としての役割を新たに与えられ、アメリカを中心とした世界情勢の枠組みの中で歩んでいくしかなかった。

 そしてこの事は、中華民国とソ連邦がその後関係を深くする事で補強され、日本を否応なく冷戦の中心へと引き込んでいく事になる。

 


 なお日本は、長い戦争によって国庫が破綻していた為、否応なくアメリカを中心とする経済圏に属さざるを得ず、またアメリカからの実質的な支援と援助がなければ国が立ち行かなくなっていた。

 実際、日本が主に国民に対してうずたかく積み上げた国債、戦争債に関しては、国内での殆どデフォルト(債務不履行)と言えるほどの通貨切り下げを実施している。

 

 ドルに対する円の価値は、1930年代半ばで1ドル3円半ばから4円、1941年の開戦時で約10円とされるが、戦後半年足らずで30円にまで下落。

 その後乱高下を繰り返して、1948年に1ドル=36円に固定されるまで混乱が続くこととなる。

 日本国内の物価も大きく上昇した。

 だが結果として日本政府の借金は実質十分の一に目減りし、ようやく国を立て直すことが出来る目処が立つようになっている。

 この程度で済んだのも、日本列島での戦災がほとんど無かった事と、植民地、満州での権利を完全に失わずに済んだ影響が大きい。

 移民者の半数以上が帰国しなかった事も、むしろ日本経済の安定に寄与した。

 

 それでも国庫は一度破綻したため、軍縮に寄らず日本の軍備は大きく縮小される予定だった。

 サムライと違って、人々は食べていかねばならないからだ。

 

 なお、戦争を無事戦い抜いた「八八艦隊」を中心とする日本の戦艦群だが、講和条約が結ばれた時に日本が戦力として保有が認められた戦艦は、基準排水量で20万トン分。

 建造が新しい《大和型》だけしか保有できない量だった。

 基本的に「八八艦隊」の16隻全ての戦艦が、賠償予定か退役・解体される事となった。

 それより旧式艦は、問答無用で退役、解体状態だった。

 この措置は連合軍が強く求めたもので、基本的には幼稚な感情からくる復讐の一環でしかなかった。

 

 そして賠償だが、日本の戦艦や巡洋艦を欲しがった国は多かった。

 しかし戦艦を運用、維持、管理できる国は、世界的にも限られている。

 大型戦艦となると尚更だ。

 そして何より、《大和型》《富士型》が入渠できるだけの整備用ドックを持つ国は、日本以外にアメリカしかなかった。

 《紀伊型》《高雄型》《天城型》だと、辛うじてイギリス、フランスが可能だが現実的では無かった。

 中華民国は最低4隻の戦艦の賠償を要求したが、整備ドックを含めた維持能力が全く無かった。

 

 「八八艦隊」の戦艦群は、戦闘力に応じた巨体の持ち主ばかりだった。

 そして巨体相応に維持費がかかり、さらに賠償を受けた国は自国風への改装費用も必要となる。

 戦後軍縮の中にあって、屑鉄以外での価値はほとんど無いというのが現実だった。

 

 そして現実問題以外にも、アメリカが戦艦を賠償とする事に難色を示した。

 無用の軍事力の拡散に繋がると考えられ、アメリカの不利になると考えられたからだ。

 このため建造の新しい戦艦については、日本政府に保管を命じるにとどまった。

 アメリカも技術調査のための一時接収は実施したが、賠償として受け取ることはなかった。

 それにアメリカ海軍は大幅な縮小を予定していたので、残った自国の戦艦だけで十分な数と戦力があった。

 また感情論で言えば、戦闘では勝てなかった相手の戦艦を賠償で受け取ることは出来なかった。

 

 結局、日本に対する賠償に関しては、兵器による賠償に制限を設ける事を条約に盛り込み、多くの艦は屑鉄の売却代金として各国の賠償に充当されることとなった。

 各国が本当に欲しかった巡洋艦ですら対象外とされた。

 

 そして日本政府は、最初の講和条約の時点で軍縮枠外でも何隻かは予備役編入や練習艦格下げは形式上許されていたが、現実論として殆どが退役させざるを得なかった。

 戦後の厳しすぎる国家予算、軍事予算から考えて、無理して維持してもまともに動かせる状態ではなく、無為に朽ち果てさせるだけだったからだ。

 だが、実質的な「八八艦隊」の全艦退役は明らかに日本に対する当てつけであり、賠償で生きながらえさせない事がアメリカとしての一種の復讐だったと言えるだろう。

 

 このため、関係者を集めた式典が何度も行われ、戦争を生き抜いた艦艇たちは退役していった。

 


 だが戦後の米ソの関係があるため、退役後の処分はアメリカからの要請で処分未決という形で引き延ばされ、耐用年数が過ぎた旧式艦から解体などが実施されていった。

 また連合軍は、武装解除後、退役後の扱いには比較的寛容だったため、その後記念艦などで残ることが出来た艦もあった。

 艦そのものが残らなくても、砲塔やマスト、備品などを残した事例もあった。

 このため一時各鎮守府の保管庫が、退役艦艇のパーツや備品で満杯になっていたほどだった。

 

 しかもそれ以前に、ソ連邦と欧米諸国の関係、ソ連邦と中華民国の関係、そして極東情勢全般の関係で、日本の軍縮については早期に待ったがかけられる事となった。

 そして最終的には、日本の軍備は日本政府の選択に任されるという形で、事実上白紙化された。

 「八八艦隊」の艦艇も、かなりが一時的に退役したり予備役に編入されるも当面は多くが解体を免れ、そして艦の年齢が若い艦艇を中心にしてかなりの数が再び大海原の舞台へと復活する事になる。

 

 そして戦後の日本軍自体は、1950年に中華民国の侵攻で勃発した「満州戦争」で本格的に息を吹き返し、新たな「八八艦隊」の歩みも始まっていく。

 

 しかし、日本という国家が「八八艦隊」のような大艦隊を保有することは無く、「八八艦隊」は日本という近代国家の一つの頂点であると同時に、時代のあだ花として人々に語り継がれる事となった。

 


 では最後に、日本海軍の主要艦艇のその後の概要について触れて、終えたいと思う。

 




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] >アメリカ国内で自国の海軍は頼りにならないという評価が多く 政治家や政府・官僚(特に財務)からすれば、 「あれだけの金を注ぎ込んでやったのに、要望聞いてやったのにこの結果かっ!?」 ってな…
[良い点] 海戦シーンが迫力満点で面白かったです [気になる点] 史実より予算面で不遇だったのに史実で間に合わなかった烈風が登場したところかな。 [一言] 八八艦隊の戦艦よりも条約派の粛清がなかったの…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ